わたしに流れる赤川 第四話
「あぁ、クドウ ユキヒコを探しているのはあんただったかな」
指の先の感覚はまだ現実に戻ってきておらず、眠気まなこで「はい」と答える。
「この辺はクドウって名字が多いから、どこのクドウさんか調べるのに時間がかかったよ」
先ほどの眼鏡の男性の後ろから、すすけた作業服の男性がめんどくさそうな顔を出す。その作業服の胸に白い布製の「工藤」という名札が縫い付けられていた。眼鏡の男性はその人を顎で指し、こちらを一瞥してから奥の部屋に戻っていく。
「あんた、ユキヒコの知り合いなんか?」
「はい、お世話になってます」
作業服の男はどこかユキヒコさんと似た眼差しを持っていたが、父親なのかそれとも親戚なのか、見当もつかない。ただ、その顔を見てなんとなくその後にくる答えを予想してしまった。
「そうか。ユキヒコはな、東京から戻ってきてないぞ」
「……そう、ですか」
「大きな空襲があったろ。あれから連絡がないんだ」
「……わかりました、ありがとうございます」
「わりぃな」
その男性はそれだけ言い残し、首を縮めて去っていった。
――あれから連絡がないんだ。
その言葉が、わたしの頭の芯であの空襲警報のように響き渡った。あの人は、火に食べられてしまったのだろうか。顔を赤らめたユキヒコさんをてらてらと照らしていたいつかの夕陽のように、轟々と燃え盛る敵国の作り出した火に。
鬼を退治してまで手に入れたかった未来なのに。先ほどまで焚きついていたわたしの心は、現実を突きつけられさめざめと温度を失っていく。
隣に立つヒロシさんは、行き場を失ったわたしを心配するような表情を浮かべていた。
「知り合いって、あの丁稚のことなんか?」
わたしはその質問には答えず、にこりとだけ笑った。
「あの空襲じゃもう……」
自分が焼き殺したであろう夫婦の息子に、わたしは今憐れまれている。利用されていることも知らず。その滑稽さに、声もなく笑い出しそうな衝動を必死で堪えながら唾を飲み込む。けれど、先ほどまで口の中にあったはずの干し芋の甘みは、もうどこにも残っておらず、ただひたすらに、強い喉の渇きだけがぶり返していた。
結局、わたしたちは身寄りのない夫婦のような顔をして、そのまま松尾鉱山に居着いた。事務職員の「ここで働くか?」の一言で職を持てることになり、ヒロシさんは鉱夫として硫黄を採掘し、わたしは飯場で働くことになった。
顔を黒くさせ、仲間と飲みもせず真面目に給金を持ち帰ってくる男に次第に情を抱きかけるが、そのたびに「ナッちゃん」と呼ぶあの声の記憶がわたしの耳をくすぐる。
季節はめぐり、夏の暑さが緩んでくるころ、日本は終戦を迎えた。依然としてユキヒコさんの消息は不明だった。
ヒロシさんは、あの鬼がわたしの部屋の戸を叩いてくる頻度でわたしを求めた。女中部屋にいたときのようにぴたりと息を潜めるが、狭い部屋じゃどんなに暗かろうとすぐに見つかってしまう。
彼の四肢は宵闇のようにわたしへ重くのしかかり、この男が存在をしていることを痛いほどに示した。
わたしは毎度その嵐が過ぎ去ってくれるのを、月明かりで申し訳程度に照らされる天井の木目を数えながら、待つ。
「今度、鉱山に大きなアパート建つらしいな。そしたら俺たちもそこに住めるな」
「そうなの、すごいわね」
「なんでも、四階建てで最新設備とやらが入るらしいぞ」
「そう」
良いとこに住めようが、たらふく食べられようが、心底どうでもよかった。川が流れるよう、ただ、日常を送った。上流から流れてくる水を受け入れ、何事もなく下流に流すように。
それからもわたしはこの山から離れることができなかった。知らない土地に若さを奪われようとも、鬼の息子に抱かれようとも、この世にあるユキヒコさんの片鱗と少しでも繋がっていたい。
鉱山に住み始めいくつもの季節を越えた頃、身体に違和を感じた。寝ても覚めても船酔いのような感覚が抜けず、いつこの船から降りれるのだろうと数週間も沖に出る漁師に気持ちを重ねる。
鉱山内に病院はあったものの、噂にならぬよう山の麓の病院へバスで向かった。車体がガタガタと揺れるたびに胃液がむせあがり、わたしの身体に起こる異変をはっきりと浮かび上がらせる。
医者に「ご懐妊です」と言われ、やはりそうかとどこか諦めた気持ちになった。喉をのぼってくる生温い胃液を飲み込み、お祝いの言葉へ機械的に「ありがとうございます」と返す。
医者が出産までのことをボソボソと説明しているが、その言葉の羅列はお経のよう聞こえ、昨日までのわたしの弔いのように思えた。
鬼の息子を利用し、好いた男を失ったなれ果ては、これなのか。好きでもない男のやや子を腹に宿してしまったのは、何の罪にあたるのだろうか。
腹部に手を充て、これは愛情なのか、哀れみなのか、歓喜なのか、憤怒なのか尋ねる。当たり前のようになんの反応もなく、手に伝わるのはただわたしの身体が生み出す鼓動だけ。
感じたことのあるすべての感情がない交ぜとなり、それらがお腹の子と一緒に手を取り合って、わたしの子宮をぐるりぐるりと泳いでいる絵を浮かべた。それでもヒロシさんはきっとあたたかい手でわたしを包み、喜びという一つの感情だけをわたしにぶつけるのだろう。
次のバスまで時間がある。船酔いの感覚と溢れ出る胃液を紛らわせたく、足に身を任せひたすらに歩みを進めた。
ある川に辿り着き足を止める。思わず息を呑み、欄干のない橋の前に川水と触れそうなくらいの距離でへたり込んだ。
さらさらと流れる清流なんかじゃない。どろりとした、鉄と硫黄の匂いが鼻をつく、まるで生々しい傷口から溢れ出たような不吉な赤。その赤茶色の水たちがどうどうと迫り来るように流れていた。
呆然と立ち尽くすわたしの横を、地元の老人が通りかかり、わたしは吸い寄せられるように、その赤色の川を指差す。
「これ、どうしてこんな色をしているんですか」
老人は足を止め、川を一瞥すると、低く濁った声で教えてくれた。
「ああ、これか。『赤川』と言って、鉱山の毒が混ざっとる川なんだわ。もう透明には戻らんだろうな」
老人はそう言って立ち去った。瞬間、あの列車の中で反芻した、くらくらするほどに甘いくるみゆべしの味が口の中をじわじわと広がっていった。
あぁ、これはわたしだ。あの夜寝室の戸に木を立てかけ、東京の業火に鬼たちを葬り、赤い夕陽を背負ったユキヒコさんを裏切り、鬼の息子と子を成してしまったわたしそのものだ。
「あぁ、あぁ」
東京の業火から流されるように生きて、取り返しのつかないところまで来てしまったことにようやく気づく。わたしは戻れない、戻れないのだ。
この濁った赤い川のほとりで、ユキヒコさんの「不在」を呪いのように抱きしめて生きていくのだ。存在しないあの甘みを、一生、喉の渇きと共に愛し続けながら。
◆
「そろそろ仙台に着く頃ね。お嬢さん、聞いてくれてどうもありがとう」
「……あの、ユキヒコさんとは上野から会えなかったんですか?」
「そうね。でも、そろそろ会えると思うわ」
「それは、よかったです」
「ねぇ、あなたは、あなたの好きな人に会えるのかしら?」
「……」
わたしが答えられないでいると、老婆はやさしい微笑みを浮かべ、「ちょっと」と席を立ちどこかへ消えた。彼女の話の壮絶さに、手に汗を握る。
老婆が自身の情念を重ねた川は、わたしが琥太郎と資料館で見た八幡平の赤川であった。
手を広げ、昨日塗ったボルドー色のネイルに目を落とす。隙間なく爪を埋めたつもりが、人差し指だけ米粒程度剥げていた。車内は変わらず鉄のような硬い匂いに満ちていて、自分が機械の中に閉じ込められていることを認識する。
老婆は悪いことをしたのだろうか。
罪の告白をしたつもりなのだろうか
これは、ナツコさんなりの恋物語なのではないか。
「お客さまにご案内いたします。ただいま、緊急停止信号を受信しました。列車はまもなく緊急停止いたします。危険ですので、座席にお座りください」
このままわたしは琥太郎の結婚式に行くべきなのだろうか。わたしはこのまま、十八歳の琥太郎の亡霊を愛し続けられるだろうか。
琥太郎と岩手で廃墟めぐりをした十八歳の夏。琥太郎の前髪はさらさらと風になびいていた。
その日は、山奥のホテルに泊まった。ホテルの外は烏の濡羽色のような闇が満ちていたが、その闇に抵抗するよう空には星の光が散らばっていた。堂々と浮かぶ月がスポットライトのようにわたしたちを照らす。
二人で夜の散歩をしながら、たくさんのことを話した。小さいころ、琥太郎をさんざん泣かしていたこと。琥太郎がわたしを睨んでいたこと。どうでもいいこと、どうでもよくないこと。
「ねぇ、小夜ちゃん」
「うん」
「俺はね、たぶんずっと小夜ちゃんのことが好きだよ」「……うん、ありがとう」
わたしの方を向いた琥太郎が、空いている手を伸ばしてくる。重なったのは、まだ繋いでいなかったもう片方の手。
「だけどね、ずっと一緒にはいられないよ」
「……どうしてそんなこと言うの」
「だってさ、俺のお母さんと小夜ちゃんのお母さんは姉妹だろ。やっぱり、だめだよ」
琥太郎の声は諦念を含んだ輪郭のやわらかいもので、脳裏をやさしく刺激した。
「でも、結婚できるじゃん」
「法律的に可能とかそういう話じゃないんだよ。やっぱりさ、血が繋がってるのはだめだよ」
そう言うと琥太郎は少し笑って、右頬にはえくぼができていた。彼のえくぼを見るたびに、笑顔を見れる喜びと途方に暮れた怒りが同時に湧き起こる。
母なのか、叔母さんなのか、琥太郎なのか、いや、わたしか。琥太郎にこんなことを言わせた誰かを殴りたい衝動に駆られ、それは涙としてわたしの身体に現れた。
「人間なんてさ、辿れば皆血が繋がってるでしょ。それがちょっと人より近いだけじゃん。わたしたちが好き同士ならいいでしょう?」
「……小夜ちゃん、俺のこと好きでいてくれてるの?」
「ばかなの、今そういう話してるんじゃないでしょう!」
場違いな喜びの声をあげる琥太郎に、思わず声を張りあげる。静かな山にわたしの声は吸い込まれていく。
わたしにとって涙と怒りは、雨と雷のように同時に起きてしまうようだった。
「そういう話だよ。ねぇ、俺のこと好き?」
「好きだよ、好きに決まってんじゃん。大好きだよ。ふざけんなよ。なんでいとこなんだよ。母さんも叔母さんも誰もいないどこかへ逃げようとか言ってよ」
琥太郎は言わなかったが、叔母さんがわたしたちの仲を嫌がっていたことは知っていた。それは、どうしようもないことだった。
叩きつける夕立のようにわたしの涙はとめどなく溢れ、それでも親を悲しませてまで二人で逃避行する勇気もなくて。
「ごめんね、来世は全然違うところに産まれようね」
「何に謝ってんだよ、琥太郎のばか」
琥太郎もわたしにつられるよう涙を浮かべ、わたしを固く抱きしめた。
「小夜ちゃんが好きって言ってくれたこと、大事にするね。俺、忘れないからね」
その夜、二人で手を繋いで寝た。わたしたちの手の中は、いつかのようにサウナにはならなかった。
琥太郎はすぐに寝息を立てた。
眠りにつけず、月明かりを頼りに天井を見つめる。そこには、わたしたちの思い出がモノクロ映画のように映し出された。眠っている琥太郎と起きているわたしで、あの小さな映画館にいるかのよう。
よく校門で待ち合わせ、自転車で帰路をたどった。いつも琥太郎はわたしのことなんて気にも留めず、スピードを出してぐんぐん先へ行ってしまう。
坂、緑、雲、風。
「全然待ってくんないじゃん」
「えっ嘘、ごめんごめん」
信号につかまり、ようやく離れていたことに気付く琥太郎、怒るわたし。
初めてデートらしいことをした水族館。
大きな水槽には滑稽な形の鮫、奇抜な色の魚たち、エイリアンみたいなマンタ。海の生き物たちは自分たちの好きな方向に、好きな速度で漂っていた。
たしかあの日、産まれたばかりのペンギンの名前が応募されていた。
「俺の名前にちなんでコタツにする」
「なんか可愛いね。わたしペン子にしよ」
「これ、オスらしいよ」
結局そのペンギンはどんな名前になったのだろうか。わたしはもう、確認する術がない。
二人で神社に行ったときに目撃した結婚式。参道に、白無垢を着た真っ白い肌の女性と、黒い袴を着た男性が堂々と歩いてた。その日は、しっとりと服を湿らせる小糠雨が降っていた。
「ねぇ、わたしが言ったこと覚えてる?」
「何を?」
「琥太郎がわたしを睨むきっかけになったこと」
「あぁ、うん。覚えてるよ」
なんとなくわたしは傘を差さず、琥太郎と手を繋いだ。わたしたちの間に溜まった少量の水滴は、じわじわと温度を高めていった。
「琥太郎、琥太郎、琥太郎」
天井に映し出される思い出を観ながら、彼の名を読んだ。しかし、それは虚しく部屋に響くだけで、琥太郎はささやかな寝息を立てている。
わたしたちの手は、いつのまにか解かれていた。
