【お詣りいこか。】第16回 下御霊神社
鳴海餅本店のぽちこらむ 『お詣りいこか』。
京都に行ってみたくなる一つの理由になれば、これ幸い。
今回向かうお社は、、、
前回の御霊神社の南にあることから下御霊神社と呼ばれ、
京都の人たちから「下御霊さん」と親しまれる、京都御所の産土神として崇敬を集める神社でございます。
御霊神社と同じく、八所御霊としてお祀りする事で御神徳が高まると考えられ鎮座された社です。
そしたら、さっそく、お詣りいこか~。

下御霊神社について
◉創祀
平安時代初期、神泉苑で行われた御霊会を起源として、御所の鎮守として創建されたと言われています。
当初は、出雲路と呼ばれる加茂川西岸一帯の地域に建立され、御霊神社より南にあることから「下御霊神社」とよばれるように。その後、豊臣秀吉の都市整備に伴って西園寺実氏の別荘・常盤井殿があった地に遷座し、現在にいたります。

下御霊神社のご本殿は、天明の大火で焼失した後に、仮皇居の賢所を寛政3年に移築したもの。
ちなみに賢所とは、皇位継承の御証とされる「八咫鏡の別御霊」が奉斎されている御殿のことを。
つまり、皇祖 天照大御神がお祀りされていた御殿。
今もなお、宮中に鎮祭されている御鏡が仮とはいえ祀られていた御殿であると考えると、より神聖な本殿に見えてくることでしょう。
また、江戸時代に大嘗祭などの朝儀を復興された霊元天皇は、崩御の後は下御霊神社に祀るよう御遺勅されるなど、皇室の崇敬篤いお社であることがわかります。
◉御祭神について
御祭神:八所御霊、霊元天皇(相殿 一座として祀られています)
◆本殿八座
・吉備真備:
菅原道真と並ぶ奈良時代の大学者、二度にわたり入唐し、その知識を政治文化に反映させた政治家でもありました。吉備真備の功績は、岡山県の吉備町の町名につけられるほど。成功した人物でもあるため、御霊には当てはまらず、六座の御霊の和魂(にぎみたま)として祀られています。
・崇道天皇:
平安京が開かれる9年前に起きた、長岡京造営長官の藤原種継が暗殺事件を裏で引いていたとされ、皇太子を廃され乙訓寺に幽閉された桓武天皇の弟君。無実を訴え10日余り一切の飲食を絶って抗議しますが、途中で絶命。非業の死を遂げました。その後、桓武天皇の周辺で不幸が立て続けに起こり、親王の祟りとされました。崇道天皇の号は桓武天皇は親王への贖罪の意味を込めて贈られたものです。
・伊豫親王:
奈良時代の終わりから平安時代のはじめにかけての皇族で、桓武天皇の皇子。桓武天皇から深い寵愛を受けていましたが、「謀反の罪」を着せられてしまい川原寺(弘福寺)に幽閉されます。飲食をさせてもらえず、ついにには毒を飲んで命を絶たれたと伝えられており、同じく幽閉された母の藤原吉子と共に祀られています。
・藤原広嗣:日本史上最初期の怨霊の一人
藤原広嗣は、権力者・藤原不比等の孫として生まれましたが、不比等の子である「藤原四兄弟」が天然痘で相次いで急死すると、藤原氏の勢力は衰退します。代わって台頭したのが橘諸兄でした。広嗣は、諸兄が重用した吉備真備や僧・玄昉(げんぼう)の排斥を訴えますが、これが朝廷への不満とみなされ、大宰府へと左遷されます。天平12年、広嗣はついに挙兵しますが、追討軍の前に敗北し処刑されました。しかし、彼の死後、政敵であった人々が次々と謎の死を遂げます。特に玄昉の急死は「広嗣の怨霊による仕業」と恐れられ、その凄まじい怨念は後世まで語り継がれることとなりました。
その他に、橘逸勢、文屋宮田麻呂なども祀られており、いずれも平安時代の政争で謀殺や憤死を遂げた人物。死後、疫病などの祟りをなしたとされ、それらを鎮め、祀ることで御所の鎮守としたのが始まりです。
御祭神それぞれに、政争や時代の流れの中で生まれた悲運の物語が残されています。その背景を知ると見え方も少し変わるかもしれません。一部を紐解いてみましょう。
主な神事・祭事
◉還幸祭 (5月 第3もしくは第4日曜日)
一年に一度、御祭神の御分霊が根に鳳凰の飾りがついた輿などに乗り、氏子区域を巡幸され、それを氏子さんがお迎えしお送りすることによって災いを祓い清め、地域に安泰をもたらすとされている平安時代から続く祭礼。
古来より盛衰を繰り返しながら継承されてきました。
戦後間もなくは、担ぎ手不足などにより行列だけの巡幸となっていましたが、氏子有志の努力により平成7年には若宮神輿が氏子区域を巡行し、神輿巡幸の復活を遂げました。
神社の境内と門前の寺町通の東側(丸太町~二条)には両日とも露店が80軒ほど並び、今も昔と変わらず多くの人で賑わいを見せています。
◉例祭 東遊(あずまあそび) 8月18日
「例祭」とはその神社で毎年行われる祭祀の中でも最も重要な祭礼のことを指します。
下御霊神社の例祭では、東遊(あずまあそび)が奉納されます。
神霊を慰める意味も持つ「東遊び」。
東遊びは、駿河国(静岡県)の宇土浜に天女が舞い降りたという伝承に由来したもので、古代の東国地方(現在の関東・静岡周辺)の風俗歌を宮廷貴族が歌舞として楽しんでいたものが、平安時代に宮廷や神社で神事舞となりました。
摂社・境内社
◉三社
神明社 御祭神:天照大御神、豊受大神
八幡社 御祭神:八幡大神
春日社 御祭神:春日大神
伊勢、八幡、春日を祀る<三社託宣>は、中央に天照、左右に八幡と春日を配し「正直・清浄・慈悲」という三つの徳目を強調して家々に祀られるものです。
本来、家庭用に掛け軸などで頒布されてきた形が多く、社として祀られる例は珍しいものです。

ここにきたら、ここ行きよし
◉寺町通散策
京都の古き良きな街並みを感じる「寺町通り」。
平安遷都当時は都の最東の通りで「東京極大路」と呼ばれる道幅32メートルの大路でした。

「寺町通」の名称は、豊臣秀吉の都市整備の際に、この周辺に寺院を集め、一大寺院街を造営したことに由来します。
宗派を超えておよそ80ヶ寺とその塔頭が整然と立ち並ぶこのエリアは、江戸時代には、書物や数珠、文庫、筆、薬などを商う商人や、紙や三味線などの職人たちが自然と集まり住みはじめ、現代の商店街の原形ができあがったと言われています。
また、東海道五十三次の最終地点も「寺町三条」であったと言われ、京の寺町は全国にその名を馳せていました。
この時代に栄え、京都の伝統を担う老舗が軒を連ねる一方で、明治以降には、西洋菓子屋・写真館などハイカラ文化も取り入れた店も加わり、古きと新しきが混在する京都の魅力が凝縮されたまさに京都を代表する通りとも言えます。
ほんのひと息MEMO
下御霊神社のある寺町通は、京都らしい風情を残しながらも、どこか今風の空気が漂う通りです。
古くから続くお店の間に、古書店や画廊、小さな個人店などが並び、歩くだけでも楽しい場所。
参拝のあと、ゆっくりと散策してみるのもおすすめです。
ほな次もまた、またお詣りいこか。
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