佐倉宗吾伝説
〜二人の堀田氏から始まったナラティブ 〜
はじめに 〜 舟に乗って出てきた蕎麦 〜
某、この辺りの七味屋で御座る。
この日は千葉県成田市、宗吾霊堂のお待夜祭へ、七色唐辛子売りの助っ人に来ていた。昼になり、門前の蕎麦屋へ入った。
「甚兵衛そば」という名物がある。注文すると、蕎麦が舟の形をした器に乗って出てきた。なぜ舟なのだろう?調べてみると、「甚兵衛」とは佐倉宗吾伝説に登場する渡し守の名だった。領民を救うため将軍への直訴を決意した宗吾を、甚兵衛が舟で対岸へ渡したという。なるほど!だから舟なのか。ところが、この舟を見ているうちに、私の頭の中からずいぶん古い記憶が引っ張り出された。

『ベロ出しチョンマ』。
子供のころに聞いた童話である。凶作と重い年貢に苦しむ農民を救うため、父親が将軍へ直訴する。その罪で一家は処刑される。幼い長松は、恐怖で泣く妹を安心させようと、処刑されるその時まで舌を出しておどけてみせる。私は子供心に、ひどく憤った。なんという理不尽な話だと思った。その記憶と、目の前の舟形の蕎麦が突然つながったのである。
『ベロ出しチョンマ』は、佐倉惣五郎伝承をはじめとする義民・直訴物語の系譜から強い影響を受けて生まれた作品だった。
では、その佐倉宗吾とは、いったい何者なのだろう。宗吾霊堂へ行けば、現在も木内惣五郎は、佐倉藩の悪政による生活苦から人々を救うため、四代将軍徳川家綱へ直訴し、その罪によって子供たちとともに処刑された人物として祀られている。私が子供のころ感じた義憤と、ほぼ同じ物語である。ところが、少し調べ始めると、どうも話がおかしい。
1 佐倉宗吾(本名:木内惣五郎)は、何をしたのか
ここから先は、私が新しい史実を発見した話ではない。佐倉惣五郎については、児玉幸多、青柳嘉忠、横山十四男、鏑木行廣ら、多くの先達が史料を検討してきた。その研究成果をたどると、意外なほど早いところで足が止まる。木内惣五郎という人物は実在したと考えられている。
公津村の名寄帳などからその存在が確認され、二十六石余を所持する、村内でも相当な規模の農民だったことが分かっている。指折りの有力農民であり、名主級の立場にあったと見てよい。そして承応二年、1653年。惣五郎とその男子四人が死亡したとする記録が後世の祭祀の根拠となっている。ところが、なぜ彼らが死んだのか。ここが、よく分からない。領民を救うため一揆を指導した。佐倉藩の重税に抗議した。四代将軍徳川家綱へ直訴した。現在広く知られている物語の核心部分を、1653年当時の史料からそのまま確認することができないのである。
ならば、完成した宗吾伝説をいったん横へ置いて、1653年という時代そのものを眺めてみよう。すると、ずいぶん違った景色が現れてくる。
2 まだ幼き将軍
宗吾伝説では、四代将軍徳川家綱が重要な役割を担う。佐倉藩では埒が明かない。そこで惣五郎は天下の将軍へ直訴する。物語としては実に分かりやすい。ところが承応二年、1653年の家綱は、数え年十三歳、満年齢なら十一、二歳ほどの少年だった。父家光が死去した1651年、家綱は数え十一歳で将軍職を継いだばかりである。当然、幕政を一人で取り仕切る年齢ではない。実際の幕政を支えていたのは、保科正之、松平信綱、阿部忠秋ら家光以来の重臣たちだった。もちろん、家綱は将軍である。だから「家綱への直訴などあり得ない」と言いたいのではない。私が引っ掛かったのは、むしろ逆である。なぜ後世の物語は、わざわざ「四代将軍家綱公への直訴」としたのだろう。現実の政治や行政は、もっと複雑だったはずである。村がある。村役人がいる。藩の役人がいる。家老がいる。藩主がいる。その外には幕府の行政組織と幕閣がある。ところが宗吾伝説では、その複雑な階層がほとんど消える。苦しむ百姓。悪い殿様。立ち上がる宗吾。そして天下の将軍。恐ろしく分かりやすい。
「悪い殿様を飛び越えて、天下の将軍へ訴えた」
これだけで、宗吾がどれほど大きな権力を相手に命を賭けた人物なのか、子供にだって分かる。私自身、後述する『ベロ出しチョンマ』によって、その構造を理解した一人だった。しかし、完成した物語を1653年へ持ち帰ってみると、ところどころ寸法が合わない。そこで、宗吾本人ではなく、その周囲を見てみることにした。
3 1653年、公津村で何が起きていたのか
非常に気になる史実がある。1653年、公津村そのものが分割されている。惣五郎事件が起きたとされる、まさにその年である。公津村は台方村など五村へ分かれ、翌1654年には地詰帳によって土地と石高が改めて把握されている。つまり惣五郎が処刑されたとされるころ、その地元では土地支配と村落行政の再編が進んでいた。ただし、ここは慎重に見なければならない。公津村の分割や翌年の地詰が、利根川東遷や水利問題と直接どのような関係にあったのかは、現在確認できる史料からは確定できない。「治水工事のために公津村が分割された」と単純に結びつけることはできないのである。しかし、同じ時期の関東では、土地、水利、新田開発、石高把握に深く関わる巨大な河川改修が進んでいた。利根川東遷である。惣五郎事件を「重税」という一本の原因だけで理解する前に、この社会背景は置いておく必要がある。
4 江戸を守る治水、印旛へ向かう水
徳川幕府は近世初頭から長い年月をかけて、利根川をはじめとする関東の河川流路を大規模に組み替えていった。現在「利根川東遷」と呼ばれる一連の河川改修である。それまで東京湾方面へ流れていた利根川の流れを東へ導く。目的には、江戸を洪水から守ること、新田開発、舟運の整備などがあったとされる。幕府から見れば、関東経営の根幹をなす巨大な公共事業だった。そして承応三年、1654年。赤堀川を通じた流路が常陸川筋へつながり、東遷事業は大きな節目を迎える。惣五郎事件とされる1653年は、その前年である。ここで重要なのは、治水というものが、すべての土地に同じ利益をもたらすわけではないということである。江戸を守るために水の流れを変えれば、その影響は別の場所へ及ぶ。農林水産省関東農政局がまとめた印旛沼の開発史では、利根川の流路変更後、洪水時に利根川から印旛沼方面へ水が逆流するようになり、印旛沼周辺が繰り返し水害に苦しむようになった経緯が説明されている。利根川から流入する土砂も増え、沼の姿そのものが変わっていった。つまり、江戸から見れば治水。印旛から見れば、新たな水害リスクでもあった。現代の巨大インフラ事業でも同じである。事業全体には合理性があっても、利益を受ける地域と負担を引き受ける地域は必ずしも一致しない。実際、佐倉惣五郎研究では、惣五郎事件の背景を幕府の利根川治水政策との摩擦に求める説が以前から存在する。
青柳嘉忠『研究史 佐倉惣五郎』は、従来の「堀田正信による苛斂誅求」という説明への疑問として、恒田嘉文による「利根川水災説」を紹介している。もちろん、これも確定した史実ではない。惣五郎が治水事業に反対した、あるいはそれを理由として処刑されたという同時代史料は、現在確認されていない。しかし、1653年の公津村分割。翌年の地詰。土地と石高の再把握。利根川東遷の大きな転換点。そして、その地域の有力農民木内惣五郎の死。
これらがほぼ同じ時期に重なっていたことは、宗吾伝説を考える上で無視できない社会背景だと思う。
5 「生活苦」とは何だったのか
そこで宗吾霊堂の案内板を、もう一度読み返してみた。面白いことに、「重税に苦しむ人々」とは書かれていない。「悪政により生活に苦しむ人々」なのである。私は勝手に「重税」と読んでいた。では、その重税はどこから私の頭に入ったのだろう。後世に成立した実録では、年貢や諸役の増徴が宗吾事件の原因として語られるようになる。そして昭和の児童文学『ベロ出しチョンマ』まで来ると、凶作。重い年貢。農民の困窮。直訴。処刑。という、さらに明快な因果になる。物語としては非常に強い。しかし1653年まで降りると、その一直線は見えなくなる。代わって現れるのは、村の分割、土地の再把握、年貢、水利、河川改修、幕府と藩の関係といった、いくつもの問題が重なった社会である。
当時の「生活苦」の正体は、本当に年貢だけだったのだろうか。
私はここに、宗吾伝説を見る最初の面白さがあると思う。

6 一人目の堀田氏、堀田正信
宗吾伝説には、分かりやすい悪役がいる。佐倉藩主、堀田正信である。ところが、この人物も調べてみると単純ではない。父の堀田正盛は徳川家光の側近として出世し、幕政中枢にまで入った大物だった。1651年、家光が死ぬと正盛は殉死する。その遺領を継いだ正信は、まだ二十代前半の若い藩主だった。つまり惣五郎事件とされる1653年当時の正信は、家督を継いで間もない若い譜代大名である。父ほどの政治的経験や、幕府内での盤石な基盤を持っていたわけでもない。そして七年後、奇妙な事件を起こす。1660年、正信は幕府へ上書を提出し、困窮する旗本らを救うため、自分の領地を返上して救済に充てるよう申し出た。さらに幕府の許可なく佐倉へ帰城し、改易される。宗吾伝説に登場する、「領民を苦しめる強欲な殿様」という人物像とは、どうにも収まりが悪い。だからといって、正信を善人に仕立て直す必要もない。まして、「1653年の惣五郎事件を悔いて、1660年に自領返上を申し出た」などという史料もない。ただ、二つの出来事を年代順に置くことはできる。1653年。正信の領内で木内惣五郎が死んだ。1660年。今度は正信自身が幕府へ異議を唱えるような上書を提出し、領地を失った。
この七年間に、この若い大名は何を見たのだろう。分からない。分からないからこそ、勝手に埋めない方が面白い。
7 二人目の堀田氏〜堀田正亮
そして約九十年後。もう一人の堀田が佐倉へ戻ってくる。堀田正亮である。堀田家は正信の改易後、佐倉を離れていた。1746年、正亮が佐倉藩主として入封する。いわば、かつてこの土地を治めた堀田家の帰還である。ところが佐倉には、厄介な記憶が残っていた。惣五郎という農民が領民のために訴え、処刑された。
その後、惣五郎は祟りをなし、ついには堀田家を佐倉から追った。そうした怨霊伝承が育っていたのである。正亮は、この記憶を排除しなかった。むしろ取り込んだ。1752年。惣五郎の死から百年に当たるとされた年、正亮は惣五郎を祀る「口の明神」を造営し、「宗吾道閑居士」の法号を贈ったとされる。以後、春秋には祭典が行われるようになった。ここは宗吾ナラティブの大きな転換点だと思う。それまでの惣五郎は、「祟る死者」だった。それを、かつての領主家の後裔自身が、「祀るべき死者」へ変えたのである。

正亮本人が、現代的な意味で「先祖の失政を謝罪しよう」と考えたのか。佐倉へ帰還した堀田家が、土地に残る怨霊伝承を政治的に取り込もうとしたのか。そこまでは史料から断定できない。しかし結果だけを見れば、非常に巧みである。堀田家に敵対する記憶だった惣五郎が、堀田家自身の祭祀体系の中へ入った。しかも、話はそこで終わらない。正亮による百回忌顕彰から間もない1753年、公津地区の五か村から年貢減免を求める願いが出されたことが研究で指摘されている。この二つを直接の因果関係で結ぶことはできない。しかし、時系列としては実に興味深い。藩主側が宗吾を顕彰する。その直後、宗吾の故地の農民たちが藩へ年貢減免を願い出る。宗吾という記憶は、領主が一方的に意味を決められるものではなかったのかもしれない。領主が宗吾を取り込めば、農民側もまた、その宗吾を自分たちの記憶として使うことができる。一つのナラティブが、支配する側とされる側の間を行き来し始める。私はここに、宗吾伝説の最初の大きな「改築」を見る。
8 堀田家は宗吾を守り続けた

しかも、これは正亮一代の思いつきでは終わらなかった。1791年。後の藩主堀田正順は、惣五郎に「徳満院」の院号を贈り、石塔を寄進する。さらに文化年間には、堀田正時が困窮していたとされる惣五郎の子孫へ五石の供養田を与えた。そして堀田家は、百五十回忌、二百回忌の法会まで営んだとされる。つまり、正亮による1752年の顕彰から歌舞伎の大当たりまで約百年。その間、宗吾は放置されていたのではない。堀田家自身によって祀られ、法号を重ねられ、石塔を建てられ、子孫を扶助され、祭典と法会を繰り返されていた。ここは非常に重要である。後世の歌舞伎が、何もないところから突然「義民佐倉宗吾」を作り出したわけではない。その前にすでに、佐倉の土地には約百年をかけて育てられた宗吾の祭祀と記憶があった。そして、その形成に深く関わっていたのが、ほかならぬ堀田家だった。最初の堀田正信は、宗吾事件の時代の藩主だった。二人目の堀田正亮は、その約百年後に宗吾の記憶を藩の中へ取り込んだ。さらにその後の堀田家が、それを世代を越えて維持した。だから私は、この物語を、「二人の堀田氏から始まったナラティブ」と呼んでみたい。
9 祭りになる宗吾
祭祀は、やがて地域社会の時間になる。正亮による百回忌以後、春秋の祭典が行われたことは史料に見える。ただし、これを現在の「御待夜祭」とそのまま一本につなげるのは慎重でありたい。『成田市史 民俗編』によれば、御待夜とは、惣五郎の命日とされる九月三日にちなみ、その前夜から堂に籠って法要を営む習俗である。つまり現在の祭りには、堀田家による公式な祭祀、寺院による供養、地域住民の信仰、命日前夜のお籠り、そして後世の露店や屋台、いくつもの時間が重なっている。
私が七色唐辛子を売っている現在のお待夜祭も、そのずっと後の層にいる。昭和四十九年には、しばらく途絶えていた屋台の曳き回しが地元有志によって復活した。祭りもまた、昔の姿をそのまま保存しているのではない。途絶えたり、復活したり、形を変えたりしながら続いている。これもまた、宗吾伝説の一つの歴史である。
10 そして1851年、歌舞伎がやって来る
ここまで来て、ようやく歌舞伎が登場する。嘉永四年、1851年。江戸中村座で、三代目瀬川如皐作『東山桜荘子』が初演された。大当たりとなった。ここからは、お家が違う。歌舞伎は歴史学ではない。史実を正確に後世へ伝えるための翻訳装置でもない。興行である。客から金を取り、見せ、驚かせ、泣かせ、また来てもらう。悪い意味で言っているのではない。それが歌舞伎という商売のお家である。宗吾伝説は、歌舞伎にとって実にいい材料だった。苦しむ百姓。悪い領主。命を賭ける名主。将軍への直訴。甚兵衛の渡し。家族との別れ。処刑。怨霊。舞台映えする。

そして興味深いことに、その翌1852年は、惣五郎の二百回忌に当たるとされた年だった。堀田家も二百回忌の法会を営んでいる。歌舞伎初演と二百回忌との間に直接の因果関係があったとまでは、現段階では言えない。しかし時系列として、
1851年 『東山桜荘子』大当たり。
1852年 宗吾二百回忌。なのである。
歌舞伎上演後、宗吾の墓を訪れる人々が増えたことも記録されている。ここで宗吾は、佐倉という土地の記憶から、一気に江戸の大衆文化へ飛び出した。歌舞伎が宗吾伝説を作ったのではない。すでに約百年かけて形成されていた宗吾ナラティブを、歌舞伎という巨大な増幅器が全国区へ押し出した。そして歌舞伎による煽情は、今度は宗吾伝説そのものへ逆流していく。舞台の上で分かりやすく整えられた人物像や出来事が、後世の人々が過去を見るときの色になっていく。史実から歌舞伎へ一方通行で染み出したのではない。歌舞伎で増幅されたナラティブが、歴史の隙間へ染み戻っていったのである。そう考える方が実態に近いように思う。
11 成田には、もう一本の歌舞伎がある
ここで面白い横串が一本ある。成田山新勝寺である。新勝寺もまた、江戸時代、市川團十郎家と歌舞伎によって「成田不動」の名を江戸庶民へ広めていった。1703年には江戸深川で最初の出開帳が行われ、團十郎家と成田不動との関係は、芝居と信仰の双方を通じて強固になっていく。同じ成田の土地で、二つの興味深い動きが起きている。一方では、不動明王が自ら江戸へ出張する。出開帳である。
そこへ歌舞伎が加わり、成田不動の信仰を江戸で増幅させる。
もう一方では、歌舞伎という大衆メディアが宗吾伝承を増幅させたことで、今度は江戸から人々が宗吾の地へ引き寄せられ、参詣に押しかける。成田から江戸へ。江戸から成田へ。歌舞伎は歴史を保存する装置ではなかった。しかし、人々の記憶を作り、人まで双方向に動かす巨大な増幅器ではあった。宗吾伝説を見るうえで、新勝寺と歌舞伎の関係は、なかなか面白い横串である。
12 『ベロ出しチョンマ』へ
そして時代は昭和へ進む。宗吾の物語は、児童文学にまで姿を変える。私が子供のころ聞いた『ベロ出しチョンマ』も、佐倉惣五郎伝承をはじめとする義民・直訴物語から抽出されたものが、児童文学として再構成された作品の一つと見ることができる。そこで描かれるのは、もはや佐倉藩政の細かな事情ではない。理不尽な権力。苦しむ人々。それを救おうとする父親。そして、死を前にしても妹を安心させようとする幼い兄。義民物語から抽出されたものが、普遍的な倫理の物語へ変わっている。私はそれを聞いて義憤を覚えた。その感情まで、「史実ではなかったかもしれないから間違いだった」と捨てる必要はないと思う。物語には物語の価値がある。ただし、その感情をそのまま1653年の史実へ持ち込んではいけない。
おわりに 〜 歴史のミルフィーユ 〜
蕎麦を食べ終えて、もう一度、舟形の器を見た。来たときには、宗吾を江戸へ渡した甚兵衛の舟だと思っていた。それでいい。舟形の器を眺めながら宗吾伝説を楽しむことに、何の問題もない。しかし少し調べてみると、その舟にはずいぶん多くのものが乗っていた。
1653年の木内惣五郎。
公津村の分村。
利根川東遷。
江戸を守る治水と、印旛沼側に生まれた水害リスク。
若い堀田正信。
約百年後、佐倉へ帰ってきた堀田正亮。
宗吾を顕彰した藩主と、その直後に年貢減免を願い出た公津の農民たち。
その後も宗吾を祀り続けた堀田家。
法要。
祭典。
地域信仰。
実録。
歌舞伎。
新勝寺と市川團十郎。
近代の義民観。
そして『ベロ出しチョンマ』。
さらに現在の宗吾霊堂、お待夜祭、甚兵衛そば。三百七十年以上の時間が、一枚一枚重なっている。
千葉だけに、ずいぶん立派な歴史のミルフィーユである。
大切なのは、一番下まで剥がして、「これだけが本物だ」と言うことではないのだろう。後から重なった物語も、歌舞伎も、信仰も、祭も、それぞれの時代に生まれた本物の歴史である。ただし、層を混ぜない。1653年の史実の欠片は、史実として見る。百年後の顕彰は、百年後のものとして見る。歌舞伎は、歌舞伎として楽しむ。児童文学には、児童文学として心を動かされる。そして、後世の解釈が過去の見え方まで変えてしまうことを知っておく。
改築されたなら、改築されたことまで含めて歴史として楽しむ。
それくらいが、大人の歴史の嗜みなのかもしれない。
某、この辺りの七味屋で御座る。この祭が終われば、また別の町へ行く。そこにもきっと、何百年分もの物語が何食わぬ顔で積み重なっている。
次は何が出てくるのやら。
とりあえず今日は、舟に乗った蕎麦から、ずいぶん遠くまで来てしまった。
了。
参考文献・参照資料
【佐倉惣五郎・宗吾信仰】
・児玉幸多『佐倉惣五郎』吉川弘文館、新装版1985年。
・青柳嘉忠『稿本 佐倉惣五郎』佐倉市史編纂委員会、1968年。
・青柳嘉忠『研究史 佐倉惣五郎』佐倉市文化財保護協会、1981年。
・青柳嘉忠『伝説佐倉惣五郎』1990年。
・横山十四男『義民伝承の研究』三一書房、1985年。
・鏑木行廣『佐倉惣五郎と宗吾信仰』崙書房出版、1998年。
・大野政治編『地蔵堂通夜物語』崙書房、1978年。
・成田市史編さん委員会編『成田市史 民俗編』成田市、1982年。
・『日本歴史地名大系 千葉県の地名』平凡社。
・成田市立図書館「もっと知ろう成田の魅力―佐倉惣五郎と宗吾信仰」。
・成田市立図書館/国立国会図書館レファレンス協同データベース「佐倉惣五郎が直訴に至る起因について諸説あるが、利根川の付け替え工事について書かれている資料を知りたい」。
・宗吾霊堂「宗吾霊堂縁起」「宗吾霊堂お待夜祭」。
【利根川・印旛沼】
・国土交通省関東地方整備局利根川上流河川事務所「利根川の歴史 利根川の東遷」。
・国土交通省水管理・国土保全局「日本の川―利根川」。
・農林水産省関東農政局「印旛沼二期農業水利事業―近代までの開発経緯」。
・農林水産省関東農政局「利根川水系の変遷」。
・恒田嘉文編『耕地水利事業功勲録』。利根川治水と惣五郎事件の関連説については、青柳嘉忠『研究史 佐倉惣五郎』所収の紹介を参照。
【歌舞伎・宗吾伝説】
・三代目瀬川如皐『東山桜荘子』嘉永4年(1851)初演。
・『佐倉義民伝の世界―歌舞伎「東山桜荘子」初演をめぐって』歴史民俗博物館振興会、2000年。
・城西国際大学水田美術館「浮世絵でつづる房総人物伝 義民佐倉宗吾」。
・国立劇場文化デジタルライブラリー「造榮櫻叢紙十二段続一覧之図」。
【成田山新勝寺・市川團十郎】
・成田山新勝寺「成田山略年表」。
・成田市「成田山新勝寺と市川團十郎の縁」。
・木村涼「七代目市川団十郎と成田山新勝寺の江戸出開帳」『藝能史研究』179号、2007年。
【児童文学】
・斎藤隆介『ベロ出しチョンマ』1967年初出。
・成田市立図書館「もっと知ろう成田の魅力」所収『ベロ出しチョンマ』解説。
【史料上の留保】
本稿は、佐倉惣五郎事件について新たな史実を確定することを目的とするものではない。
木内惣五郎の直訴、処刑理由、佐倉藩政との関係、利根川治水事業との直接的因果関係については、同時代史料によって確定できない部分が多い。
特に「利根川東遷と惣五郎事件との関連」は既存研究で提示されている仮説の一つであり、本稿ではこれを確定した史実として扱わない。
公津村の分村・地詰についても、利根川東遷との直接的因果関係を確認したものではない。
また、堀田正亮以後の宗吾祭祀についても、堀田家による春秋の祭典と、現在の宗吾霊堂御待夜祭とを単純な連続関係とはみなさない。
本稿の目的は、史実・伝承・祭祀・実録・歌舞伎・児童文学という異なる時代の層を区別しながら、現在私たちが知る「佐倉宗吾」というナラティブが、どのように積み重なってきたのかを眺めることにある。
