わが心の近代建築Vol.75 青梅市立吉川英治記念館(草思堂)/東京都青梅市
みなさん、こんにちわ。
今月もあと3棟を記載したいかなと考えておりますが、今回は青梅市吉川英治記念館について、過去FBに記載したものを軸に、リビルド投稿いたします。
青梅に建造物に関しては、過去、仏像コレクターとしても知られた津雲國利氏の別邸邸宅以降2棟目の作品となります。
≪施主 吉川英治≫
吉川英治は1892年に神奈川県横浜市で生まれたのち、10代に頃から文学の道を志し、1922年に東京毎夕新聞社に入社ののち、文才が高く評価され、1925年の『剣難女難』ではじめて吉川英治のペンネームを使用。
そののち『宮本武蔵』で国民的作家として親しまれ、途中、再婚などを経て『新書 太閤記』『三国志』を執筆し、1944年に、青梅市吉野町に疎開したのち、東京大空襲では養女を亡くし、終戦のショックで筆を執ることが気なかったものの、菊池寛らの援助で国民作家として「新・平家物語」を執筆。およそ7年にもわたる大作で、この作品で第一回菊池寛賞を受賞。
これで国民作家として復活し、この邸宅を離れ北品川に移住。途中、自叙伝などを執筆しm『私本 太平記』『新・水滸伝』を執筆。
『私本太平記』連載終了間際に肺がんが発覚し、1962年に亡くなります。

≪草思堂について≫
この邸宅に関しては、もともとは養蚕農家だった豪農 野村家の主屋として明治中期に建てられたものでしたが、疎開先として青梅市吉野町を選んだ吉川英治が土地 邸宅ごと購入。
その際に、屋根の変更などの改造を行いますが、建物全体として、青梅地区の養蚕農家の邸宅の特徴をよく残した、大変貴重な邸宅になります。
なお、思草同に関しては1970年より一般公開されますが、途中、青梅市に邸宅 土地が寄贈され、現在は青梅市立吉川英治記念館として公開されています。
≪たてものメモ≫
青梅市吉川英治記念館 草思堂
●竣功:明治中期(吉川英治によりのちに改造)
●設計者:不詳
●文化財指定:国登録有形文化財
●写真撮影:草思堂内は可能
●入館料:¥500
●交通アクセス:
・青梅線 二俣尾駅より徒歩15分
・青梅線 青梅駅より都バス 吉野停留所 徒歩1分
●参考文献:
・BS朝日放映「百年名家」より抜粋
・吉川英治に関しては、吉川英治記念館HPより抜粋
≪門部分について≫
Ⅰ:長屋門
長屋門は、養蚕農家 野村家の正門部分にあたりますが、長屋門に関しては、限られた農家しか所有できず、いかに野村家が豪農だったかを伺い知る事ができます。
吉川英治は、この門を重々しく感じ、殆ど使用しませんでした

Ⅱ::通用門
吉川英治は、長屋門に変わり、こちらを通用門として愛用。
この門に関しては、自身の所有になったのちに造られたもので、松皮葺屋根に竹材や皮つき丸太を用いており、草思堂の改造点含め、当時の青梅市には優秀な大工さんがいたことが推測されます。

≪平面図≫
平面図を見ると、のちに「はなれ」が造られますが、母屋に関しては、伝統的な4つ間仕切りの農家建築をベースにしており、それを吉川英治流にアレンジしています

≪主屋外観について≫
Ⅰ:主屋正面の外観
もともとは先述の野村家の建物で、明治中期の建造と言われています。建物の特徴として、屋根は杉皮葺から銅板葺に変更、雨戸を取り除いてガラス窓に変更していますが、3つの吹き抜け部分など、青梅地区の養蚕農家の特徴をよく残しています。
屋根部分が一般的な茅葺ではなく、杉皮引きが選択られた理由として、この地区には有力な萱場がなかったためと言われます。

また、側面部分から見ると屋根の高さがよくわかり、古民家の合掌造り風になります。
なお、天井部分は野村家時代は、養蚕部屋などに使用されました、吉川英治は書庫や子ども部屋、身内の疎開先に使用しました。

母屋の座敷部分の写真を見ると、もともとは雨戸でしたが、採光などのためにガラス窓に変更し、採光に配慮されたものになり、邸内から外を見ると、庭園ビューとなり、吉川英治はこちらを第二書斎として使用しました。

Ⅱ:「はなれ」部分外観
「はなれ」も野村家時代に建てられたもの。
持ち送り部分に和風の意匠を残しながらも、洋風の意匠をよくとりこんでおり、明治期に多く見られた魏洋風建築とは一線を画す造りになり、設計者は不明なものの、洋風建築を学んだ建築家の作品であることが伺い知れます。

「はなれ」の天井部分の外観を臨むと、西洋建築ではアーカンサス(葉アザミ)を使用しますが、青梅地区を表すかのよう梅の花の装飾が用いられています。
また、タイル部分は明治期に瀬戸で作られた本業タイルにまります。

≪主屋 土間内部≫
Ⅰ:玄関部分
吉川英治邸時代に改造された部分になり、本来は土間で「タタキ」だったものを、吉川英治と大工さんの打ち合わせで、那智黒石を敷き詰め、敷居部分には丸太の縁、応接室前には自然木の柱を置くなど野趣に富んだ数寄屋風の設えになります。

また、この邸宅の特徴にもなりますが、青梅市吉野は梅が有名ですが、邸宅のいたるところに梅の装飾が散りばめられていますが、敷居の下には梅が模られています。
一見見逃しなところにも装飾をくわえるところに、施主の意向が反映されています

Ⅱ:応接間
野村邸時代は蚕部屋~浴室だったものを吉川英治邸時代に応接間に改造。応接室は和室と洋室を組み合わせており、5坪のうち1/3を切り落としにして椅子と卓を置き、床材は、草木を網代に編んだものを使用し、上がり框は手斧では釣ったような仕上げになっておりいます。
一方、2/3はもともとの高さにして、畳と平床にしています。座敷の写真左側部分には竹を敷き詰め、床柱には皮付きの松の木を使用した野趣に富んだものとなっています。
主に記者の待合の部屋に使用されました。

Ⅲ:内玄関
北側土間を明るく改造しており、床材には応接間と同じく、草木を網代に編んだ材を用いています。また、流し横の水甕は、野村家からのものになります。

≪主屋 表側≫
Ⅰ:玄関の間
玄関の間の天井は高く、根太天井は3階の床を兼ね、吉川邸時代には、荷物置き場として。
2階部分は、野村邸時代には養蚕部屋に用いられましたが、吉川邸時代には、疎開した身内が住みました。

Ⅱ:仏間
こちらは、吉川邸時代にも「仏間」として使用されました。
吉川英治は疎開時に、養子に迎えた女の子を東京に置いてきてしまいますが、その子は空襲で罹災。
吉川英治はゲードルを履き、自身で何度も青梅から東京まで探しに行くも発見には至らず、この仏間で夜な夜な大声で啼いたともいわれています。

Ⅲ:座敷
この部分は、座敷部分として、特別な人を招き入れるための部屋として活用されたことが伺い知れます。吉川英治は、この部屋の縁側から庭木を愉しみ「新 平家物語」を執筆し脱稿。
作品に没頭している際には、ここで歯磨きや食事なども済ませていたといいます。また、欄間部分は、富士山を描いたようなデザインで優れた大工技法を垣間見ることができます。

Ⅳ:縁側部分
外観でも記載したように、もともとは雨戸だったものを、吉川英治が手に入れた際にガラス窓に変更し、ここからは庭園が一面に覗けるようになっています。

また、こちらの釘隠しは、もともとのものが使用されており、野村家の家紋の武田菱を使用しています。
吉川英治が邸宅を手に入れた際に、梅型の釘隠しに変更しています。

Ⅳ:奥座敷
奥座敷部分は、付書院などがないものの、床柱には核柱を使用し、天袋をそなえ、狆潜りを備え、長押を回した書院造りになっています。この部分の釘隠しも梅になっています。

なお、先述のように、邸宅のほとんどの釘隠しは、青梅市吉野の名物が梅であるためか、寒梅に変更されています。

Ⅴ:主屋裏側
・「はなれ」と「母屋」の接続部分
こちらは、雨戸などの跡が残りますが、右側の窓の下部には、通風のための無双窓が設けられています。

・厠部分
厠部分は和式トイレと小便器に分かれていますが、小便器部分を見るとタイル張りになっており、おそらく吉川邸時代に改変された箇所と思われます。

・浴室部分(通常非公開)
母屋から離れ、「はなれ」裏側には浴室が付けられていますが、これも吉川英治邸時代に付けられたものと考えられます。
タイル張りの床に、無双窓を。
天井部分には自然木を付けています

≪はなれ≫
もともとは畳敷きの洋間だったものを、吉川英治邸時代に現在の形に改め、茶道口のような通用門や床の間は吉川英治邸時代に付けられました。かつては掘り炬燵や炉などがつけられ、書斎に利用されましたが…
・冬に寒いこと。
・声を出して呼んでも、家人が気付かないこと
などから、先述の座敷部分を書斎にしました。

また、「はなれ」と「母屋」を内側から繋ぐ動線は、軒桁に丸太木を使用し、右側の腰板には自然木を並べた形状になっています。

≪母屋裏側部分≫
Ⅰ:子ども部屋
仏間の裏側に位置する部屋で、吉川英治邸時代は屋根裏以外の子ども部屋として活用されました。

Ⅱ:囲炉裏部屋
まず、この部屋で目に行くものは、右側にある、2本の竹を表列文様に描いた半円形の窓ですが、これは野村家当時からあるものになっています。また、炉を囲む席として、土間から見て奥側が家長専用席、その左右が夫人の座る「かか席」、と客人・長男・婿の座る客座(向座)、土間より部分が下男下女の座る席になります。

Ⅲ:台所部分:
吉川英治邸時代に備え付けられたもので、床面はコルクタイルを使用し、応接間と囲炉裏部分に接続した部屋になっています

≪2階・3階部分≫
Ⅰ:2階部分【通常非公開】
2階部分は、野村邸時代は、養蚕農家だったことから蚕部屋に使用されましたが、吉川英治邸時代は、身内が疎開した時の疎開部屋や子ども部屋として活用しました。

Ⅱ:3階部分【通常非公開】
屋根裏部分になり、2本のノボリ梁を山型に組んで、棟木のところで交差させたサス構造として、広い空間を生み出しています。
野村家時代は養蚕部屋などに用いられ、吉川邸時代は2階部分と同じく、親戚の方の疎開先や物置として利用されました。

≪庭園部分を臨む≫
Ⅰ:全景図
全景図をみると、母屋とはなれ以外、江戸期から続く蔵部分など以外に、広大な庭園を持ち、上部に記念館をもちます。

Ⅱ:土蔵と井戸部分
土蔵は棟札などから弘化4年(1847年)竣功と判明しています。こちらも野村家時代からの物でした。

Ⅲ:庭園部分
吉川英治は、作品が行き詰まると、邸園を散歩し、目の保養などを行いリフレッシュしてから作品に再度臨んだり、子どもたちと相撲を取ったりして、この邸宅でのひと時を愉しみました

Ⅳ:椎の木の老木
庭園内の老木は、草思堂のシンボルとも言うべきもので、椎の木で樹齢500~600年に達するものになります。
吉川英治は、この樹下に毛氈を敷き、夫人のたてたお茶を愉しむことも、しばしあったそうです。

≪編集後記≫
自身、吉川英治も筆を置いた時期があったことを全く知らず、この邸宅での生活が、吉川英治を再び国民作家に導いたことに対して大変感動を覚えた次第。
自身とはまた、境遇は違いますが、どんな時も、誰にでも心が折れるときがあり、再び復活できることを吉川英治先生から教わった気がします。
また、自身を奮い立たせる気分になりました。
