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わが心の近代建築Vol.125 旧山崎家別邸/埼玉県川越市

みなさん、こんにちわ。
今回は、先日訪問した近代建築より、以前から見たいと考えていた埼玉県川越市に残された旧山崎家別邸について記載します。
施主の(5代目)山崎嘉七やまざき かしちは、和菓子店「亀屋」の経営、かつ現在の蔵造りの町の川越の礎を築いた人物の一人でもあり、財規人としても広く活躍した人物でもあります。
また、晩年期に建てた旧山崎家別邸は、大正末期から昭和の住宅の近代化も過程を示す歴史的建造物として母屋部分が国の重要文化財に選定されています。

【川越について】
川越は埼玉県の中部に位置する街になり、江戸期には親藩・譜代の川越藩の城下町として栄え、「小江戸」と呼ばれてきました。
また、江戸時代以前は、江戸の町を凌ぐ都市であったことから「江戸の母」とも呼ばれ、江戸時代中でも江戸の街と新河岸川舟便で直結していました。
また、街中は戦災や震災を免れたため、多くの歴史的建造物が残り、文化財の数としては、関東地区では神奈川県鎌倉市、栃木県日光市に次ぐ多さになります。また、後述しますが、川越には多くの蔵が現役で残り、観光名所としても知られています。

川越城本丸御殿
【Wikipediaより転載】

【施主 山崎嘉七やまざき かしち氏について】
施主の山崎家は、1783年の創業時代、川越にて「亀屋」という屋号で和菓子作りに従事しており、当主は嘉七かしちを襲名しました。
特に4代目嘉七かしちは、中興の祖と言われ、和菓子作り以外にも、第八十五銀行の設立など川越の近代化に大きな足跡を遺します。

亀屋
【Wikipediaより転載】

施主5代目嘉七かしちも先代に負けず劣らずの商才をもち、第八十五銀行の頭取を務めるほか、川越の大火で町域の1/3が焼き尽くされた際も、蔵造り建築が焼け残ったことから蔵造り建築著終身とした街づくりを目指し、江戸より職人を招聘し、川越を復活させていきます。

5代目)山﨑嘉七
【Wikipediaより転載】

【設計者 保岡勝也やすおか かつや氏について】
保岡勝也やすおか かつや(1877~1942)は東京帝国大学工科大学建築学科卒業後、三菱合資会社(現 三菱地所)に入社ののち、曽根達蔵そね たつぞうのもとで丸の内赤煉瓦館の設計に携わり、帝国大学大学院に入学し、曽根達蔵そね たつぞうの後任として「三菱8号館」~「三菱21号館」の設計に携わり、川越でも第八十五銀行本店などの設計に携わり、この邸宅を1925年に完成させます。
なお、保岡勝也《やすおか かつや》氏は、この邸宅完成のために、施主の5代目嘉七かしちの意向を組み込むのに試行錯誤したことが伝えられています。

設計者 保岡勝也
(邸内展示パネルより転載)

【たてものメモ】
旧山崎家別邸
●竣工年:1924年
●設計者:保岡勝也やすおか かつや
●文化財指定:
 ・母屋:国指定重要文化財
 ・庭園:登録記念物
●写真撮影:可
●入館料:¥100
●休館日:
 ・第1・3水曜日(休日の場合、その翌日が休館日)
 ・年末年始(12月29日から1月1日)、臨時休館日
●交通アクセス
西武新宿線「本川越」、またはJR川越線/東武東上線「川越」駅よりバス「仲町」停留場 徒歩5分
●参考文献:『川越市指定文化財 旧山崎家別邸調査報告書』
●留意点:
2階部分に関しては、毎月第2日曜日に、時間指定でガイド付き公開

【外観】
洋館正面部分
切妻屋根になり、左側は土蔵になります。洋館の中央部分に玄関ポーチを備えています。屋根の勾配は洋館にしては緩く、1階部分はドイツ壁十バレル色モルタル掃き付け壁で、2階部分はモルタルの刷毛はけ引きになります。

洋館部分を臨む

玄関ポーチ部分
ポーチ部分を見ると、4本の柱に支えられた銅板葺きの鋼板の低い屋根が掛けられています。奥側は縦格子に板を組み合わせ、その上に緑色の色ガラスを入れた袖壁が付けられています。
捨身右側に階段が付けられているのに対し、中央部分に階段がない理由として、中央部分は車寄せとして直接人力車などをつけるため、このよう配慮が付けられています。
ポーチ部分は周囲に比べて38㎝ほど高くなり、立ち上がり部分は、階段部分含め玉石積、ポーチ部分は日出石張りになります。

ポーチ部分を臨む

❏待合
こちらも重要文化財に含まれます。通常は邸内に待ち受けを設けますが、山崎家では表側に設けていました。
待合は、主に訪問者の付き添いの車夫などの控室として充てられました。

待合を臨む

和館内玄関部分
内玄関は1996年に規模を大きくしています。
竣工当時は節付きの丸柱が使われた真壁しんかべ造になり壁には腰部分に板が貼られ、上部は漆喰塗になります。
和館部分の屋根は、面取り和型いぶし引掛桟瓦が使用され、瓦には「京都 松村」の刻印が付けられています。

内玄関から外観を臨む

子ども室側を臨む
子ども室側の外観を見ると、竣工当時の上流階級の子供たちは、表で遊ぶ習慣はなかったものの、施主の山崎嘉七氏は進歩的な考えの人物で、邸宅から直接、表に行けるようにデザインされています。

子ども室側の外観を臨む

南面部分
ベランダ側を見ると。和館と洋館を切る形で腰壁が設けられています。
和や方は平屋建てなのに対し、洋館部分は2階建てとなり、ベランダの部分にL字型の壁が付けられ、上部のバルコニーを支えています。
ベランダは床には日の出石が貼られ、テラス側にはレンガが貼られ、階段部分は玉石積みになります。

建物南面を臨む
【文化遺産オンラインより転載】

【平面図】
平面図を見ると、西側に洋間を備え東側に和館を置く、当時の上流階級で流行した和洋並列式住宅になります。
室内の配置として、南面に家族居室や迎賓施設などを置き、北側には蔵・浴室などを配置させています。
畳廊下は内玄関から洋館ホール部分まで続くかたちになりますが、浴室などは畳廊下に接続せず、北側に伸びる廊下と接続しています。
2階部分は、階段を上ると突き当りに暗室があり、寝室/6畳間となり、寝室に付属して書斎が位置します。バルコニーは1階のベランダの天井にもなります。

平面図
【旧山崎家別邸 旧カタログより転載】

【洋館1階部分】
玄関
玄関は2畳ほどの広さになり、土間の表面は赤い石の洗い出し仕上げで、領収書には京都「かも川赤まき石」となあります。天井は2本の格子を組み合わせた格天井で、鏡板はきれいな合板を合わせた鏡板になります。玄関扉は内開きで、ノブの外側には鍵穴のあるプレートが付いていますが、建具には鍵穴が開いておらず、実際には内側のみ鍵が使える状態になります。この建物が迎賓施設として使用されていたことの証左で、玄関を使う客人があるときには家人が必ず家の中にいたことが伺えます。

表玄関部分を臨む

玄関ホール
広間部分は、写真左側には折り返しの大階段がつけられています。
階段わきの袖壁にはステンドグラスがあり、玄関のアプローチには溝が掘ってあり引き違いのガラス戸が嵌められていました。
大階段は赤ラワン製で手摺子てすりこが付いたデザインになり、親柱は簡単な縦線と渦巻き模様が付けられたゼセッション方式になります。
天井部分、壁部分は漆喰塗とし、床部分は後年は絨毯が敷かれるものの、竣工当時はコルク材が使用されていました。

階段ホール部分を臨む

階段踊り場のステンドグラスは、高さ2.1m、幅76㎝のものになり、泰山木たいざんぼくとブルージェという鳥をデザインしたもので、ステンドグラス作家 小川三知おがわ さんち氏(1867~1928)の作品になります。小川三知おがわ さんちは、日本の黎明期のステンドグラス作家で、鳩山会館など、数多くの作品をデザインしました。

階段踊り場のステンドグラス

階段下部分の楼開き扉部分にも水辺の植物が描かれたステンドグラスが入り、こちらも小川三知おがわ さんち氏(1867~1928)の作品になります。こちらは面積こそ小さいものの、細かいガラスを組み合わせた繊細なデザインになります

階段下のステンドグラス部分

客室(応接室)
この部屋は洋館の中で主要な部屋の一つで、応接室として使用されました。ステンドグラスを入れた上げ下げ窓を設けた部分は天井を下げることにより、窪みを設け、変化のある空間を作り出しています。ステンドグラスは、三越劇場と同じく、別府ステインド硝子製作所の作品になり、天井は二重格子を組んだ格天井とし洋の中に和のエッセンスを加えた室内になります

客室(応接間)部分線形を臨む

準備室
廊下側に位置する室内で3畳間になります。調理された食材はこちらで用意され。配膳がされました。現状は畳が敷かれていますが、設計図ではコルク敷きで、片開き戸を通じて食堂と繋がります。

準備室を臨む

食堂
6畳の広さがあります。床はチークのフローリングになり、天井は大小の飾り梁をつけ、合板の中央には寄木の小さな飾りが埋め込まれています。照明は天井には付けられておらず、テーブルの長手方向となる南北の壁にブランケットが付けられています。

食堂全景を臨む

飾り棚部分は準備室との境になり、ハッチになっており、窓にはステンドグラスが貼られていますが、こちらも応接間と同じく別府ステインドグラス工房の作品になります。準備室で用意された食材は、ステンドグラスが貼られた窓から食堂内に搬入されました

ハッチ部分を臨む

【洋館2階部分】
❏ホール部分
2004年の修繕工事の際に当初のクロスを剥がして現在のビニールシートに張り替えています。天井漆喰は当初のままで、階段の降り口天井には、見切りの飾り梁が付けられています。2階ホール部分から廊下を伝い、各部屋に繋がっています。

階段からホール部分を臨む

暗室
この部屋は広間を上がった突き当り部分に位置しますが、広さは0.4坪で天井は漆喰塗、床部分はタイル張りになります。
小さな窓には内開きの遮光窓が付けられ、造り付けの奥行き50㎝の銅板の流し台が付きます。
竣工当時、上流階級の方にとって、カメラは一種のステータスで、施主の山崎嘉七氏もカメラを趣味としました。

暗室部分を臨む

寝室
書斎と斜めに切られていますが、書斎と寝室は2部屋一体として計画されました。書斎側には下に物入が付けられています。
物入れ部分は上下の収納に板戸を取り付け、中央部分には結露ガラスが入ります。窓側部分はロールスクリーンとカーテンがかけられ、壁部分は紙張りで天井は漆喰になります。
ロールスクリーンと壁紙に関しては、竣工当時のものと考えられます。

寝室を臨む

書斎
書斎は寝室の庭園側にあり、台形状の平面になります。
こちらの室内は廊下からも直接入ることができ、隣の6畳和室の入り口にもなります。
奥側の棚は寝室者の入れと一体型になり、庭園側は上げ下げ窓と外開きのガラス戸がつきます。
寝室同様、壁紙は紙張りで天井は漆喰塗となります。

書斎と寝室を臨む

6畳間
書斎と廊下から入ることができ、洋室との高さを合わせるため、ゆかは約13.5㎝高くなります。
室内は数寄屋造りで庭園側には出窓と駆け込み天井が付けられ、反対側には蹴り込み床と床脇が。床脇には地袋も付けられています。
床柱は皮付きのアカマツ材床脇の境の壁は下地窓が付けられます。天井部分は杉の竿縁天井、駆込天井かけこみてんじょうは杉材のヘギ板小舞内にしています。

6畳和室部分を臨む

【和館部分】
❏内玄関

こちらは1996年に屋根を含め、全面的に作り直しています。北側と東側を1.5尺広げ、電話室にあった袖壁をなくしています。また、当初は下駄箱が置いてある場所に袖壁が付けられていました。玄関部分の引き違い戸は、低い腰板が造ガラス戸になり、木製の縦桟の間に吹き寄せで真鍮の丸棒が入っていました。上がり框はサクラ材になります。

内玄関を臨む

2帖間
奥行き2尺の蹴込板と煤竹すすだけの落とし掛けを設け、奥の壁に杉の幕板を取り付けたとこが設けられています。天井部分は、磨丸太みがきまるた廻縁まわりぶちに屋久杉の竿縁天井としています。
子ども室へは、写真右側に引き込まれている襖を通じて向かう形になり、居間の入り口にもなっていることから、居間の前室としても。また玄関から近いことから、簡潔な応接間としても使用されました。

2帖間 全景

畳廊下
床部分は1畳巾に畳を敷き、残りの部分は縁甲板を張り、壁は新京壁、天井部分は杉の竿縁天井になり、浴室の廊下部分に天窓が設けられ、洋館部分までつながっています。写真右側の引き戸は電話室になり、壁止まり(写真右側)の材は杉材になります。

内玄関から洋館までの畳廊下を臨む

山﨑家別邸には、、電話があった旨が記録に残っており、建築年から考察すると、1927年に登場した「2号共電式壁掛電話」がここにあったものと推測されています。

2号共電式壁掛電話
【邸内展示パネルより転載】

浴室
浴槽や床部分は1981年に改修されていますが。出入り口のタイル張りの部分は当初のままになります。竣工写真を見ると、浴槽と床はタイル張りで、改修時の写真の状態と同じでした。壁部分は内寸109㎜×109㎜の角タイルを「破れ目地」ではられ、その上の壁はヒノキの柾板が使用されています。天井は舟底天井で、磨き丸太で縁取られています。換気口は丸桁下に網の付いた換気口が付けられています。

浴室 全景を臨む

脱衣室
当初の予定では脱衣室と浴室の位置が逆でした。
銅板張りの流し台と、窓ガラスの一部に組み込まれた鏡は非常に構成されたデザインになり、袖壁部分にも鏡が埋め込まれますが、縁を意識させない形になります。
床には竹ござが敷かれ、壁は荒れた土壁が塗られます。流し部分の天井は竹を半分に割って隙間なく並べ、下り壁の壁止まりには入節丸太が用いられ、流し以外の天井は廻り縁に皮付きの香節こぶしが使用され、軽く鉋がけされた杉皮を編んだ矢羽根天井になります。

脱衣室を臨む


数寄屋造りの室内で、大便器の個室が2カ所と小便器が付けられていますが、建物の規模から客と家族が使用するためのものと思われます。
小便器、大便器とも竣工当時のもので、裏には名古屋製陶のマークが付けられています。
床や腰壁部分は106㎜×106㎜角の白いタイル張りで、天井部分は磨き丸太と竹で構成されており、中央部分の磨き丸太の上の照明器具は、室内全体を照らしていますが、この照明も竣工当時のものになります。

厠全景を臨む

女中室
3畳間の畳部分と長手方向に350㎜程の板敷期の部分から構成されています。壁は真壁しんかべ鼠漆喰ねずみしっくいで、天井は杉の竿縁天井で天窓が付けられています。なお、板敷の部分には奥行の浅い天袋と収納スペースが設けられています。出入り口は女中室ということもあり、畳廊下と廊下、台所の3カ所がつけられ、機能的な造りになります。天井部分に残された配線から、かつては台所寄りの壁部分に呼び鈴の親機が付けられていた形跡が残されていました。

女中室を臨む

9帖客間
数寄屋造りの室内で、天井部分は杉の竿縁さおぶち天井で、竿縁は胡麻竹ごまだけの1寸ほどの三方貼り角竹が使われています。
床柱には北山杉の絞り丸太が使用され、長押なげしにも杉の磨き丸太の割材を使用し、部屋を一順しています。

床の間部分を臨む

床の間は間口1間半あり、書院部分には、琵琶棚びわだなを設けた琵琶床にわどこが設けられ、天井部分は、当初は雲金砂子手蒔紙張りになります。
書院欄間は櫛形くしがたになり、障子の組子は細い割竹が縦に吹き寄せに入れられ、書院欄間は桐板で雪のような形の装飾の透かし彫りと埋木彫刻が施されています。

床脇をみると、天袋と地袋を設け、長押なげし下の壁止まりのねじれた変木は亀甲竹きっこうちくになります。
下り天井う分は竹の割肌の竹と皮付き面の竹を組み合わせた市松網代天井になります。
床の間との境の窓の格子には四角形に加工された胡麻竹の四方竹しほうちくがあしらわれています。

床脇部分を臨む

床の間反対側も興味深い構造になっており、一軒幅の壁に大きな丸窓が設けられ、写真左側の1畳が取り込まれる形で室内の広さが9畳間になるようにされています。

床の間反対側を臨む

広縁
食堂から客間の南側を通り居間まで延びる、巾4.5尺の入側になります。
床は室内側の3尺幅に畳を敷き、ガラス窓側は縁甲板を張っています。
これは設計者 保岡勝也やすおか かつや氏の「畳の外側を板張りにしておけば鉢植えなどを置くのによい」という思想があります。
天井部分は外の丸桁側の天井高を下げて米杉の市松模様にし、室内側を米杉目透かし貼りにしています。壁部分は客間と同じく京壁にし、外側は低い腰付きのガラス戸になります。
丸桁は3.5間通しの杉の絞り丸太を使用し、小壁には障子の嵌め殺しの欄間としています。

広縁を臨む

8帖居間
この部屋は日常的に使用された部屋になります。
廊下側に神棚と床の間を構え、天井は笹杢の杉板竿縁天井となります。壁は客間と同様、京壁になります。
床柱は吉野杉になり、反対側は、床框とこがまちの上に根付竹を立てています。炉が切られていることから茶室として使用するほか、庭の茶室を使用する際の待合としても利用されました。

隣のベランダの入り口は上部を丸く塗り廻し、太鼓貼りの襖が入り、庭園側には腰付きの雪見障子となり、外側に摺りガラスが入ります。

ベランダへの通路部分

庭園側は幅3尺の駆け込み天井となり、壁止まりには胡麻竹ごまだけを用いた下り壁を設えています。欄間部分は細い下地窓になります。室内の柱においては、客間同様、随所に北山杉の柱を使用しています。

客間との境

ベランダ(サンルーム)
南東に位置する4.5畳の板の間になります。一般的にサンルームに該当する部屋で、室内にはなるものの、ガラス窓を開けっ放しにした半屋外的な使い方を想定していました。床部分は幅6㎝のならのフローリング張りで、その上にカーペットを敷いていました。壁は真壁の鼠漆喰ねずみしっくい塗で、天井は杉材の竿縁になります。

サンルーム全景を臨む

子ども室
別邸に訪問した孫たちのために造られた部屋になります。
南側はベランダ部分に繋がり、東側には引き違いのガラス戸が付けられています。
子ども室から直接表に出て、庭で遊べるようになっており、外側には沓脱石くつぬぎいしが置かれています。
なお、現在は畳張りの室内になりますが、元々はコルク張りの部屋と考えられ、壁は真壁の漆喰仕上げで、天井部分は杉板の竿縁天井となります。

子ども室部分からサンルームを臨む

【編集後記】
この建物においては、長年、存在こそ知りながら2階部分が非公開ということで掲載できずじまいでしたが、最近、ひょんなことから2階部分が毎月1階公開されているということで訪問しましたが、じつに戻頃多い邸宅でした。
また、改めて訪問し直し、もっと調べ直したいと強く感じる邸宅でもあります。
川越には現在耐震工事中の大沢家住宅なども是非とも見たいところ。
まだまだ、見たい場所は綺羅星のように増えていきます。

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