見出し画像

わが心の近代建築Vol.114 明治生命館/東京都中央区

みなさん、こんにちわ。
最近は古民家建築や近代和風建築が続いている当note…
今回は久々のビルディング建築として、日本近代建築史を代表する明治生命館について記載します。この建物は、日本の近現代史をつぶさに見てきた生き証人の一人でもあります。

【明治生命館の歴史】
❏三菱弐号館
明治生命館が建つこの一帯は、明治初期は茫々ぼうぼうたる草原でしたが、日本近代建築の父 ジサイア・コンドルが設計した三菱壱番館が建てられたことを皮切りに、続々と赤レンガ建築が設置され、、その様は「一丁倫敦いっちょうろんどん」と呼ばれていました。
その様な中、この地にコンドルの愛弟子の曽根達蔵そね たつぞうにより三菱弐号館が建てられ、明治生命は当初、この中に入りました。

三菱弐号館
(明治生命観展示パネルより転載)

❏明治生命館の誕生
三菱弐号館も手狭になったことから、1928年に明治生命館の建設が決定しましたが、新社屋設計を依頼された曾根達蔵そね たつぞうは、指名コンペ方式を提案し、当時の建築界を代表する8名の建築家を推薦しましたが、東京美術学校(現 東京藝術大学)教授の岡田信一郎氏の設計案が採用されました。
当初は三菱弐号館を残し、隣接して新社屋を建築する予定でしたが、新旧両敷地を合わせた大建築を理想とした岡田信一郎の進言により、きゅしゃ奥の取り壊しが決定し、1930年に起工しますが、岡田信一郎おかだ しんいちろうは病に伏し、1932年に急逝しますが、実弟の岡田捷五郎おかだ しょうごろう氏が引き継ぎ1934年に完成し、曾根達蔵もその完成を見届けます。

工事中の明治生命館

❏戦時中から終戦まで歴史
日中戦争の汚泥化〜大東亜戦争に至ると、金属供出令でブロンズの扉手摺、照明器具などが回収されます。
東京大空襲などでは幸いにも被害は免れたものの、終戦にともない
GHQが進駐した際に、極東空軍司令部として接収を受けます。
2階会議室では、米英中ソの4か国代表による「対日理事会」が開催されたことでも、日本の近現代史の生き証人となり、接収はサンフランシスコ講和条約でGHQが解散されるまで続きました。

屋上で行われた返還式の状況
(邸内展示パネルより転載)

❏改修工事などについて
明治生命館は、戦時中の金属供出の狩補修に始まり、GHQの改変など、接収解除後には、竣工時の姿を失っていました。
返還後、岡田捷五郎おかだ しょうごろうが営繕委員会の相談役に加わり、戦時中に供出された部分に加え、米軍の変更箇所を竣工当時の姿に復元し1956年に工事を終えた翌年から、各地に分散した部署が戻り新しい時代の幕開けを迎え、1997年には昭和期の建造物初の重要文化財に選定され2001年に行われたリニューアル工事では、外壁を清掃し、かつての装いを取り戻すほか、各部屋では竣工当時の意匠を残しつつ、最新鋭の設備が導入され、現代的なオフィスビルに生まれ変わり、2004年に完成した30階建てにると融合し、丸の内MY PLAZAとして営業されています。

回収されたラウンジ(現在は静嘉堂文庫)
【10年前に撮影した写真を使用】

【設計者について】
明治生命館は、多くの建築家らが関わりますが、代表的な人物について臭いします。
❏岡田信一郎(1883〜1932)
1906年に東京帝国大学工学部建築学科を「恩賜の銀時計」組として卒業。
かねてより描格だった信一郎は海外留学は行わず、数多くの文献から学び、1912年の大阪市公会堂のコンペで辰野金吾ら重鎮を抑えて一等入選すると本格的に建築家として歩みます。
東京美術学校(現 東京藝大)で教鞭を執りつつ、様々な建築設計を行い、和洋問わず伝統的な建築様式を巧みに厚かったことから「様式建築の名手」と謳われ、中でも明治生命館は日本人建築家により西洋建築の最高傑作と言われています。
竣工後間もなく病魔に侵され、ベットの上から弟捷五郎しょうごろうに指示を与えるも完成を見ることなく、1932年に天逝します。

岡田信一郎
【Wikipediaより転載】

岡田捷五郎おかだ しょうごろう(1894~1976)
東京美術学校図案科第2部(現 東京藝大建築科)を卒業ののち、病弱な兄を補佐し、設計に従事し、兄の逝去後は建築事務所を引き継ぎ、明治生命館の他、琵琶湖ホテルなどを完成させ。吉村順三や宮脇壇といった戦後を担う建築家を多数育成します。
病弱な兄に代わり、米国留学して著名な保険会社などを見学し、主に室内装飾などを研究し、兄が苦手としたアールデコに長けた人物でした。

岡田捷五郎《おかだ しょうごろう》
【明治生命観展示パネルより転載】

内藤多仲ないとう たちゅう(1886~1970)
東京帝国大学に入学時は造船学を専攻していたものの、日露戦争後の造船不況を考え、建築学に転向し、佐野利器さの としたかに師事。東京絵遅刻大学卒業ののち早稲田大学教授に就任し、米国に1年間留学し、帰国後に耐震壁による耐震構造理論を考案し、1924年に「架構建築耐震構造論」で工学博士号を取得。
戦後は名古屋テレビ塔、さっぽろテレビ塔、東京タワーなどの設計を手掛け、「塔博士」とも呼ばれました。

内藤多仲
山梨近代人物館HPより転載

梶田恵かじた めぐむ(1890~1948)
岩手県で生まれ、東京美術学校図案科に在学中に西洋家具に興味を持ち、寺尾商店に入社後各デザイナーとして3年ほど勤めたのち、疎開するまで家具デザイナー/製作者、工芸作家として活躍。
岡田信一郎とは、東京美術学校からの関係で、岡田信一郎は生涯にわたり、家具是座員を梶田恵かじた めぐむに一任しています。
また、1925年のパリで行われたアールデコ展にも入賞するなど、世界的にも知られた人物になります。

【たてものメモ】
明治生命館
●竣工:1934年
●設計:岡田信一郎(信一郎亡き後は弟 捷五郎しょうごろう
●構造設計:内藤多仲ないとう たちゅう
●文化財指定:国の重要文化財
●入館料:無料
●休館日:毎週月曜日(祝日の際は翌日)
●交通アクセス:
 ・東京メトロ 千代田線「二重橋前」駅徒歩0分
 ・JR線「東京」駅徒歩7分
●参考文献
 ・見学配布パンフレット
 ・日本近代建築大全(東日本編)/米山勇著
など
●留意点:1階部分は喫茶室休業時(毎週火曜日)に撮影可能

【外観について】
先述のように、明治生命館は線前期のビルディング建築を代表する建物になります。お堀側から見た際に10本、サイド部分は6本の古代ギリシアを起原とする列柱が立ち並びます。
建物から見て1階部分は粗石組みのグランドフロアとなり、その上に列柱が並ぶ主階(ピアノレービル)、その上層階に屋階(アティックストーリー)を載せており古典主義建築の伝統的な壁面分断になります。
外装石材には岡山県北木島産の花崗岩かこうがんが用いられそ上要は10万尺にもなり、2年間にわたり、1日平均200人が採掘と運搬に従事しました。

明治生命館 外観

主階部分は2〜6階までコリント列柱が建ち並び、エンタシスと呼ばれる視覚矯正のための微妙なふくらみが描かれ、上部に行くにつれて細くなり、上部にはアーカンサス(葉アザミ)の彫刻を模った装飾がなされています。

列柱部分を臨む

7階部分の窓を引き延ばし4層に見えるようにする手法は、アメリカのビルディング建築で多く見られる意匠になります。
軒(コーニス)部分を見ると、7階部分にはモデリオン(持ち送り)とロゼット(花飾り)が付き、ライオン像が模られています。
8階部分の上部は、パルメット(ヤシを模った装飾)とアンテミオン(スイカヅラを模った装飾)がそれぞれ着き、古典様式を踏襲しています。

7階〜8階部分を臨む

1階部分は雷門模様の帯が付けられるほか、上部には歯飾りが巻かれ、アールデコの装飾の鉄柵が付けられた窓が並びます。
出入り口部分にはランタン型の照明器具などがと取り付けているほか、扉部分には、アーカンサスがあしらわれたデザインになり、上部にはパラメットが付き、こちらは弟の岡田捷五郎おかだ しょうごろう氏の得意とするところです。

1階部分外観を臨む

【1階部分について】
❏店舗営業室

およそ100年前の竣工当時より店舗営業室として使用され、顧客の方に生命保険を通じて安心を届けてきました。
明治生命館は、その歴史的背景や建築意匠から重要文化財として保存される一方、現役の営業店舗としても活用される大変稀有な存在になります。
なお、現在、1階部分は店舗営業を終了し、喫茶室として活用されています。なお、中央部分はトップライトが使用されており、採光が図られています。(こちらは喫茶室として使用されていなければ写真撮影可能)

旧店舗営業室を臨む

回廊部分に張り巡らされている手摺てすりはブロンズ製になり、日本が大東亜戦争開戦ののち、金属供出令で回収されたものの、接収が終了した際、1956年の改修工事の際に同じ形式に復元されたっカ所になります。

回廊の手すり部分

吹き抜け部分の柱はイオニア式を基調とする26本の列柱が林立する一方で、壁際の柱に関してはトスカナ様式の柱になります。
なお、この部分も大理石(イタリア産ボテチーノクラシコ)貼りで列頭には渦巻きと植物模様が描かれています。
天井部分にはロゼット(花飾り)の彫刻が施工で作成され、アーカンサスがデザインされています。

1階天井部分

営業室ロビーにある書記台は柱や壁と同じく、大理石(イタリア製ボディチーノクラシコ)が用いられています。台座部分には外観の7階部分で見られた持ち送りのモチーフ(渦巻模様)が採用されるなど、装飾も建物と同じく古典主義様式を用いています

書記台

ロビーの長椅子は、明治生命館の家具をデザインした梶田恵かじた めぐむによるものです。
座面は革張りで、パネルにはエッグ・アンド・ダート(卵とやじり)の彫刻が施されていますが、重要文化財としての建物以外に、家具が保存・復元されている点も明治生命館の大きな特徴になります。

ロビーの長椅子

❏東玄関部分
中央部分に見える長細い箇所は、郵便物の集積ボックスになります。
明治生命館では、各階、2カ所に手紙を投函するシュートボックスがあり、北玄関と東玄関部分に郵便物を集荷するボックスが設けられています。
ここで集積されたものは、郵便局へ持って行かれ、配送される仕組みになっています。

集積ボックス

エレベータは2基と3基用意してありますが、内部モーターに関しては現代のものに変更されてはいるものの、エレベータ内部などは竣工当時の面影を良く残し、室内はシックな木目調になり、金色の雷門模様の帯が敷かれています。

1階エレベータ部分

【2階部分について】
❏回廊部分

2階は、1階営業室を取り囲むように回廊が回り、その部分に各部屋が設けられた仕組みになります。消火機能や郵便受けなど、当時のビルディングの中でも最先端のものを使用しています。

回廊全景

右下の金属部分は当時としても珍しい真空掃除機機能が付けられていました。各階では、壁の吸塵きゅうじんバルブにホースをつなぎ、吸引清掃。吸い取られたごみは地下2階の米j国政バキュームポン嘔吐ダートタンクへ運ばれました。
また、中央部分には消火栓が付けられ、消火機能が図られた当時最新鋭のものになりますが、それだけ関東大震災の恐慌が強かったことを伺い知ることができます。

吸塵バルブと消火栓

こちらの各階2カ所には郵便物を各界から直接投函できる米国カットラー社製のメールシュートが付けられています。
1階北玄関と東玄関にメールシュートから投函された郵便物が集積される集合郵便箱が付けられていました。

メールシュート部分

❏会議室
2階回廊の各部屋の中で最も豪華な室内になります。
会議室らしい厳格な意匠で纏められており、部屋全体のデザインは、古典主義様式を採用された室内になります。

会議室全体を臨む

この部屋は、終戦後、連合国最高司令官の諮問機関として、米英中ソに4か国代表の対日理事会が設置されました。
1946年4月5日に第1階対日理事会が開催され、マッカーサーが演説を行い、その後何回か、この会議に参加。
会議は隔週1階ずつ開催され、サンフランシスコ講和条約まで、延べ164回開催されました。

対日理事会の様子
(邸内展示パネルより転載)

暖炉側を臨むと、明治生命館内の暖炉は火を焚くための設備ではなく、あくまでデザイン的に設けられたものになり、多くは空調の吹き出し口になります。
時計に関しては、創建当初からダイナモ時計(電器時計)となり、全てマスター時計と繋がり、各所とも同じ時を刻んでいます。

暖炉部分を臨む

空調に関しては、創建時より明治生命館は冷暖房完備の施設となります。
当時としては最先端のものであり、冷房・暖房共に送風式で、換気設備を兼用していました。
写真左のツマミは当時からのものになりますが、現在は別のスイッチが設けられています。
角柱に関しては、溝彫り(フルーティング)が施されており、会議室に相応しい格調高い印象を与えています。

空調部分と柱を臨む

天井部分は、梁型が縦横に組まれており、格天井になります。
その周辺部分にはロゼット(丸い花飾り)と呼ばれる石膏彫刻がになります。これは外壁の軒部分や玄関扉部分にも施されています。

天井部分の意匠

❏食堂部分
こちらは役員の憩い場所、役員食堂に。
会議室に比較し、床に組子細工が施され、腰板までパネルが貼られるなどしているものの、全体的に軽やかな印象になります。
その大きな点として、三心アーチがあり、両脇に2つのカーブと中央の緩やかな曲線からなるアーチが影響しています。

食堂 全景

アーチ下や天井周囲にブドウの唐草をモチーフにした手書き風のデザインによる繊細な石膏レリーフが描かれています。
ブドウは西洋建築に頻繁に用いられるモチーフになり、北条などを意味しています。

ブドウの唐草のレリーフ

食堂部分に隣接する部屋は控室になります。
正面部分には料理用昇降機(小型エレベーター)が設置されていますが、地階の厨房と繋がっており、そのまま料理を運ぶことができました。
なお、上部左側には1階から4階まで、止まる回数を示しています。

控室

❏健康相談室
明治生命では、生命保険会社による社会貢献の一環として、1938年に健康相談室を設けました。
当時としては最新のドイツ製の心電図が導入されました。現在のように健康診断が一般的でなかった頃、健康の悩みを受け付ける場所は、人々の心と体にとり、大きな安心に繋がりました。

健康相談室 全景

❏西側応接室
お堀側に位置する部屋で、当初は図書室として使用する予定でしたが、その後に設計変更があり、応接室として使用され、1900年初頭のデザインが取り入れられた明るい室内になります。

西側応接室を臨む

室内中央部分にある仕切り板に関しては、梶田恵かじた めぐむ氏の作品になり、岡田信一郎とは師弟関係にあり、自邸の家具デザインにしても、彼に依頼するほど信頼しており、木と布という異なる素材を組み合わせ、それぞれの面には細やかな彫刻を入れたこだわりの品になります

間仕切り部分側を臨む

❏執務室
南側の執務室で、隣の応接室と併せて使用しました。
机も大きく重厚なものを使用し、壁には隣の応接とは異なり、木製パネルを貼り付け、暖炉も雄々しい羊を模ったものとし、古典主義的で重厚なデザインにしています。

執務室 全景

❏南西側応接室
ゲストをもてなすために使用された応接室になり、これまでの重厚で号kな装飾とはうって変わり、軽やかで華やかなデザインになります。
家具類の中でも中央部分の四角いテーブルも、先述の梶田恵かじた めぐむの作品になります。
暖炉部分は、上部の煙道部分が斜めに傾斜していますが、これもスパニッシュ様式の特徴です。

南西側応接室 全景を臨む

窓部分に葉菱格子のステンドグラスが採用されており、スパニッシュ様式風のデザインになるほか、カーテンレール部分も金属製になります。装飾に金属製品を多用する点もスパニッシュ様式で多く見られる特徴の一つになります。
また、天井部分はスタッコ(凹凸のある白塗り壁)時梁を用いた天井になり、そちらもスパニッシュ様式をよく表しています。

窓ガラス部分と天井

❏大階段
営業室と2階部分を繋ぐ階段で、手摺や壁に至るまでファイ離席を敷き詰めています。
大理石も2種類使用しており、壁面にはイタリア産大理石を。ステップ部分にはフランス産大理石を使用しています。アーチ窓から優しい光が差す意匠になっており、階段空間をやさしく包み込みます

2階より大階段を臨む

【7階講堂】
❏ホワイエ部分

こちらは昨年の東京建築祭で公開された箇所になりますが、現在の明治安田生命ビルができるまで、社内行事などに用いられました。
改変で絨毯などが取り払われていたものの、竣工当時の記録写真から絨毯が再度敷かれました。
手すりなど、2階部分同様、戦時中の金属供出令で回収されるなどしましたが、室内意匠をできうる限り保存し、後世の改変過疎を復元しながら、現在の利用状態を満足させる性能を確保しました。

ホワイエ部分

階段部分は、のちの改変などで壁が設けられて隠され、手摺も金属供出令で回収されましたが、竣工当時の写真から復元され、手摺部分もホワイエから復元されました。

8階部分へ行く階段

講堂部分は、300人ほど収容可能になっています。。石膏レリーフの耐震性と耐久性の調査、破損個所の修繕などがなされるほか、竣工当時の姿を可能な限り再現しています。
接収期間中は扉が米国空軍のシンボルカラーのエアフォースブルーに塗りつぶされていましたが、のちの修繕工事により、竣工当時の姿に戻されていあいます。

舞台側を臨む

講堂は8階と2層になっており、8回側にも人が入れるようになっています。
また、両サイドなどに木材パネルを貼って重厚さをあらわすほか、天井部分、腰壁より上には石膏に装飾がなされているほか、アー氏が付けられています。

舞台側から8階部分を臨む

【編集後記】
明治生命館は、いつかは記載したいと感じていましたが、やっと記載に至りました。建物自体が線前期に本を代表するビルディングで、特に2階会議室は、戦後日本を占う「対日理事会」の舞台となりましたが、改めて大切に保存されていくことを願って止みません。
この建物に関しては、意外と知られていない箇所も多く、ぜひとも訪問されることを強く推したい場所になります。

いいなと思ったら応援しよう!