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わが心の近代建築Vol.64 大間野町旧中村家住宅/埼玉県越谷市

みなさん、こんにちわ。
最近は、洋館ばかり連続していました、このnote…
今回は、純和風建築になる、埼玉県越谷市に保存された、大間野旧中村家住宅について記載します。

≪越谷の歴史≫
①江戸期の越ケ谷の状況
まず、越谷の歴史について記載すると、越谷は、日光道中・奥州道中の宿場町で、本陣や脇本陣、問屋場がおかれ、数多くの人々が通行。その中には、渡辺崋山や近藤勇、松尾芭蕉などもいました。
なお、初代 歌川広重により、その状況が描かれています。

初代 歌川広重『富士三十六景 武蔵越かや在』【邸内展示パネルより転載】

また、越谷には、何本もの川が走り、水路を利用。
様々な物資を運搬、特に、藤助河岸、瓦曽根河岸などは日光道中に接していたため活発化。特に藤助河岸は、綾瀬川と日光道中が交差するあたりに設けられた河岸で、昭和初期まで活用されました。

藤助河岸-綾瀬川改修前【邸内展示パネルより転載】

②明治以降の歴史と交通の近代化
明治期になると交通は近代化。
まず馬車鉄道が造られますが、1899年には東武鉄道が北千住~久喜間が開業。この界隈に鉄道網が走るようになり、都市化が徐々に進みます。

開業時に走った蒸気機関車B1形5号【Wikipediaより転載】

越谷市内では、越ケ谷駅(現・北越谷駅)が開通と同時に開設。1920年には越ケ谷駅(現・越谷駅)が造られたのに対し、今までの越ケ谷駅は武州大沢駅に改名されます。

武州大沢駅(現・北越谷駅)【邸内展示パネルより転載】

越ケ谷駅(現・北越谷駅)が開設したのに際し、乗合馬車が吉川や野田方面、浦和方面まで運行。1920年からは越ケ谷(現・越谷駅)~吉川間まで、乗合自動車(バス)が運航されました。

③戦時中から現在の状況
太平洋戦争末期~戦後まもなくは、作物を求め、自身の持つ着物などとジャガイモなどを交換するため多くの方が農村に向かいますが、高度経済成長期になると、越谷市の町並みも一変します。

1948年 蒲生駅から農村に向かう買い出し部隊【邸内展示パネルより転載】

鉄道では電化・複線化が進み、日比谷線との相互運転化で都心とのアクセスが桁違いに向上したこと。
また1973年にはJR武蔵野線の買う通で地域の人口も増え、商業化・工業化が促進され、現在の越谷市が造成されます。

相互運転時の北越谷駅の状況【越谷市HPより転載】

≪中村家の歴史≫
今回扱う、大間野中村家住宅の施主、中村家の歴史をたどると、関ケ原の戦いで徳川方につき、関東に移住し越谷の地を開拓。
屋号を「四郎兵衛様」と呼ばれ、中村四郎兵衛を名乗り、江戸期にはこの界隈の名主を務め、明治期には地域を代表し、埼玉絵kン議会議員も務めた家柄になります。
中村家では、近くの染物工場で半纏を特注。
「中村」の文字をデザイン化し、年中行事や記念行事など、ユニフォームとして着用しました。

中村家の半纏

≪建物メモ≫
大間野町旧中村家住宅
●竣工年
 ・主屋:1914年
 ・長屋門:1889年
 ・土蔵:1894年
 ・石蔵:昭和初期
●設計者:
 ・主屋:中村萬平
 ・長屋門:ー
 ・土蔵:中村萬助
 ・石蔵:ー
●文化財指定:国登録有形文化財
●入館料:¥100
●写真撮影:可
●交通アクセス:
 東武スカイツリーライン「蒲生駅」徒歩15分
●参考文献:
 ・越谷市教育委員会著「大間野町旧中村家住宅」
 ・歴史背景は大間野町旧中村家住宅 展示パネルを参照

≪長屋門≫
長屋門は江戸期は武士や村役人層の屋敷に多く見られるもので、越谷市に点在する名主屋敷では多く見る事ができました。
大間野の中村家住宅のものは、1886年(明治19)に作られたもので、寄棟造、瓦葺。正面は17.72m、側面は4.54m。
外壁には鼠漆喰と呼ばれる松を焼いてできる煤から作られる炭をくわえて灰色に仕上げています。

長屋門部分

なお、中央部分にはケヤキ材の一枚板を利用した大扉と潜り戸が入り口として設けられています。
門周りの飾りには、青銅製の饅頭飾り(通称:おっぱい飾り)が用いられ、特別な来賓者があった時のみに大門が使われ、通常はその脇の小さな門が使用されまし

長屋門の入口部分

≪石蔵≫
石蔵は、大間野旧中村家住宅の中で、最も新しい建造物で、昭和初期のもの。切妻造・瓦葺で、正面は4.54m、側面は6.36mになり、かつてあった土蔵(西の蔵)と比較し、東の蔵と呼ばれ、主に米蔵として使用されました。
特徴として、房州石と呼ばれる石材を使用。
入口は向かって右側に漆喰塗りの戸が取り付けてあります。
入口を閉める際には、左側の格子戸に細工されている「落とし鍵」を利用して外部から施錠する仕組みになります。

石蔵

石蔵は米蔵として使用されていたため、米俵を置く際に安定するように、きわくがつけられていますが、現在は、中村家の資料が展示されています。

石蔵内部

≪主屋外観≫
①主屋正面
主屋は1914年に建設。寄棟造、瓦屋根になっており、窓ガラス部分は当初は雨戸でしたが昭和期に設置。左側には防犯のために格子が付けられました。なお、主屋に関しては、優秀な材木を使用。竣工までに5もの年月がかかりました。

主屋正面部分

②式台玄関
なお、この邸宅は大正期の建造物でありながら、江戸期の伝統的な邸宅に倣い、式台玄関を設けています。
式台玄関は名主屋敷や武家屋敷に付けられたもので、特別な来賓者専用の玄関になり、間口3.6m、奥行き1.8mになり、舞良戸も設えてあります。

式台玄関部分

懸魚に注目すると、真ん中にとぐろを巻いた蛇が描かれ、上部と左右には何匹もの蛇が描かれています。懸魚の下には蟇股が付けられています。
蛇は古来より水の守り神とされてきており、火災から中村家を護る意匠が込められています。

懸魚部分

③屋根部分
越谷は、水利を活かした運搬が採られますが、それが故、水害も多く屋根部分には屋根裏が設けられ、米などを備蓄、いざという際には、地域住民に提供しました。
屋根瓦に関しては、熨斗瓦と雁振瓦を使い、青海波と呼ばれる装飾を付けた大棟になります。青海波は半円形を重ねて表現する幾何学的模様で、染め物などには頻繁に使用される模様。瓦で水面の青波を表現。無限に続く波模様から未来永劫続く幸せの願いを表し、邸宅に使用する場合は水を用い、火災防止の意味合いもありました。

屋根瓦部分

≪平面図≫
主屋部分は…
 ・正面:20.24m
 ・側面:12.05m
 ・高さ:8.48m
の邸宅になり、江戸期の伝統的な4つ間仕切りの邸宅になります。一方で、窓ガラスなどが後に付けらえるなど、新時代んも技術なども盛り込まれた邸宅になります。

平面図【越谷市教育委員会パンフレットより転載】

≪土間部分≫
土間部分は、乾燥させた土にニガリや石灰を混ぜ、粘土を足した三和土を敷き、充分に閉まるまで木槌で繰り返し叩き締めます。
こちらは被くなどの通用口になり、炊事や作業を行う場所として活用されました。

土間部分

ここで一番特徴的なのはカマドで、越谷市に寄贈された当時は、取り壊されていましたが、関係者の方への聞き取りなどで復元。
大釜は味噌づくりなどに使用され、年に数回しか使用されず、通常は右側の3つの小窯を使用しました。

土間のカマド

カマドは煉瓦でつくられ「、従来のカマドと違い、地下に埋設されている煙道を通り、屋外の煙突から排煙される仕組みになります。
なお、煙道の途中には、灰取口が設えています。

屋外の煙突

≪生活部分:広間/寝間/板敷
①板敷の間
まず、板敷部分は、8畳間のスペースになり、家族の食事などに使用されました。右側には大阪障子を使用。
この障子は、商家などで使用されたもので、夏場には障子を外し、通気性を保ち、冬は障子を嵌めて保温性を保ちます。
また、大正期の建造物だけあって、ガラスも嵌められており、土間のj0王匡を見る事ができます。

板敷の間

②寝間部分
寝間部分は、8.5畳間になっており、布団などの収納のために、押し入れが設けられています。この部屋は、寝室という性格上、襖や板戸を締め切ると樋掛が入らない仕組みになっています。

寝間

また、板敷の間と寝間側の廊下の天井部分は、明かりおとりのための天窓が設けられていますが、増改築の際、こちら側にキッチンを設け、暗いために付けられたものになります。

板敷の間/寝間側の廊下

③広間
広間部分は、中座敷とも呼ばれ10畳間ありますが、右側には神棚が置かれ中央b抜分に最高神の天照大神が奉られ、左には大間野地区の氏神に当たる大国主命を。右側には各種のお守りを奉っています。

広間

また、板敷の間と寝間、広間の間にある柱はケヤキ材の大黒柱には1尺1寸6分(約35cm)のケヤキ材を用いており、それを補助するえびす柱が並列して使用されています。

大黒柱部分

≪接客部分:座敷/奥座敷≫
①座敷部分

座敷部分は、奥座敷の「次の間」部分にあたり、広さは7.5畳になります。内壁は接客の場という事もあり、緑色の京壁(砂壁)。
欄間はひし形をモチーフにした組子細工の菱欄間になります。

座敷部分

②奥座敷部分
奥座敷は、正統派の書院造りになっており、室内の広さは12畳になります。なお、床柱は唐木三大銘木のひとつ、タガヤサンを使用、床框は、こちらも唐木三大銘木のひとつ、床框は黒檀を使っています。また、床の間前の畳は1.25畳になっており、床のm化を切らないような配慮がされています。
この部屋は、2011年の東日本大震災の被害を受けたものの、壁の若干程度のヒビのみでした。そのため、壁の一部は塗り直したものになります。

奥座敷

また、付書院部分は障子は正六角形を基調とした亀甲物の「桔梗麻の葉文様」や、八角形と四角形を組み合わせた蜀江文様を使用しています。
書院欄間部分は、正六角形を組み合わせた「桜亀甲文様」などの組子細工を使用しています。

書院欄間部分

書院の地袋は江戸時代後期の漢学者 蜀山人(太田南畝)のもの。
民生 在勤 則不  匱
民生は勤るにあり 即ち匱しからず
  意:民の生活が安定するには、懸命に働くことである。
    そうすれば貧しくなることはない
かせぐに おいつく 貧乏 なし 蜀山人
  意:常によく働けば貧乏しない
とあります。
中村家の家訓は、ぼろを着てよく働け、でした。

書院欄間の地袋

奥座敷前の廊下部分を見ると、床板の木材はケヤキ。
軒桁は杉の曲がりの無いものをを一本使用しており、その長さは9mにもなります。現在、これほどの木材に出会うのは非常に難しい、価値あるものになっています。

奥座敷側の入側

≪庭園部分≫
奥座敷側から庭園を臨むと、竣工当時から水のない庭園になっており、木々などで池を表現。
築山の上には、屋敷神の社が造られています。

庭園部分

屋敷神の社殿は、木造平屋建て、銅板葺きの桐妻屋根になっており、随所に彫刻が彫られています。
また、正面の破風飾りは「鶴と亀」、背面部分には「波」が描かれています。
な、東京都青梅市の御岳神社を勧請したものになり、盗難除け、魔除け、豊作の神として掲げられています。

御岳社

≪土蔵≫
土蔵部分は1894年(明治27)に建設。切妻造、瓦葺の土蔵になり、正面は7.29m、側面は4.54m。1階床下に1.2mの空間が造られ、四方には外部から開けることのできる通気口が付けられています。土蔵内には、1階に長持や御膳などの生活用具を。2階には江戸時代の古文書や書籍類が多数い保存されています。

土蔵部分

入口の大きな鉄扉で、南側が約350㎏、北側が270㎏になっています。また、壁部分は17㎝になります。

土蔵の扉部分

なお。土蔵内には箱階段が取り付けられていますが、1896年(明治29)のもので、越ケ谷町新石町の建具職人、中山楢三郎。安太郎氏の作品になります。

箱階段

≪編集後記≫
最近、洋館巡りをしていて、久しぶりの和風建築として、この邸宅を選択しましたが、決して大きな邸宅ではないですが、住まわれた方々の息遣いを感じられる素晴らしい邸宅になります。
この締約が末永く大切にされ、今後伝えられていくことを願ってやみません。

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