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わが心の近代建築Vol.104 取手宿本陣旧染野家住宅/茨城県取手市

みなさん、こんにちわ。
今回は、11月に訪問した建造物から、取手に保存された取手宿旧染野家住宅について記載しますが、こちらの建物は、全国的にも非常に珍しい本陣建築となり、水戸街道の取手宿の本陣として活用され、水戸藩主以外にも、水戸藩士・他の大名も本陣として使用しました。

≪水戸街道について≫
水戸街道は江戸期、水戸〜千住宿を繋ぐ交通の要衝で、千住・新宿・松戸・小金・我孫子・取手・藤代・牛久・荒川沖・中村・土浦・中貫・稲吉・府中・竹原・堅倉・小幡・長岡・水戸の景20宿から成立していました。

水戸街道の状況
【Wikipediaより転載】

≪取手宿≫
江戸初期の取手宿は、佐倉道(守谷に向かっては守谷道)と呼ばれる、現在の守谷市と千葉県佐倉市を結ぶ道沿いにありましたが、寛文6(1666)年に利根川の大洪水で大きな被害があり、利根川に並行するような街並みに改められます。これが現在の県道取手東線にあたります。
水戸街道が取手を通るようになると、現在の取手競輪場や弘経寺あたりにあった大鹿村の住人が街道沿いに移住します。大鹿村の移住は1697年ごろに完了し、利根川の渡船場も現在の大利根橋あたりに移動し、後の水戸街道と取手宿の町並みが完成しました。
江戸時代のはじめ頃は、水戸街道は取手宿を通らず、我孫子から東に進み、布佐で利根川を渡り、対岸の利根町市川から北に向かっていました。
史料から確認できる水戸藩主の通行は1682(天和2)年に2代目水戸藩主 徳川光圀が江戸から水戸に向かった際だと伝えられています。

大正期の取手宿
【邸内展示パネルより転載】

明治維新簿は、廃藩置県により印旛件に加えられたのち、千葉県→茨城県に変夕されます。その後昭和24年に常磐線の松戸〜取手間が電化され、高度経済成長期には、千代田線の開通なども重なり、首都圏のベットタウン化がなされ、現在に至ります。

現在の取手市と利根川を臨む
【Wikipediaより転載】

≪徳川斉昭と本陣染野家≫
染野家は代々醤油醸造業のほか、名主を勤めたた名家で、1687(貞享4)年より、水戸徳川家から本陣の指定を受けます。その中でも、9代藩主徳川斉昭とくがわ なりあき(1800~1860)の関係性が非常に深い家柄でした。

9代水戸藩主 徳川斉昭
【Wikipediaより転載】

徳川斉昭とくがわ なりあきが天保 5(1834)年、水戸から江戸に戻る際に、取手の本陣に立ち寄り、壁紙に使っていた文谷筆の滝の画に和歌を書き込みます。壁紙は後に剥がされて掛け軸に仕立て、現在も染野家の家宝として守り伝えられています。
ほかにも、1840年1月、水戸に戻る際、和歌2首を上段の間の戸袋に貼り付けましたが、そのうち1首は、のちに石碑に刻んで染野家に贈られました。
また、徳川15代将軍徳川慶喜とくがわ よしのぶ(1837~1913)は真偽のほどは定かでないものの、1868年に謹慎先の水戸に向かう際に、表門で駕籠かごを降りて玄関先まで歩いたことが伝わっています。

裏庭に置かれた徳川斉昭からの和歌の歌碑

≪たてものメモ≫
取手宿旧染野家住宅
●竣工年
 ・薬医門:1805年
 ・主屋:1795年
 ・土蔵:18世紀後半〜19世紀初頭
●文化財指定:取手市指定有形文化財
●入館料:無料
●開館日:金/土/日(年末年始を除く)
●写真撮影:可
●交通アクセス:
 ・JR常磐線/関鉄線「取手」駅より徒歩15分
●参考文献:
 ・取手市の歴史においてはWikipediaを参照
 ・BS朝日放映「百年名家」
 ・取手宿本陣旧染野家住宅の展示パネル

≪染野家住宅の平面図≫
邸宅は、1795(寛政7)年に建築されました。
邸宅として使用されたピンクの部分と、藩主ら武士の使う本陣の紫の部分と2つに分かれており、現在、新座敷においては、ボランティアの方々の事務所として使用されています。
取手市では1987年に史跡に指定し、そののち染野家から土蔵・表門・主屋・歌碑が染野家から寄贈を受けて解体修繕工事を行ったのち、1996年に取手市指定有形文化財に選定し、1997年から一般公開されます。

平面図
【取手宿旧染野家住宅HPより転載】

≪表門≫
表門は薬医門の是座員となります。
染野家の古文書などから1805(文化2)年に建造されたもので、1978年の台風で大破したものの、建築部材を一部取り換えて再建されました。なお、土蔵・主屋の搬出入の障害になることと、修繕時期が来ていたため解体して復旧しました。

表門外観

薬医門には、神社仏閣でも多く見かける、おわん型の金具が付けられていますが、乳金物ちかなものといわれるもので、女性の乳房に見立てて、子孫繁栄などの意味合いがあります。

表門に付けられた乳金物

≪土蔵部分≫
主屋・表門と同じく18世紀末〜19世紀初頭に造られたものになります。
現在は立ち入り禁止ですが邸内は南側が1階建てに対して、北側は2階建てとなります。なお、竣工時期においては、梁の墨書から割り出すことができました。

土蔵 全景

なお、土蔵の左側にあるL字型のフックですが、乳鍵ちしかぎと呼ばれるもので、土蔵修繕時などに梯子をかけたり、雨どいや庇を付けるために用いられれます。土蔵部分は白漆喰しろしっくいに塗られ、染野家の家財道具など、貴重品がしまわれました。また、こちらの庇や腰板なども取り外し可能になっており、鍛冶などの際には取り外して家財道具を護りました

庇部分

≪主屋 外観部分≫
主屋は重厚な茅葺の建物になっており、ここに歴代の水戸藩主が宿をとりました。もともとの主屋が火災で喪失してしまったため1785年に再建したものになります。水戸顔道沿いに遺された本陣としては最も古く、かつ最大規模のものとなり、茅葺で入母屋造りの雰囲気を演出しています。
式台部分は張り出しており、入母屋造りとなりますが、室町時代から入母屋造りは限られた立場のものに赦された様式になります。

主屋全景

式台玄関は、武家専用のものであり、藩主が直接駕籠かごを置いては入れる仕組みになり、式台の3段は、低い位置から手前から
 ・モミ(踏み込み)
 ・ケヤキ(式台部分)
 ・サクラ(2段目)
 ・スギ(玄関)
とそれぞれ違った木材が使用されているほか、舞良戸まいらども付けられています。

式台玄関内部

式台玄関上部を見るとかやが層になっており、藁、ススキ、杉皮などで層を造っています。この方式は「筑波式つくばしき」と呼ばれる方式となります。また、蟇股かえるまたの中心部分には染野家の家紋、「丸に抱き沢瀉おもだか」があしらわれています。

式台上部から茅の層と蟇股かえるまたを臨む

≪本陣部分 内部≫
❏なかのま

天井が非常に高くつけられ、格式の高さを感じさせられます。
長押なげしを廻し、幅1間半の床を持ち、広さ15畳になります。床の間右側は、仏壇となります。
関東の邸宅ではよく見られる様式ですが、本陣建築で多く付けられたので、それを参照してほかの名主屋敷に用いられ、明治以降では、建築の制約がなくなり、一般的な古民家にも導入されました。

なかのま 全景

なかのまの縁側を臨むと、壁が設けられていますが、これは本陣として使用する際、建物内部を覗かれないためのものになります。
また、左側の四角い箱は雨樋あまどい受けで、後付けされた小野になります。雨戸は、戸と戸が横桟で閉まる形になり、外側から壊しづらいものになります。

式台玄関隣の縁側

❏3の間
縁側ごしに美しい庭を臨める8畳間になり、主君に仕える御伴の方が使用しました。欄間は巨大な菱格子になり、細い材を組んだものが天井真下まで連なります。大きい欄間を設えることにより、室内をより大きく見せ、1の間からの距離を感じさせる仕掛けがあります。

3の間 全景

❏2の間
3の間と同じく8畳間になっており、3つとも共通して竿縁天井が用いられていますが、これは、上段の間にいる藩主などの要人が宿泊する際、天井に人が隠れないための防犯上のためであり、万一、屋根裏に人が侵入すると、天井が落ちるようになります。

2の間部分

❏上段の間
藩主が通された室内になります。8畳間になりますが、小さい畳が6枚、大きい畳を4枚使い、10畳あるように見せています。これには3の間から見た際に遠近法で奥行きがあるように感じさせる効果があります。
床の間と違い棚、書院を持ち、他の部屋とは明らかに形式が違った小野になります。

上段の間 全景

釘隠しは六曜ろくようを用いており、こちらは城郭建築にも用いられ、格式の高さを表しています。旧染野家住宅では、釘隠しをそれぞれ変更することにより、室内の格式を変更させています。

釘隠し

また、書院部分は、格式を表すならば通常、付書院つけしょいんにするところ、わざと簡素化した平書院ひらしょいんを使うことにより。水戸藩の藩是である質素倹約、質実剛健しつじつごうけんをはかり、華美にさせない思いが込められています。
また、書院欄間には、ヒョウタンが描かれており、千成瓢箪せんなりびょうたんなどが表すように、古来より縁起物として使用されました。

平書院部分

❏縁側部分
上部には通気のために開放していましたが、現在はほこりなどの侵入を防ぐため、半紙が貼られています。また、床部分は外れるようになっており、藩主ら要人がこの部屋を利用した際、護衛のものがこちらに隠れて警備を行いました。
また、1カ所だけ中から外せるようになっており、万一、襲撃された際に内側から外して、要人が逃げさせるようになっています。

縁側部分

≪居住棟としての部分≫
❏ドマ

タタキで設えた土間となり、天井を見渡すと、松の木で幾重にも組まれ、茅葺を支えていることが分かります。また、横幅12mの松の木を2重張りにしています。

ドマ カマド側から大戸を臨む

❏チャノマ
染野家の食事などの団欒の場、会合の場として使用しました。
昔は、囲炉裏いろりが彫られ、茶釜が置かれた跡が残されるなどしました。また、現在は白漆喰が塗られているものの、本来は陣屋部分と分けて淡茶として核を下げていました。

チャノマ全景

❏ナンド
寝室として用いられました。小さいながら、床柱が付きますが、角材ではなく丸太材が使用されています。なお、神棚は部分には床の間風に設えてあり、神様をお祀りするため、1段高くしています。
また、防犯上のため、槍掛けが置かれています。

ナンド部分

❏ヒロマ
上部は神棚になり、染野家の業務が行われたほか、明治期より、郵便事業の事務所として持ち要されました。
神棚下の板戸により陣屋部分と分けられ、通常は締め切り、家人は入らないようにしていました。

ヒロマ全景

板の間部分を臨むと、大きなガラス窓が出窓風になっていますが、明治11年に染野家当主が政府から郵便事業を委託され、その窓口になっています。この例は全国的に見ても現存するのは4例しかなく、大変貴重な文化財となります。

郵便窓口部分

≪編集後記≫
百年名家を拝見し、この邸宅を知りましたが、それまで、茨城県の取手が水戸街道の宿場町であったこと、また本陣建築が残されていることに驚きました。そして、これだけの邸宅が残されていることに、ただただ感謝しかありませんでした。
来年度は執筆数は減りますが、その都度公開していけたらと、また、囲記載した記事を再チェックし、誤字脱字などを再チェックして投稿しなおしていきたいと感じます。


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