わが心の近代建築Vol.62 東山旧岸邸/静岡県御殿場市
みなさん、こんにちわ。
今回は、御殿場にある岸信介氏の別邸建築について記載します。
岸信介氏は、戦時~戦後期に活躍した政治家で、安倍晋三氏、岸信夫氏の祖父に当たる人物で、この邸宅は岸信介氏が晩年期の17年間を過ごした別邸建築になります。
≪御殿場の歴史≫
①江戸期の歴史
まず、御殿場の名前の由来は、徳川家康が最晩年気を過ごすために御殿造営を命令したことに由来しますが、御殿造営中に徳川家康が逝去。
その後も御殿造営の継続命令が出されるも、実際に徳川家や江戸幕府が使用することはなく、小田原藩主の稲葉氏が鷹狩りなどに使用。その後、藩主が大久保家に切り替わったのを機に解体されました。

②明治期以降の歴史
なお、日本が開国した際、箱根や富士山界隈には外国人が観光を目的に訪問。
そのなかには御殿場から眺める富士山の景観を愉しむ人も多く、1889年に、御殿場ルートの東海道線(現・御殿場線)が開業したのに際し、御殿場が富士山の景観を愉しめる場所として注目されます。夏場は標高も高いことから避暑の地として、別荘地としても注目。外国人や西園寺公望ら政財界の著名人の別邸建築が数多く建設されました。

ただ周囲の住民と外国人の関係は当初うまくいかず、御料地が払い下げされた際、亜米利加村が総勢され、プールやテニスコートなっどが造られますが、日米の関係悪化によりアメリカ村の住人は帰国を余儀なくされ、恵泉女学園・捜真女学校及びその関係者などに別荘を譲渡していきました。

③終戦後の御殿場
御殿場は市政発足後は、順調に発展。昭和40年代の高度成長期と東名高速道路の開通により、僅かな地場産業と農業が主だった産業は、1984年に10社余りの企業誘致に成功。
土地区画整理、駅前再開発などが行われ、1994年には人口も8万人に到達し、ショッピングモールなどが造られました。

≪施主・岸信介≫
今回の施主、岸信介(1896~1987)も御殿場を愛した人物の一人。
岸信介は山口県に生まれ、東京帝国大学卒業後は農商務相に入省、満州国の経営に携わり、帰国後に東條内閣の商工大臣に就任。
そののち政界を離れ、復帰後、自由民主党結党に参加して初代幹事長に就任。
その後、第56.57代総理大臣に就任し国民年金法の制定、日米安全保障条約改定を行い1970年に、東山旧岸邸に転居し、晩年期の17年間を過ごしました。

≪設計者・吉田五十八≫
設計者の吉田五十八(1894〜1974)は、太田胃散創業者。太田信義のもとに東京で生誕。
生まれて間もなく母の実家に養子に出され、東京美術学校(現・東京藝大)にて建築を学び、当時の新建築に憧れて欧米に留学。
留学したのち、他の若い建築家たちが新建築に魅せられる中、伝統的な建築に魅了。
帰国後の五十八は新建築ではなく、日本建築に活路を見出し、日本建築の近代化に力を注ぎ、近代数寄屋建築を研究し、数寄屋建築に新素材だったアルミなどを巧みに導入。
代表作として、成田山新勝寺本堂、吉田茂邸、旧猪俣邸、五島美術館などあり、その中でも東山旧岸邸は文化勲章受賞後に設計した最晩年時のもので、吉田五十八の魅力が詰まった作品になります。

≪東山旧岸邸についての流れ≫
東山旧岸邸は1969年に竣工。
その後、岸信介氏が逝去したのちは、安倍幸子氏が所有ののち、2003年に御殿場市に寄贈され、一般公開。
2009年からは、和菓子の虎屋グループにより「とらや」の工房と喫茶室が岸邸の脇に作られ、邸宅を運営管理。
東山旧岸邸は吉田五十八建築の集大成とされ、施主 岸信介の生活に配慮しながら伝統的な数寄屋建築の基調としながら現代的なニュアンスが込められ、現在は国指定登録有形文化財に選定されています。

≪たてものメモ≫
東山旧岸≫
●竣工年:1969年
●設計者:吉田五十八
●文化財指定:国指定登録有形文化財
●写真撮影:可(一部不可な場所あり)
●参考文献:
・BS朝日放映「百年名家」
・内田青蔵/小野吉彦著「お屋敷散歩」
・御殿場市HP「 御殿場デジタル資料館」
・東山旧岸邸内の展示パネル
など
●交通アクセス:JR御殿場線「御殿場」駅よりタクシーで10分
●留意点:毎年1月に2階を特別公開
≪外観について≫
①正門部分について
まず、東山旧岸邸は、山門を超えたあと、うっそとした竹林を抜け、途中、老舗和風菓子店「とらや」の喫茶室とそ分岐点の反対側を過ぎたところに見えてきますが、こちらの玄関口は、「東山旧岸邸公開時設けられたもので、本来の正門は、この写真の障害者用入り口部分になります。

②正面写真
左側部分は公開にあたり新造された部分で、かつては同じ大きさの車庫と使用人室を配置しています。
主屋は建物全体が軒の深い大屋根で覆われ、中央部分を中心にして、左側が2階建てとし、右側が平屋建てとなります。
建物全体的に自然のp中に低く配置されています

③内玄関部分
なお、左側は1階が内玄関となり、内玄関の外壁に張り出す形で2階が設けられ、張り出した部分のデザインは、日本の伝統建築と異なり、柱を表に出したハーフティンバー様式風になっています。

④表玄関部分
表玄関部分は、太い柱に囲まれた力強いもので、軒は長くとられ、角材を使用。また、出入り口に関しては、日本の伝統的な舞良戸を巧みに取り入れ、床面には花崗岩を使用しています。

⑤庭園部分から臨む
庭園部分から建物を臨むと、建物は敷地中央の位置に配され、建物は3ブロックに分かれていています。作庭は、庭師・小川治兵衛の甥、岩城亘太郎によるもので、岸信介は、柴犬とを庭で飼っていました。

≪平面図について≫
御殿場の邸宅に関しては、大磯のある旧吉田茂邸と同じく、元首相の邸宅という事もあり、生活棟としてのみではなく、公の場としても使用に耐えうるように、迎賓に耐えうる形状になっており、2階建て部分が生活棟いあたり、平屋部分が迎賓施設としての側面があります。

≪1階部分≫
①玄関部分
玄関土間は小さな平瓦を敷いた四半敷きで、落ち着いた雰囲気を与えています。
また、天井部分は数寄屋風の造りになっていますが、照明を埋め込み式にし、天井の梁部分に勝て材を使う一方、新素材のグラスファーバーを使う、従来の数寄屋建築に新たな息吹をくわえています。

②玄関ホール部分
玄関との接続部分にガラス扉を設けていますが、この傾向は通常オフィスなどの用いることが多いのですが、吉田五十八は邸宅建築に活用。天井部分は、竹/木/樹脂素材を活用したもの。
玄関部分と同じく照明は天井に埋め込み、モダニズム風になっています。
また、左側に見える非磁性のチェアなども、吉田五十八設計のものになります

中庭に関し、採光のために設けており、柔らかい光が差し込んできます。左側の柱は、この邸宅の大黒柱となります。
また、スダレをアルミ製にして、伝統的な数寄屋建築に現代的な素材をマッチさせています。

③居間部分
柱や梁などは力強く、日本の伝統的な古民家の印象をうけますが、一見無垢材に見えるものの、張り物になります。
また、こちらにも竹と木材、そして樹脂材を重ねたものになります。床の間に関しては、椅子に座った位置に持ってきて目線を併せています。

なお、居間側の窓枠のレールは、外側から雨戸/網戸/ガラス戸/障子、とすべて壁に収納できる仕組みになっており、柱が視界を遮らないような配慮がされています。

④食堂部分
障子や雨戸、窓ガラスなどは、すべて収納。
天井が今より低く抑えられており、天井には太い梁がめぐらされていますが、こちらもデザイン性のもので、天井照明に関しては、手埋め込みにされ、窓枠なども壁に収めることにより、視界を遮らない仕組みになっています。
また、正面の蒔絵装飾は、小林古径に学んだ懸 治郎(あがた じろう)氏の作品で、明治座の緞帳、ホテルオークラの壁画などを手掛けた人物になります。

食堂から外観を臨むと、庭園を一望でき、その様子は、1枚のキャンパスのようになっています。
なお、岸能助が住んでいたころ、庭園にはタロウ、シェルティの2匹の柴犬が飼われていました。

⑤書斎/応接間
書斎らしく、無駄な装飾を排除した空間になっており、考えを洗練させられるようになています。
部屋の光を遮るように、障子が付けられているのも大きいところ。
その一方で、室内の木材には高級材のクルミを使用。クルミ材は割れや変形の少ない木材で、使い込むと美しい光沢が出るのが特徴になります。

⑥水屋部分
廊下部分を奥に行くと2つの和室になりますが、これを茶室としても使えるように、水屋が付けられていますが、通常の水屋と異なり、流しのところに12cmの縁が取り付けられています。
これにより、水が撥ねないような対策が施されています。

⑦6畳 次の間
廊下を渡ると、6畳間の”次の間”と8畳間の”座敷”になりますが、6畳間の和室は、左側の欄間に関しては付けられず、空洞化。
また、障子などの襖の建具も薄く作られ、洗練された造りになっています。

また、欄間の鴨居が経年により落ちてくるのを防止するための吊束をなくした代わり、今まで和風建築では一般的ではなかったスチール製の建築部材を使用しているのも大きな特徴になります

⑧8畳和室
座敷は8畳間あり、床柱は竹材を使用しているものの、飾りのもので、本当の柱などは壁に埋め込まれています。また、畳縁の厚さを薄いものにし、空間をスッキリさせています。

なお、右側の地袋風の部分は暖房機のラジエータになっており、今までの和風建築では使用されたかった建築部材を、和室の中に落とし込んでいます。

⑨キッチン/女中室
キッチンは、プライベート空間のため、簡素に作られていますが、動線に配慮されており、当時いた3名の女中さんが働きやすい機能的なデザインになっています。
また、プライベート部分とパブリック部分の境に位置し、万一、火災が起きた際には、扉を固定している鉛が溶け、防火壁のように降りてくる仕組みが採られています。

また、キッチン脇には女中室が付けられ、岸邸で勤務している方の控室になっています。

≪階段部分≫
階段を上がると、岸信介の寝室や浴室などの、完全なプライベート空間になり、上部を見ると、化粧梁が付けられています。なお、照明もモダンなデザインになっています。

≪2階部分≫
①脱衣室/浴室/トイレ
脱衣室部分の鏡に関しては、壁一面に使用しており、浴室に繋がっています

また、浴室部分に関しては、岸邸時代は檜風呂でしたが、のちの居住者により現在の浴槽に変更されています。
が、内装は竣工当時のものを残し、天井は水滴対策のため、舟底天井になっています。

②和室部分
和室は、寝室より1段高く設けられており、洋室での椅子里和室での正座の視線を同じにする工夫がなされています。
床柱風の装飾の反対側は地袋風のラジエータが付けられ、空調器具が埋め込まれています。

また、下の襖部分から、かつては富士山を眺めることができ、襖に関しては、細い桟に金具のレーンを付けて開け閉めできるようになっています。

③納戸
納戸部分には夫人の着物などを収納しましたが、箪笥に関しては造り付けになります。
また、棚についたメモなどから、岸邸時代の状況を伺い知ることができます。

④寝室部分
寝室の家具は、吉田五十八氏自ら設計したもので、和室より一段低く作られています。ベットの下には金庫が付けられており、岸信介が元首相であったため、万一の際に備え、御殿場警察への緊急電話が掛けられる仕組みになっています。

また、この部屋のクローゼットには最新鋭の機能が付けられ、扉を開けた際に蛍光灯が付く仕組みになっています

⑤廊下部分など
廊下部分に関しては、奥側の鉄扉部分は、貴重品倉庫になっており、岸信介が保持していた刀剣や掛軸などの品々が保管されていました。また、右側の部分は収納スペースになり、下部はラジエータになっています。

また、トイレ部分も岸信介の邸宅時代の様子を伝えており、特に洋式トイレはTOTOのウォッシュレットの初号機が使用されています。


≪編集後記≫
東山旧岸邸に関しては、自身、思い入れ深い建造物の一つ。
また、設計者の吉田五十八氏により、新素材を巧みに使用することにより、今まで実現不可能だった様式を数寄屋建築に導入し、新たな息吹を吹き込みました。
これは、吉田五十八が若き日、洋風建築を学んだことが、反映されたのではないかと思えてなりません。
