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わが心の近代建築Vol. 46 荻外荘(近衛文麿邸)/東京都杉並区

みなさん、こんにちわ。
今回は、その存在こそ広く知られていたものの、謎のヴェールに包まれていた別荘建築、荻外荘について記載します。大東亜戦争前夜の日本の舵取りを行った、公爵・近衛文麿の邸宅…
この建物は、玄関棟と応接間が東京都豊島区に移築されていましたが、近衛家から杉並区に寄贈されたのを機に返還、復旧作業を終え、2024年の12月に公開されました。

【荻窪の歴史】
まず、荻外荘のある荻窪の歴史について記載すると、東京都杉並区、新宿駅から4駅に位置にあり、周囲は水はけの悪い関東ローム層にある中、戦服地側のある地域は水利がよく水田が開かれ、江戸期には幕府の天領に。
1892年には甲武鉄道(現在のJR中央線快速)が荻窪駅を開業したに伴い、関東大震災を経て、喧噪な都会を離れ、当時の武蔵野の閑静な荻窪に別荘を求め荻窪に中中し、鎌倉と並ぶ別荘地になりました。


1952年の荻窪駅【三井トラスト不動産「写真でひもとく街のなりたち」荻窪より転載】

中でも1927年に与謝野晶子/鉄幹夫妻が南荻窪に居を構え、1937年に近衛文麿が今回扱う「荻外荘」を構えたことから閑静な住宅地として評価され、井伏鱒二、太宰治、宗像志功、太田黒元雄、角川源春ら多くの評論家や作家、文人らが居を構えました。
また、周囲には荻外荘以外にも、角川源春、太田黒元雄の邸宅、西欧ロッヂングなどの近代建築が多く残されています。

西欧ロッヂング旧館【Wikipediaより転載】

また、戦後、中央線の混雑緩和のために丸の内線が新宿から荻窪に延長し、閑静なベットタウンは住宅街に発展し、今日の姿を遂げていきます。

【荻外荘の歴史 ①入澤邸から荻外荘へ】
まず、荻外荘は、大正天皇の侍医頭を務め、医師法の制定や脚気の対抗策の「糠エキス」などを考案した入澤達吉(1865~1938)の別荘として1927年に建てられます。
入澤達吉は、越後の国柴田藩蘭方医だった入澤恭介の長男として生まれ、東京帝国大学卒業後に渡独し、内科学などを学んだ後に帰国、様々要職を歴任したのち、1920年より大正天皇の侍医頭として活躍。
退官後、入澤達吉は余生をこの地で過ごすことを決め、邸宅を「楓荻荘」と命名し、所有地を「楓荻凹処(ふうてきおうしょ)」と命名しました。

「楓荻荘」時代の施主 入澤達吉【荻外荘HP 暮らしの変化と荻外荘1 「荻外荘」の概要と歴史的変遷より転載】

次に伊東忠太(1867~1954)について記載すると、米沢藩蘭医だった伊東祐順氏の次男として生まれ、東京帝国大学造家学科(現在の東京大学建築学部)で、宮内省技師だった木子清敬に学び、卒業ののちは、日本近代建築の大家、辰野金吾氏のもと、法隆寺建築を調査し、その様式がギリシャ建築に綴るものと発表。
また、造家と訳されていた「Architecture」を今日の建築と改めるなど、建築界に与えた影響は大きく、代表的な作品としては、東京都墨田区横網にある震災復興記念館や慰霊堂、東京都中央区築地にある築地本願寺、また、以前記載しが青森県平川市の「盛美園」のデザインモチーフになった紫雲閣など、様々な建築様式を巧みに盛り込んだ建築が多く、作品内に様々な動物をモチーフにしたデザインを用いることから、その様相は「伊東動物園」とも言われました。また、入澤達吉とは義弟の関係で、伊東忠太は、入澤達吉の趣味に合わせるように建設し、入澤自身も伊東忠太に全面的に任せました。

設計者:伊東忠太【荻外荘HP 暮らしの変化と荻外荘1 「荻外荘」の概要と歴史的変遷 より転載】

次に、第二の施主になった近衛文麿(1891~1945)についてですが、まず近衛家は、「大化の改新」で活躍した中臣鎌足から藤原道長に続く藤原家の五摂家(近衛、九条、一条、二条、鷹司)の筆頭を務めた名家で、近衛文麿は近衛家28代当主・近衛篤麿の港南として麴町区に生まれ、京都大学在学中の1916年に貴族院議員に選出。1919年には西園寺公望の随員としてベルサイユ講和条約に参加。西園寺公望の謦咳に触れ、1933年には貴族院議長。1937年には第一次近衛内閣を組閣するも瓦解。なお、内閣総理大臣時の気分転換と心身の休養をはかることの出来る場所を模索していた際に、かねて交流のあった入澤達吉の邸宅を訪問した際に気に入り、邸宅を譲り受けてもらいます。なお、荻外装の名前は、西園寺公望が荻窪の外に立地していたことから命名。以降、近衛文麿は、ここに居を構え、近衛文麿の意とは逆に様々な軍人や政治家が訪問し、第二次近衛内閣時には、この邸宅が政治の場としても用いられ、1945年に亡くなるまで、この邸宅で過ごします。なお、近衛文麿は、この邸宅の所感として…「たまたま荻窪の入澤達吉博士の邸宅を拝見すると、周囲の景観に、いくらか武蔵野の俤(おもかげ)を残しているのも今時には珍しく、建物も、さして広くはないが、斯界の権威伊東忠太博士が入澤博士と親戚の関係から、一切を任されて構想着工したといふだけあって、和洋折衷、一種独特で特異のあるものなのがひどく自分の興味を惹いたことであった」と。

近衛文麿【Wikipediaより転載】

【荻外装の歴史 ②荻外荘のその後】
入澤達吉から近衛文麿の手に渡ったのちは、1938年に蔵と別棟が同時期に増築。
なお、別棟の施主は近衛文麿の長男、近衛文隆(1915~1956)で、改修設計は、長谷部鋭吉(1885~1960)が担当し、施工は藤木工務店が当たります。

荻外装 はなれ

書斎(通称:とのさまのへや)においては、入澤邸時代は洋室であったものが、1938年〜44年までに数寄屋風の和室に改修。
近衛文麿は、もともとは別に本邸を構えていましたが、荻外荘を文化サロンとして使用する予定でしたが、引っ越したのちは、本邸にに再び帰ることはありませんでした。
なお、荻外荘では、政治の決定の場にもなり、当時、「荻外荘」という言葉が新聞の紙面に踊る日も多く、戦後、吉田茂が過ごした「目黒の外務大臣公邸」、鳩山一郎の「音羽御殿」、田中角栄の「目白御殿」のハシリともなります。

1937年(昭和12年)2月6日、組閣の大命を拝命後、荻外荘に詰めかけた記者団の質問に答える近衛【Wikipediaより転載】

【荻外荘の歴史 ③戦後の荻外荘】
終戦後、近衛文麿にも訴追が及び、1945年12月15日に自害。
なお。荻窪界隈は空襲に遭わず、荻外荘も戦火を逃れましたが、主亡き荻外荘を、一時期、吉田茂が借り受け私邸代わりに利用します。

荻外装と吉田茂【邸内展示パネルより転載】

なお、そののちは近衛文麿の次男・道隆氏が住み続けますが。1965年に邸宅の表玄関や客間が天理教に買い取られ、豊島区の天理教東京教務支庁に移築。
2012年に道隆が亡くなると、地元町会長の連名で杉並区に保存要望書が提出。2014年に杉並区が近衛家から買い取られ、2015年に敷地の一部が荻外荘公園として整備。2016年には天理教との間でも基本合意に至り、同年、荻外荘が国指定名勝に選定。2018年から復元工事が開始され、荻外荘政治が行われた1940~41年の状態に復元され、2024年12月より一般公開。杉並区は、今後、重要文化財選定を目指していく、とのことです。

【たてものメモ】
荻外荘
●竣工年:1927年(増改築は1937~44年)
●設計者:伊東忠太(増改築は長谷部鋭吉)
●文化財指定:国指定名勝
●入館料:¥300
●営業時間:9:00~17:00
●休館日:年末年始/毎週水曜日
●交通アクセス:
JR中央線「荻窪」駅より関東バス荻51系統シャルーレ荻窪行、「特養ホームおぎくぼ紫苑」下車徒歩2分
●参考文献:
 ・荻窪の歴史はWikipediaを再構成
 ・荻外荘HP
 ・杉並区教育委員会著「文化財シリーズ46 国指定史跡 荻外荘
など 
●留意点:
荻外荘公開については、数多くのメディアで紹介。
暫らくは混雑が予想されますので、平時との訪問を強く推します。

【邸宅外観と玄関部分】
荻外装は、正門側から、屋敷林のある長い通路を伝って、邸宅を回り込むようにして、車寄せのある表玄関に入り込めるようになっています。

荻外荘 正門部分

【車寄せ部分】
次に車寄せ部分の外観を見ると、建物が雁行型に配列していますが、入澤邸時代に付けられたもので、荻外荘時代に政治階段があった際、近衛家の秘書の方が、会談内容などを貴社に発表する際に使用しました。
また、第2/第3次近衛内閣の組閣時には、警備員の方がこの前で太鼓や拍子木などをたたき、詰めかけている記者団の方に集合をかけました。
なお、1943年の改修時に撤去され、公開プロジェクト時に再建されたものになります。

荻外荘 車寄部分

【南面を臨む】
また、建物を南側庭園から臨むとその全体図がよくわかりますが、建物は南面に広くとられており、特に、窓ガラスを見ると独特なデザインになっています。
また、右側半分が、1960年に天理教に移築された部分になり、今回にプロジェクトでは、その部分が再度荻窪に帰り、往時の荻外装の様子を伺い知ることができます。

荻外装 南面から臨む

【北側入り口】
なお、荻外荘入場時は、現在は北側を使用しますが、この出入り口は竣工当時はなかったもので、建物移築時、新たに作られたスペースになります。

荻外荘 北側玄関

【平面図】
平面図を見ていくと、四角で囲われた部分が移築されたもので今回復元された部分。左側の別棟は1937年に近衛文麿の手に渡った際に増築された箇所になります。なお、公開スペースは現在、それぞれ展示室として、近衛文麿が主だったころを伺い知ることができ、別棟の和室1はミュージアムショップ、和室2とベランダ部分はカフェスペースとして使用されています。

荻外荘 平面図【荻外荘カタログより転載】

【玄関部分】
次に玄関部分を見ると、1941年の記者団が映った写真と、1945年の米兵が訪問した際の写真を比べると、玄関口は正面部分に変えられるなどの大きな改変が見られます。
なお、荻外荘公開プロジェクトでは、荻窪会談が行われた当時の様子を再現するため、古写真から改造前の状況に復元されました。
床面を見ると雷門模様風の意匠になっており、照明器具や窓ガラスなど、どこか中国風の意匠になっています。

荻外荘 玄関部分

【応接間】
次に、玄関隣の応接間になりますが、中国風の意匠で纏められた室内で、設計者の伊東忠太は、日本の建築も時代に併せて進化するべきであるという「建築進化論」の提唱者。
また、入江達吉氏は漢詩を趣味としており、この部屋は両者の意匠が見事に反映された部屋になっています。
なお、この部分は、荻外荘時代も改変されずに使用されました。
また、近衛文麿は、記者陣相手の会見にこの部屋を使用しました。

荻外荘 応接間

なお、この部屋にある机やテーブルの彫刻部分の螺鈿は、古写真や同時代の螺鈿家具を参考に、梅とカササギの透かし彫り、ボタン彫刻にしました。

応接間/螺鈿家具

天井部分には龍が描かれており、こちらは上海出身の書家で実業家だった王一亭(1867~1938)の作品。入澤達吉は、上海在住の知人を通じ、王氏に揮毫依頼をしました。
また、近衛文麿自身も王氏と交流を持ち、荻外装には王氏から送られら掛け軸が多く残されています。

荻外荘 応接間(天井部分のの龍の絵画)

また、床部分も、伊東忠太の作品の特徴である空想上の動物である、龍の敷瓦があしらわれています。

荻外荘 応接間/床部分の龍の柄が描かれたタイル

【玄関部分】
この部分が荻外荘時で最も古い写真は、11939年…
近衛文麿がスリッパから靴に履き替える写真で、荻外荘時代からこの部分を玄関で使っていたことが判ります。
玄関から応接間を利用する際はそのまま土足で。
邸宅に上がり、客間に上がる際には、この部分で靴を脱いで室内に入りました。
なお、左側に置かれた太鼓は、1940年7月15日…
記者会見時に打ち鳴らされたもので。正面部分の扁額の「荻外荘」の字は、この邸宅の名付け親だった、西園寺公望のものになります(現在のものはレプリカ)

荻外荘 玄関部分

【来客用トイレ】
玄関部分を入ると一番最初、来客用トイレになりますが、荻外荘の遺構調査時に浄水槽が発見されており、来客用トイレに関しては、創建当時から推薦であったことが判ります。
なお、洋式トイレに関しては、創建と同年代の様式便所を参考に復元されました。
なお洋式トイレに関しては、明治中頃から輸入が開始。
大正時代には国産の水洗トイレが登場しますが、一般家庭に浸透したのは、戦後のことでした。

荻外荘 客用トイレ

【広縁部分】
応接間と食堂を挟むように、南面には広縁が取られ、陽が差す形なっています。こちらのガラス窓は、モダニズム的でもあり非常に独特な形状になっています。

荻外荘 客間と食堂の部分の広縁

また、客間奥の部分の扉は、客間の次の間部分(内部は現在非公開)の扉ですが、近衛家の家紋が描かれています。

荻外荘  客間/次の間部分の扉

【客間部分】
荻外装で最も有名な部分で、第二次近衛内閣組閣時、1940年7月19日に行われた、ドイツ/イタリアとの提携強化を含む基本方針が話し合われた「荻窪会談」はじめ、近衛内閣時の重要会談が行われた部屋で、「荻窪会談」の様子に関しては、様々なメディアで多く伝わっています。
この部屋は、入澤達吉が所有していた「楓荻荘」時代から改変されずに使用され、当時としては大変珍しく冷暖房が備わっていました

荻外荘 客間

下の写真は、客間で行われた荻窪会談の状況。左から近衛文麿次期総理、松岡洋右次期外相、吉田善吾次期海相、東条英機次期陸相。現在の状況は、荻窪会談の古写真から復元されました。

荻窪会談の様子【Wikipediaより転載】

椅子や机部分も荻窪会談の状況から復元されましたが、この室内で、一番左側の渦巻き状の模様の付いた椅子は、近衛文麿の特等席でした。

荻外荘/客間 椅子と机部分の様子

また、壁紙などにおいては、腰壁壁紙(黄色い部分)の文様は、葡萄唐草、スイカズラ、インド更紗などを組み合わせた文様。
長押上壁紙(赤い部分)は、連続する動物文様としました。連続する動物文様は中国山東省の漢代石墓の意匠によく見られます。

荻外荘 客間の壁紙

【食堂】
前施主の入澤達吉氏は、この邸宅を迎賓の場と考えており、食堂には迎賓のために大きなテーブルと多くの机を設えましたが、近衛文麿も、先述の「荻窪会談」ののち、この場で出席者を接待しました。
なお、椅子と机に関しては古写真から復元されたものになり、この部屋では、荻外装の歴史の動画が配信されています(動画撮影禁止)

荻外荘 食堂部分

なお、壁紙については、壁紙文様(黄色い部分)は双鳳文様、長押上壁紙文様(赤い部分)を鶏頭文様とし、正倉院模様をモチーフとして、古写真から復元。

荻外荘 食堂の壁紙

また、葡萄とリスが描かれたキャビネット部分も古写真から復元。下部に覗く床部分は寄木張りとしました。

荻外荘 食堂のキャビネット

【茶の間部分】
茶の間部分は8畳間になっており造りつけの棚を持ち、入澤達吉邸時代から炉が切ってありました。

荻外荘 茶の間

【居間部分】
茶の間の隣は、居間になり、10畳間から成立しています。
竣工当時から、床の間と付け書院、違い棚に地袋を配した本格的な和室になっていました。
なお、この南側には書斎(通称とのさまのへや)があり、そちらは崩した数寄屋風になり、対照的になっています。

荻外荘 居間

【書斎】
古写真を追うと、楓荻荘時代~荻外荘初期は天井の高い床板の洋間になっており、1941~1944年の間に現在の数寄屋風に改造。

「楓荻荘」時代の書斎部分【荻外荘HP 暮らしの変化と荻外荘 3創建時の「荻外荘」にみる建築的特徴より転載】

外観部分は出窓部分が取り払われ、室内西側部分には床の間が。北側に仏壇と棚が設けられ、近衛文麿の寝室として利用されました。写真中央に見えるテーブルは、近衛文麿が記憶員議長就任を記念して、政治家・河原田稼吉氏から贈られたものになります。終戦後の1945年12月16日未明、翌日、巣鴨プリズンに出頭する期限を迎える夜、この部屋で、近衛文麿は青酸カリにて服毒自殺を遂げました。

荻外荘 書斎

【寝室部分】
この部屋も、入澤達吉が保持していた「楓荻荘」時代は、古写真を見ると、板敷きに洋間、ベッドが設えており、「楓荻荘」から「荻外荘」に変わった当初は夫婦寝室として使用されました。

楓荻荘時代(竣工時)の寝室の状況

のちに現在の姿に改修され、近衛文麿夫人の寝室に使用されました。現在は、荻外荘の展示スペースとして使用されています・

荻外荘 寝室

【蔵部分】
この部分は、荻外荘になった1938年に増築された蔵で、荻外荘唯一の2階の部屋になります。
近衛家で使用された生活用具はじめ、漆工品、書画、長持などが保存されていました。
近衛家の日記では、本邸からこちらに長持や桐箪笥を運んだことが記されています。「楓荻荘」時代には鉄筋コンクリート製の倉庫がありましたが、1937年に近衛文麿に譲渡された際、入澤達吉の邸宅に曳家されました。

荻外荘 蔵部分

【別棟部分】
はなれ部分も荻外荘になった1938年に増築されたもので、近衛文麿の長男・文隆氏の書斎(10畳間)や妻・千代子氏の部屋に活用され、現在はミュージアムショップやカフェに使用されています。

荻外荘 別棟10畳和室
別棟 広縁部分

なお、屋根裏に遺された棟札には「当主・近衛文隆」と記載され、
文別棟隆(1915~1956)について記載すると、近衛文麿の秘書官を務めたのち、194年に赤紙召集されシベリア出兵。
戦後はソビエトによりシベリア抑留され、同地で亡くなりますが、シベリアから家族にあてた手紙には、再び荻外装に戻りたい旨が記載されていましたが、叶うことはありませんでした。

近衛文麿 長男 近衛文隆【Wikipediaより転載】

【編集後記】
荻外荘に関して追うと、今の時代がいかに平和で、それには数多くの方々の尊い犠牲があってのこと。
令和の世も戦禍にまみえることのない。鈴木貫太郎翁が終始願った、永遠の平和が続くことを願って仕方ありません。

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