わが心の近代建築Vol.98 ブラフ18番館/神奈川県横浜市中区
みなさん、こんにちわ。今回は、横浜山手西洋館から、イタリア山に移築されたブラフ18番館に追いて記載します。
この邸宅に関しては、現在公開されている横浜山手西洋館の中では一番小ぶりな建物ではありますが、関東大震災で倒壊した建築部材を再利用して建て直された建造物になり、山手西洋館のなかでも、関東大震災前夜を知る建造物となります。
≪建物の歴史について≫
❏竣工年について
この建物は、現在の横浜市山手45-1に建てられた建造物で、この建物の竣工年や設計者などの詳細については不明ではあるものの、関東大震災前~大正13年まで、この建物の土地を横浜の貿易商・VRバウデン氏が所有していた、震災時にバウデン邸は倒壊したことなどから、関東大震災以降に建て直されたものになります。

【邸内展示パネルより転載】
❏施主について
バウデン氏についてはオーストラリア・シドニー生まれの方で、横浜の貿易商界の重鎮の一人で、当時の外国人社交界の中心人物でした。
バウデン氏の手を離れたのちは、数々の所有者の方の手に渡ったのち、戦後、最終的にはカトリック横浜司教区の所有となり、カトリック山手教会の司祭館として1991年まで利用されたましたが、建物の老朽化などにより解体されます。
解体時に建築部材などが横浜市に寄贈され、イタリア山公園内に移築保存され現在に至ります

【邸内展示パネルより転載】
❏ブラフ18番館の名前について
横浜山手の住宅街については、山手本通りとワシン坂通りの尾根道を中心に展開しますが、関東大震災以降、この界隈に居を構えた外国人居留者の方々から、この界隈をブラフ(切り立った崖)と呼ばれていたことから名づけられました
18番館の名前は、この邸宅が移築された場所が、かつての山手18番地だったことから命名されました。(16番地は「横浜外交官の家」付近、17番館跡はイタリア山公園の噴水あたりに該当)

≪横浜の歴史について≫
❏開国前夜について
開国以前の横浜は、白い砂浜が波打ち際に横たわった洲乾の湊といわれた入江のある静かな寒村地区でした。
住人の方々は、主に農業に従事していましたが、半農半漁の生活を営む方も非常に多い状況でした。ぺルリが浦賀沖に来航したことにより、横浜が幕末期の日米交渉の地となり、開港地に決められたことによって小さな寒村は近代日本史に華々しく登場します。

【邸内展示パネルより転載】
❏横浜港開港と国際化へ
1858年に日米和親条約が締結すると、幕府は当初の予定地の神奈川から、街道から外れた横浜を貿易港として選定して居留地とします。
街中に外国人用の居留地と日本人居留地が置き、中央には運上所(現在の税関)が置かれます。
今までの日本の街が城下町や門前町から発展していったのに対し、横濱は「開港場」として政治的に建設されてスタートします。

【邸内展示パネルより転載】
❏山手西洋館の成立
1861年に米国は神奈川の領事館の移転地として、幕府から山手の土地を借り受ける許可を取り付け、山手の居留地化の先駆けとなります。一方、英国は仮公使館の東禅寺が攘夷運動で襲撃を受け、居留民保護を名目として、山手に軍隊を駐留させる許可を取り付けます。
1867年には山手の区画などが確立され、1875年に英仏両軍の撤退に伴い跡地を分割し、新道の開拓が行われ下水道や石垣などの土木整備・居留地の拡張が図られます。

【邸内展示パネルより転載】
❏明治中期からの山手居留地の様子
明治中期より、山手地区には本格的な西洋館が立ち並び、ガスや水道の整備、劇場や教会等も建設され、外国人墓地や公園・病院・学校なども整備されていきます。
この頃には、横浜山手で生を受け、周囲に造られた居留人用の学校で初等教育を受けたのち、母国で高等教育を受け、再び横浜に戻る方も増えたほか、居留人の方々の暮らしは、朝は教会に行き、昼は山手公園でのフラワーショーや演奏会、根岸での競馬を愉しみつつ、情報収集をして、夜は観劇やパーティーが盛んに催されて、新たな商売人脈を広げるといったもので、横浜山手での居留人文化も最高潮に達します。

【邸内展示パネルより転載】
❏関東大震災と戦災
このように、文化的に円熟期を迎えた横浜山手居留地ですが、1923年9月1日…
首都圏の中枢部を襲った関東大震災にて、その栄華も一瞬にして瓦解します。
建物群やインフラ施設などが、震災と火災に耐えられずに倒壊し神戸などに移住する方や母国に帰る方が続出し、横浜山手の外国人社会の復興は容易ならざるものでした。
横浜市はこれを機に、外国人永代借地権の改修を図ると同時、外国人引き戻しを積極的に行い、震災の復興が進み外国人社会も戻りつつあった中、太平洋戦争時代は太平洋戦争に突き進みます.。

(奥側に見えるのは横浜正金銀行本店)
【Wikipediaより転載】
❏太平洋戦争以降の山手の状況
太平洋戦争では、横浜山手は殆ど戦禍に襲われることはありませんでしたが、残された洋館などは、GHQ将校らの邸宅としてあてがわれます。
横浜は戦後まもなくから復興が行われ、高度経済成長期に併せるかのように街路や公共施設の復興がなされ、世界に誇る都市となりますが、その間に多くの邸宅が解体されました。
横浜山手では「歴史を生かしたまちづくり」が行われ、現在、渋谷区松濤から移築された”外交官の家”を含め5棟が、かつての居留人文化を伝える施設として無料公開されています。

【Wikipediaより転載】
≪たてものメモ≫
ブラフ18番館
●竣工年:大正末期
●設計者:不詳
●文化財指定:横浜市指定歴史的建造物
●入館料:無料
●休館日:毎週第3水曜日
●入館料:無料
●写真撮影:可
●交通アクセス:
・JR根岸線「石川町」駅徒歩10分
・みなとみらい線「元町・中華街」駅徒歩15分
●参考文献
・田中貞彦監修「死ぬまでに見たい洋館の最高傑作」
・邸内展示パネル
・はまレポHP「横浜の名建築 ブラフ18番館」
など
●留意点:
となりの「外交官の家」と併せて定期的に特別ガイドあり(別途\500)
≪建物の外観について≫
❏正面部分について
建物の正面を見ると、邸宅の屋根は赤茶色のフランス瓦、鎧戸が付いたグリーンの窓との対比が非常に美しく、壁は関東大震災の火災の教訓から、防火対策の施された、荒々しく仕上げた白いドイツ壁になります。

玄関部分を見ると、ポーチ部分は右側の部分は邸宅の壁面にくっついた付け柱を置き、左側にはトスカナ様式風の柱を2本重ねて付け、玄関ポーチ上部には、バルコニーが載っています。
関ポーチ右側の鎧戸と西洋風の上げ下げ窓が付けられた個所は階段室となり、邸宅の屋根とは別に、斜めの屋根を設けているところも特徴になります。

❏背面部分
1階部分がサンルームとなり、窓枠は都縁部分は玄関部分同様グリーンに塗られ、表に出られるように扉も設けられています。2階部分は壁を後退させ、バルコニーとなります。

❏側面部分
正面部分同様、窓に関しては鎧戸と西洋式の上げ下げ窓で構成され、窓枠とバルコニーの鉄柵は緑色に塗られています。1、2階に連続して張り出したボウウィンドウが設けてある、小さいながらも変化に富んでいます。

また、各窓のストッパーに関してですが、鎧戸を止めるストッパーは、fホールのような形状になっています。

≪平面図から≫
邸宅を平面図から見ると、1階と2階とも主に3部屋から構成されており、煙突に関しては1階サロン/リビングルームと、2階のバルコニー側にある2つの寝室の暖炉を背面合わせにすることにより、煙突を1本に省略しています。
なお、付属棟部分に関しては、移築保存時には受け継がれず、解体されました。

【邸内展示パネルより転載】
≪1階部分から≫
❏廊下部分
この邸宅の廊下は大正末期に多く見られた中廊下式を採用しています。1階部分は玄関から中廊下を挟んでサロンに繋がり、食堂と居間になります。
なかでも廊下部分で目を引くのが、中廊下の欄間を飾るラティス状の格子部分で、日本建築でいう所の付属棟と主屋部分を区切る仕組みになり、地味ながら、凝った演出がされています。

❏サロン
玄関正面の部屋で、この部屋からサンルームに行くことができました。解体前にはサンルームとの間に壁が設けられましたが、解体時の壁の中にサンルームとの間の飾り窓が残されており、それを元に、当時の姿へ復元されました。
サロンは、主に接客の場に用いられ、昼は婦人たちが茶会を開き、夜は主人たちが酒を嗜み、葉巻を燻らせて、カードやチェスなどを行いながら、お互いの業務などの情報交換を行ったことが伝えらえています。

この部屋にある燭台付きのピアノに関しては、100年前のもので、横浜市港北区師岡邸で使用されたもので、銘板には『日本東京 松本 MATSUMOTO TOKYO JAPAN 』と記してあいます。
松本ピアノは、明治21年に日本橋で操業され、当時は東洋随一の洋楽器製造会社として知られており、創始者・松本新吉は明治20年に横浜に出て、オルガン製造の創始者 西村虎吉に師事して楽器製作を研究した人物です。

❏リビング・ルーム
一家の憩いの場師として使用された部屋で、こちらからもサンルームに行くことができ、サロンとも扉を隔てて繋がっています。
今回の保存時に、高級なソファーなど、この建物が竣工した当時の居留人の生活ぶりを想定したものとなってます。

暖炉に関しては、リビングルームに残るものが唯一、竣工当時から残るもので、各部屋の暖炉は、移築保存工事時に、この部屋のデザインを参照に復元しました。

家具類の一部は、旧バーナード邸にあるものを借りて展示したほか、公開に併せて新造された“横浜家具”となります。
これは意外かもしれませんが、かつての横浜は洋家具の製造地域としても有名で、横浜にいた宮大工や建築士たちが外国人たちの家具類を修繕していくうち、その技法などを習得し、全国的に広まりました。
横浜家具は一時期は衰退したものの、近年では、その技術を受け継いだ横浜ダニエルなどの家具メーカーも多く生まれています。

❏サンルーム
サンルームを見ると、木枠に小さなガラスが嵌められていますが、この建物が建てられた当初はガラスが現在のような工法ではなく、職人が1枚1枚手作で主なっていたため、現在のように大きなものを作ることができず、このような形になります。
また、サンルームから表にも出られるように、扉も付けられていました。

❏ダイニングルーム
リビングルームの向かいはダイニングルームとして使用されました。
写真奥側に3連窓のベイウィンドを備え、現在、事務所がある台所で食事を調理して、仕様人たちによって運び込みまれました。

横浜では居留地の外国人向けに屠殺場が設けられ、明治初期には養豚場やハム製造が行われたほか、西洋野菜なども近隣で栽培されました。
が、居留地人口に比較して絶対数が少なく、給仕の日本人や出入り業者は食材を仕入れるのに苦戦を強いられたことが伝えられています。

【邸内展示パネルより転載】
現在販売されている鎌倉ハムに関しても元々は、居留地での外国人向けに横浜市や鎌倉市でハムを製造したことに始まります。
鎌倉ハムに関しては、1つの企業ではなく様々な企業が販売しており、居留地時代に横浜で創業した斎藤商会(現在は名古屋に拠点を移す)、富岡商会などがありました

実際に牧場として横浜の根岸界隈に石川要之助氏により”石川牧場”がつくられ、現在は住宅地の横浜ではホルスタイン牛などが育てられ、牛乳などが提供されました。

【邸内展示パネルより転載】
≪階段部分について≫
❏1階部分から臨む
玄関部分とダイニングルームの間には階段が設けられていましたが、1階階段部部を臨むと、右側の扉はトイレに充てられました。
ブラフ18番館は、外観などは震災後に建て直されたため、明治期の洋館に比べて斬新なデザインになりますが、震災で倒壊した木材を再利用したためか、階段部分は極めて重厚な雰囲気を醸し出しています。

❏1階天井のアーカンサス
この部分は見逃してしまいがちですが、1階天井部分には、しっくいで模られたアーカンサス(ハアザミ)の装飾が付けられています。
アーカンサスは、西洋建築で多く付けられる意匠で、繁栄などを表しています。

❏階段を2階から臨む
階段を2階から臨むと、採光のための西洋式の上げ下げ窓を取り付けてあり、邸宅自体は小さい空間ながら、そのスペースを最大限に活かす工夫がされています。
また、階段親柱においても、ゴシック的な装飾がされており、実に特徴的な佇まいとなります。

≪2階部分≫
❏廊下部分
廊下部分を見渡すと、室内の配置などは1階とほぼ同じ配列となり、中廊下式が採られています。
1階部分がパブリックスペースだったのに対し、殆どが寝室などのプライベートスペースとなります。

❏寝室(展示室)
1階食堂の上に位置する部屋で、1階同様、3連の上げ下げ窓とボウウィンドウが特徴的になります。
ここで注目したいのがベッドなどの家具類。大正初期に建てられ、残念ながら2014年に解体されてしまった唐沢26番館から寄贈されたものになります。

❏談話室(旧寝室)
リビングルーム上部に位置する部屋で、室内に関しては、リビングルームと同様になっています。
右側に見える扉を開けると、1階サンルーム上に位置するバルコニーに出られ、左側の扉を隔てて隣の閲覧室(寝室)に行ける構造になります。暖炉のデザインは1階リビングルームの形状から復元されています。

❏閲覧室(旧寝室)
談話室同様に、こちらからもバルコニーに行くことができ、1階サロン上部に位置します。煙突に関しても、談話室のものと背中合わせにすることにより、煙突を1本に省略化するなどの配慮がされています。

2階バルコニーはサンルーム上部にあり、ここから見ると邸宅の荒々しい白いドイツ壁などが見られるほか、手すり部分にもデザインがされているのがわかります。
日本の西洋館について記載すると、関東大震災の恐怖は、その後の建築史に大きな影響を与え、今までは板張りが多かったものの、石膏などを塗った壁などが主流となっていき、邸宅もスパニッシュ様式などが流行することとなります。

≪編集後記≫
ブラフ18番館は、現在横浜市が公開されている山手西洋館の中では最も小さな邸宅になりますが、その見どころなどは非常に多く、今年の夏に特別公開イベントに参加し、やっと掲載できました。
先月はiPhoneなどの水没があり、掲載が滞りましたが、なんとか、本年度中に100棟記載できたらと考えております。
