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わが心の近代建築Vol.63 旧島薗邸/東京都文京区

みなさん、こんにちわ。
今回は、千駄木に遺された旧島薗邸について記載しますが、この邸宅は、この邸宅は、noteで一番最初に扱った、旧安田楠雄邸庭園と同じ通りにあり、外観からただならぬ雰囲気を醸し出している洋館になり、旧安田楠雄邸庭園に訪問する際にいつも気になった邸宅でもあります。

≪千駄木の歴史≫
①江戸期の千駄木

江戸期の千駄木は、この界隈は雑木林で、雑木林を切り出し、薪などを伐採し、その数が千駄にも及んだからという説。
または、太田道灌がセンダンの木を植えた説などがあります。
また、旧島薗邸は、団子坂を上った界隈にあり、浮世絵師 歌川広重の『名所江戸百景』より、「千駄木団子坂花屋敷」として描かれ、幕末期から明治期にかけて行われた「菊人形」は多くの見物客を集めました。

歌川広重 『千駄木団子坂花花屋敷』「名所江戸百景」より
【Wikipediaより転載】

②明治期以降の流れ
明治期以降は、この雑木林を切り拓き、駒込林町と称された文人が多い、閑静な住宅地となりました。
地理的に、東京帝国大学、東京藝術大学などが近いことから、森鴎外、夏目漱石、北原白秋ら多くの文人が居を構えるだけでなく、建築家の中條精一郎、渡辺仁も居を構えます。
旧島薗邸のある通りは、銀行通りと言われ、特に銀行関係の人間が多く在籍した通りでもあり、安田楠雄以外にも東京瓦斯の社長になった久米良作の邸宅も構えられました。

明治後期の団子坂での菊人形
【三井住友トラスト不動産 このまちアーカイブス「東京・文京」より転載】

③関東大震災~現在の界隈
1923年の関東大震災では、この界隈は不忍池や谷中霊園が近くにあり、緑が豊富だった事が幸いし、この界隈は倒壊・焼失は免れ、東京大空襲も難を逃れ古い建物の多くは残りました。
が…
高度経済成長期~バブル期、建物の老朽化などにより、次々に姿は消し、その中でも旧安田楠雄邸庭園、旧島薗邸は、その流れを遺す場所となりました。

現在の団子坂界隈【Wikipediaより転載】

≪施主 島薗順雄氏について≫
次に施主の島薗順雄(1906~1992)について記載すると、脚気の学説を発表し、東京帝国大学附属病院の院長を務めた島薗順次郎氏の長男にあたり、東京帝国大学卒業後、生化学教室で研究。
戦時中は陸軍軍医として各地に従事、戦後は1952年に東京大学教授に就任し、栄養学、とりわけビタミン研究の権威として活躍し、東京大学退官後は、女子栄養大学、和洋女子大学で教鞭をとりました。

施主 島薗順雄【旧島薗邸パネルより転載】

≪設計者 矢部又吉氏≫
一方、設計者の矢部又吉(1888~1941)は横浜元町に生まれ、工手学校(現・工学院)を卒業ののち、妻木頼黄に師事。
ドイツに留学し、ベルリン シャルロッテン大学(現・ベルリン大学)で建築を学んだ後、各地を遊学。
帰国後は東京と横浜に事務所を構え、川崎銀行などの多くの銀行建築を設計。
一般建築も多く手掛けたものの、判明しているもので現存しているものは、旧島薗邸が唯一の作品になります。

設計者 矢部又吉【邸内パネルより転載】

≪旧島薗邸の流れ≫
なお、旧島薗邸は、現在は2階の洋館部分のみになっていますが、もともとは和洋並列型の建物で和館が併設。
和館は入母屋屋根に瓦と銅板の「腰葺き」の下屋庇が付いたものでしたが、コロナ禍で相続などの関係で解体。
洋館部分も、もともと平屋建てでしたが、1941年に父の死後、弟たちを自邸に住まわせるなどの理由から増築。
設計は、主に文京区界隈で活躍した幸一社工務所 古賀一郎氏が担当し、現在の姿になりました。

現在の旧島薗邸の姿

≪たてものメモ≫
旧島薗順雄邸
●竣功:1932年(増築は1941年)
●設計者:矢部又吉(増築部分:古賀一郎氏)
●文化財指定:国指定有形文化財
●写真撮影:可
●公開日:各種イベント、また年に2回 公開日あり
●参考文献:
 ・島薗家住宅発行「千駄木の洋館 島薗邸 90年の記憶」
 ・三井住友トラスト不動産 このまちアーカイブス「東京・文京」
 ・千駄木の歴史はWikipediaを参照
●交通アクセス:
 東京メトロ千代田線「千駄木」駅より徒歩7分
●留意点:
こちらは通常非公開、たてもの応援団HPなどで告知

≪外観部分を臨む≫
洋館部分は、当初は陸屋根(平屋根)でしたが、1階に見える軒飾りは、増築された2階部分にも用いられています。軒飾りの下にはバラのトレリス(格子垣)が出迎えます。

玄関ポーチ部分を臨む

また、庭園側から洋館部分を見ると、窓部分は2重冊子になっており、こちらの軒飾りも先ほどの軒飾りが使用されています。

庭園側から臨む

また、玄関ポーチ上部にはパーゴラ(蔦棚)風になっており、右側部分にはスパニッシュ建築風のレリーフが付けられています。

玄関ポーチ天井部分

≪平面図≫
もともとは、洋館の後ろ部分に和館が付けられていましたが、相続税や老朽化などの兼ね合いで、コロナ禍で解体されてしまいましたが、不幸中の幸いで洋館部分のみ保存。
大正期の邸宅で多くられた中廊下式を採用し、バックヤードを北側に配し、主要室を南側に構える構造に変わりました。
換言するなら、旧島薗邸は住宅氏の状況を色濃く伝えた場所になります。

平面図

≪1階 玄関部分≫
玄関部分は、正面に造り付けのベンチが。また、右側にはニッチ(窪み)が造られ、天井部分にはゴールドの装飾帯が付けられています。

1階 玄関部分

≪1階 ホール部分≫
ホール部分も玄関部分と同じく、天井部分にはゴールドの装飾帯が敷かれています。
また、扉部分に隠れている丸窓がアクセントとなり、こちらは電話室にもなっており、戦後しばらく、島薗順雄氏が東京大学に戻る前は林町診療所として病院が経営され、待合などにも使用されていました。

1階ホール部分

なお、ホール部分で一番注目を集める、中華鍋風の照明は、本郷にあった島薗順一郎氏の邸宅にあったものを使用しています。

ホール部分の照明

≪1階 書斎≫
書斎部分は、戦後しばらく、島薗順雄氏が東京大学に戻るまで、林町内科医院として開業していた際には、診察室としても活用されており、書棚には、自身の研究メモや講義ノートが丁寧にならb寝られていました。

1階 書斎(扉側から窓側を臨む)

また、書斎部分の本多男は天井にまで到達し、造り付けのもの。寸法などは、施主 島薗順雄氏の意向が反映されました。

1階書斎 窓側から扉部分を臨む

なお、室内の窓に関しては当時としては非常に画期的な、2重サッシを採用。机に関しては、矢部又吉氏が自らデザインしたものになります

書斎の机

≪1階 食堂/サンルーム≫
食堂部分は、天井は化粧梁が掛けられた豪華なものになり、家族の食事やディナーなどに使用。
家具類なども竣工当時のものが多く残された場所になっています。

1階 食堂部分

また、この部屋にある置時計はドイツメーカーのJUNGHANS製。現在も、ぜんまいをまけば確かに、時を現在につなぎます。

1階食堂 JUNGHANS製の置時計

また、この部屋のピアノはドイツ製のものになり、食器棚に関しては造り付けのもの。
ねじり柱風の装飾など、非常に手の込んだものになっています。

1階食堂 ピアノと造り付けの箪笥

また、照明部分に関してはホール部分と同じく、本郷の島薗順一郎氏の邸宅にあったものを2000年に使用。
傘部分には、雲母が使用されています。

1階食堂 照明

サンルームは、書斎部分に比べて張り出しており、天井部分はもともとはガラス屋根でしたが、のちに改修されました。
また、食堂で食事を終えた後、こちらは、くつろぎの場となっていました。

1階サンルーム

≪1階 廊下部分≫
平面図にも記載しましたが、この邸宅の洋館部分では、中廊下式を採用。
ホール部分から廊下を挟んで右側に書斎/食堂などの部分を。
左側には台所などのバックヤードを置き、来客をスムーズにもてなしました。

1階 中廊下部分

なお、中廊下部分には、給仕コーナーがり、先述の造り付けの食器棚ともつながり、配膳のほか、来客時の控室など、様々な用途を果たし。小窓から状況を伺ったりしました。

1階 廊下/給仕コーナー

≪階段部分≫
外観の際も記載しましたが、2階部分は1941年に増築されたもので、古賀一郎によるもので、矢部又吉の建築意匠とはまた違った建築意匠が見られますが、階段部分の天井は数寄屋風になります。
なお、この時代になると、建築は様々な制約を受けますが、島薗順雄は病院を開業するなどの理由から、制約をかわすに至ります。

2階から階段を見下ろす

≪2階部分≫
2階は洋間と和室が設えていますが、洋間部分は、壁に掛軸が掛けられるようになっている一方、ギリシア風の列柱に模した柱が付けられるなどの、様々な様式を使用しています。
また、和室とは段差を設け、目線の位置を合うように配慮されています。

2階 洋間部分

なお、暖炉部分はこの当時の様々な邸宅と同じく、実際に火をくべるものではなく、装飾的に付けられ、タイルが貼られています。また、床部分はタイル絵が描かれています。

2階洋間/暖炉部分

また、この部屋のステンドグラス部分は、1941年という時代を背景してか軍艦や戦闘機が描かれています。
なお、こちらの作品は、東京ステンド硝子製作所となります。

2階洋館 ステンドグラス

2階洋室から小上がりになったところに和室がありますが、数寄屋風になっており、終戦後は親せきや学生が、この部屋を利用しました。

2階和室

≪現在解体済≫
次に失われた和館部分ですが、過去に訪問した際に写した写真より記載します。
まず、縁側部分ですが、丸太の軒桁が掛けられた個所になり、数寄屋風の設えになっています。
この二部屋はかつては、かつては畳敷き。
来客者が多いときは続き間として使用しました。

和館 縁側部分

次にこちらの部屋になりますが、次の間部分になる6畳間の和室になります。人が多い際などには、続き間として使用していました。

6畳和室

こちらは8畳和室になりますが、この二部屋では、夫人がお琴などを教えていたため、多くの練習生が訪問。
また、正月時には百人一首などが行われました。

8畳和室

また、2階部分から和館を見下ろすと、入母屋屋根に銅板を組み合わせた意匠になっており、当時の建築で多く見られた和洋並列型住宅になっています。

2階から和館を見下ろす

最後に庭園部分になりますが、こちらも、もう見る事の出来ない光景…終戦間もなくでは、農作物が造られるなどに利用された場史書になります。


≪編集後記≫
この邸宅に関しては、過去何度も訪問。
当時は、保存状況や、文化財の意味など分からず、国指定なのだから安泰だろうと考えていましたが、それが大きな間違いであったと認識した場所の一つになりました。
過去、いくつか近代建築について記載しましたが、今は公開していない場所も多く、近代建築を遺す意義をもっとついた得られたらと感じてなしません。

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