わが心の近代建築Vol.56 山本清記念財団(旧山本家住宅)/兵庫県西宮市
みなさん、こんにちわ!!
今回は、先日の関西旅行時に訪問した邸宅のひとつ。
過去FBで記載した「さくら夙川」にある山本清記念財団について記載します。
なお、この邸宅に関しては、藤村郁雄氏が記載した「近代建築さんぽ 阪神間モダニズム」について発見、写真から、その邸宅の佇まいに感動し、改めて、今回再訪問しました。
【結善町について】
結善町は、夙川と県道82号線の間に所在。
この地域には一戸建てやマンションが混在。
道幅も広く、区画が整った閑静な住宅地となり、駅からの道のりは、ゆるやかな坂道になっており、西側には夙川…
夙川の両岸には桜と松が植えられ、特に春の桜は、「日本さくら名所100選」に選出。その名前はJR神戸線の「さくら夙川」駅の名前にも残されています。

また、結善町は阪急神戸線「夙川駅」と阪急甲陽線「苦楽園口駅」の2駅が徒歩圏内にあり、特に苦楽園は西宮七園のひとつに数えられ当初はラジウム温泉がわいたものの、枯渇したのちは、高級住宅街になり、阪神間モダニズムを具現化した場所となりますが、山本清記念財団は、阪神間モダニズムを具現化した邸宅の一つになっています。

【近藤邸から山本清記念財団に至るまで】
旧山本家住宅に関しては、もともとは鉄鉱山を経営する近藤壽一郎氏の邸宅として1938年に竣工。
設計者として、関西建築界の領袖、武田五一氏の愛弟子で、三越建築技師の岡田孝男氏。氏は、建築家以外にも、茶室研究家としても高名で、自邸など、いくつか作品が現在も遺されています。
この邸宅は、もともとは鳥取県の鉱山実業家・近藤壽一郎氏の邸宅として1938年に竣工したもので、この邸宅を最後に所有した山本清氏は5番目の施主に当たり、1966年から亡くなるまで使用。
山本氏はこの邸宅を大切に使用し、現在も主屋のほか茶室、門衛所付きの門、土蔵、塀など竣工当時のまま、よく残されました。
【阪神淡路大震災】
19950117…
この日、兵庫を中心に未曾有の大災害が起きましたが、阪神淡路大震災。西宮市では甚大な被害に見舞われ、死者1146名、倒壊家屋数61238件にわたり、山本清記念財団周囲でも、多数の家屋が倒壊し、この邸宅も、その例にもれず、屋根瓦・上下水道排管、玄関ステンドグラス、壁面などに亀裂の被害、特に内階段部分は閉鎖されましたが、不幸中の幸い、躯体には大きな被害はなく、倒壊をあ脱がれることができました。にしn

【施主 山本清氏について】
山本清氏は、1920年に兵庫県淡路市に生まれ、1945年に復員後、神戸市で合資会社 第一飲料を設立。
1955年には、東京飯田橋に丸の内食品株式会社を経営し、翌年には丸の内に丸の内食品株式会社を経営。
1995年に亡くなるまで会社経営に携わり、遺言書に基づき1997年に財団法人を立ち上げ、邸宅を保存。
2007年には国指定有形文化財に選定され、一般公開が行われ、現在に至ります。

【たてものメモ】
山本清記念財団
●竣工年:1938年
●設計者:岡田孝男
●文化財指定:国指定登録有形文化財
●写真撮影:可(商用厳禁)
●交通アクセス:
阪急神戸線「夙川駅」より徒歩12分
阪急甲陽線「苦楽園」駅より徒歩7分
●参考文献
・「近代建築さんぽ 阪神間モダニズム」
・阪神淡路大震災、街の歴史においてはWikipediaを参照
・邸内展示パネルを抜粋
・邸宅に関する詳細はガイドさんの話を文字起こし
・留意点:見学は要予約
【平面図】
建物は正門から、内玄関を擁するバックヤード部分、応接の間や寝室などを擁する洋館、和室部分の和館の3棟から成立しています。
また、庭園部分には茶室があり、こちらも岡田時男氏の作品になります。

【正門部分】
山本家住宅は、阪神間もダニ図m、ウを具現化した建造物になっており、設計者の岡田男氏が茶室研究家であったため洋風建築の中に和が交じり合っており、見事に調和がとれたものになっています。

正門部分は木製門扉になっており、アールヌーボー調。
また脇門は石組みされたアーチ状の脇門になっているのも非常に珍しい意匠になっています。
また、脇門の覗き窓もかわいいところ。

【外観部分】
表玄関側の写真。
左側は内玄関になっており、2階部分は柱を前面に出したハーフティンバー風、屋根瓦は勾配の緩い日本瓦を使用し、壁部分はモルタルの掻き落とし仕上げとする和と洋のエッセンスを盛り込んだ仕上げ。
また、右側に見える玄関が内玄関となり、足回りにはタイルが貼られています。

表玄関側を臨むと、2階部分の柱部分には名栗加工が施され、この部分は後述しますが、「神棚の間」となります。
表玄関側には日本瓦の庇が付き、扉上部はガラス欄間になり、腰板は石貼り。敷居には御影石を使用しています。

【玄関部分】
内玄関の腰壁は独特な意匠のタイル張りとして、床にもタイルを敷き詰めています。天井部分は化粧梁をみせた舟底天井。左側にはステンドグラスを使用、右側にはヤギのオブジェが飾られています。

一方、先述の内玄関部分は、邸宅使用時は家族用として使用され、表玄関は来客用として使用。
右側には、邸宅時から伝わる銘木のオブジェになっており、床面は表玄関同様、タイル貼りとし、表玄関ほどではないもののガラス欄間を設え、特に靴棚が大きく設えています。

【洋館 1階部分】
表玄関部分を入ると階段ホールとなり、真中上部分には阪神淡路大震災時にできたヒビが残されています。
また、階段奥側は市松状のデザインになり、表階段に関しては小さなものですが親柱はバロック風意匠となり、手摺子は交互にデザインを変えるなどの特徴があります。

階段ホールわきは、すぐに応接室になり、ソファは造り付けのものを使用。床面に関しては、ヘリンボーン式になっており、天井部分は日本建築でいう所の根太風の化粧梁になり、壁紙にはズンゴロス(麻袋)調のヘッシャンクロスになっています

また、応接室わきには、水屋が設けられ、各所から茶を沸かせる準備ができていました。
ここに、岡田時男氏のデザイン性を感じます

応接間を抜けると、客間になりますが、天井部分は応接間と同様、化粧梁になり、窓ガラスはステンドグラスが貼られています。なお、この邸宅においてのステンドグラスは、残念ながら資料がないため、作者は誰なのか不明になっています。床面は組子細工になっています。

なお、客間の暖炉部分を見ると、従来の火をくべるタイプではなく、寧ろ、装飾的意味合いとしてのものが強く、ガス式になっていました。
なお、暖炉を持つことがこの当時のステータスとなり、もともとは現在よりも長いものでしたが、当初の所有者の近藤壽一郎氏から山本清氏に代わるまで、5度ほど所有者が変わり、その間に改変されました。

客間の隣の部屋は、扉を開けると書斎になり、来客の多い際には続き間として使用することも可能でした。
天井に関しては、客間/応接間が化粧貼りになっていたものの、こちらにはなく、造り付けの本棚が備えられていました。
また、床面の組子に関しては、客間と違った意匠になり、照明飾りに関しては、竣工当時のものかと言われています。

【和館 1階部分】
応接間から、和室に行くための縁側がありますが、数寄屋風になっており、表側には茶室を臨むことができ、こちらも、岡田時男氏の作品。(後述)
縁側は広くとられ数寄屋風の意匠になっており、軒桁には1本の角材を使用しています。

和室部分は現在、文化教室などに使用。
主人の間に関しては、竣工当時から炉が切ってあり、茶を愉しむことができ、10帖間になっています。
左側手前は平床で床柱は北山丸太。奥側は琵琶床になり、床框は黒漆塗になっています

なお、主人の間の琵琶床はマツの無垢材を使用。書院に関しては平書院になっており、琵琶床上部の天井は、網代が組んだ意匠になっています。

主人の間には、次の間が付属しており、欄間に関しては、桐の一枚板を使用し、障子を外して続き間として使用することも可能になっています

主人の間の横の主婦の間.
桐箪笥は造り付けになっており、箪笥の引き出しは、反対側に位置する老人室に繋がっています。
また、欄間部分は竹を割ったものを使用しており、工程上、非常に難易度の高いものになり、天井材は「主人の間」同様、銘材を使用し、床の間に関しては平床にし、地袋(下部分の襖)という崩した形式になっています

老人室においては、床柱はアカマツの皮付の柱を使用し床の間には姫路城の古材を使用。天井板も銘木を使用するなど、崩した床の間でありながら、さりげなく銘木などを巧みに使用しています。
また、左側の箪笥は桐材の造り付け。
先述の「夫人の間」の箪笥に連動しています。

老人室の隣は仏間となり、右側の4枚扉を開けると仏壇が収納されており、下の小襖には絹織物の一つ、「裂地」が貼られており、
左側の地袋の襖にも同様のものを使用。
また、天井板は格天井になり、柾目板の木目を交互に組んで変化をもたらしています。

【1階バックヤード部分】
次に邸宅の北側部分を見ていきますが、まず、「女中の間」は、門衛所から見る事ができ、女中さんが正門から誰が来たかを見る事ができました。

女中の間には電話を取り付け、主要室には電話交換の内線電話を設備した画期的なものでしたが、残念ながら、内線電話に関しては、故障も多かったと言います

また、キッチン部分に関しては、現在はスタッフの方のバックヤードとなっているため非公開になり、竣工当時の写真を利用しますが、竣工当時から棚があり、現在も遺されているほか、シンクはタイル張りなど、非常に近代的な造りになっています

つぎに更衣室においては、天井部分は空気を抜けさせるため、葦糸編みになっており、シンクに関しては、新しくとりつけられたものでしたが、当初は長いシンク製。
ペンダント照明を細い竹からハトメで出す、という丁寧な仕事がされています。

また、浴室に関しては、当初は五右衛門風呂でしたが、のちの増改築時で桐の浴槽に切り替えられ、現代的な浴室になりま。
山本家住宅は、当初からガスで沸かす方式が採られ、ボイラー室が配されました。

つぎに茶の間部分に入ると、この部屋は配置的に隣にはダイニングキッチンがあったため、家族が食後に一息つくための場所と推測され、天井部分は網代が組んであり、細い梁の上に、照明を垂らす方式が採られています

また、茶の間の引き出しには設計者の岡田時男氏らしく、水屋が設けられ、襖に関しては、網代貼り。
上部の天袋に関しても、仏間と同じく、裂地になっています。

【1階内蔵部分】
奥側は内蔵になりますが、扉に関し、太平洋戦争中の金属供出令に関しては、内蔵で表から伺い知ることができるため、それを免れたと言います

内蔵の隣の暗室に関しては、赤い照明を使用。
この理由として、当初の施主・近藤壽一郎氏が、写真を趣味としていたため、現増室として使用していました。

【2階洋館部分】ホール部分の階段親柱の松ぼっくりの意匠は当時からのもので、壁紙は1階応接間と同じく、壁紙にはズンゴロス(麻袋)調のヘッシャンクロス。壁にはニッチ(窪み)が設けられ、天井も1階とは違い、化粧貼りはなく、床面も簡略化しています。

バルコニー部分に関しては、もともとはベランダでしたが、のちに改造されました。そのため、腰板部分がレンガ貼りで壁面と窓に関しては後に付けれたものになります。
また、当時、阪神間ではこのようなベランダが流行しましたが、山本邸でも、その流れを汲んでいます。

バルコニーの隣は山本学氏は夫妻寝室に使用。
施主の近藤壽一郎氏の邸宅時代は、近藤氏はこの部屋の位置が、家相学的に勉強などによいと言われたため、長男の居室に使用。
造り付けの本棚に関しては、その名残になり、1階客間同様、暖炉は飾り用のもの。
周囲にタイルを貼りガスで動くものにしています。

寝室わきの6畳和室は、「神棚の間」として使用しましたが、これに関しては、施主の近藤壽一郎が、神道を信じていたため、配置されたと言われています。
この部分は表玄関上部になり、外観からはハーフティンバー風よ洋館でしたが、和室。
天井部分は格天井になり、柾目材を縦と横、交互に並べたものになります

【2階和館】
和館の2階部分の10畳間は客室として使用され、次の間は4畳になります。欄間部分には、1枚板の周りを幾何学的な意匠で囲ったものになり、襖を外せば、隣の10畳間と続き間として使用できます。

つぎに客間に関しては1階同様、文化教室などに利用されています。天井板には貴重なものを使用し、天袋と違い棚そして床の間を配した、山本邸の中でも最も格式高い部屋になっています。

なお、客間部分には書院を設け、書院欄間部分は見事な「卍崩し組子」を使用。
卍には吉祥や美徳を表したもので、床の間上部は一枚板を使用し、床框は黒漆塗りにしています

和室側の2階6畳間は、絞り丸太の平床で平書院になります。
また、襖には仏間などと同様、絹織物の「裂地」を貼っています。

6畳間の隣は3畳間になり、この部分は内階段の通路として使用されましたが、阪神淡路大震災以降、安全のため、内階段が封鎖されたため、和室として使用されています。

【茶室部分】
茶室部分については、当初の施主の近藤壽一郎氏が、島根県の出身であったため、出雲流庭園とし、庭石に関しては、壽一郎氏の地元・島根県日野町根雨の川から運び出されたものを使用しています。

つぎに、大名茶人・松平不昧こと松江藩主・松平治郷の考案した“不昧流”茶室を採用し、主な特徴として、にじり口はなく貴人口から入り、開放的で明るいのがその特徴になります。

茶室部分も設計は、岡田時男氏が行い、非常に赤r追茶室になっています。

【編集後記】
この邸宅を初めて訪問した時が、病気発覚時。
改めて、今回自身の心境が落ち着いたため、先日記載した松山大学温山大学と同じ日に再訪問した次第。
その日が、阪神淡路大震災から丁度30年目の日。
この建物が残っていたことに、大きな意義があると感じたと同時、自身も、あの当時のことを考えると再度見学できたことに、大きな感動を覚えました
