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わが心の近代建築Vol.48 六華苑/三重県桑名市

みなさん、こんにちわ。
今年もそろそろ、終焉を迎えていますが、このBLOG…
行けるかどうか微妙ですが、何とか50胸は記載したいところ。
今回は、昨年に病気療養中に訪問した、三重県桑名市にある六華苑について記載したいと考えております。

【はじめに】
六華苑に関しては、2代目諸戸清六の邸宅として設計、なお、洋館の設計に関しては、「鹿鳴館」を設計したジョサイア・コンドル氏があたり、揖斐川/長良川を望む18000㎡の敷地に、和館/洋館/蔵などの建築群と「池水回遊式」庭園で構成され、繊細などで一部改修されたものの、創建時の姿をほとんど残した、大変貴重な文化財になります。

六華苑 邸内図【六華苑HPより転載】

桑名市では、1991年に諸戸家から庭園を取得、建物については諸戸家から寄贈。整備されたうえ、1997年に「六華苑」として一般公開され、洋館と和館については同年に国指定重要文化財として選定。庭園部分に関しては2001年に国指定名勝に選定されました。

【桑名について】
桑名は、江戸期に桑名藩11万石の城下町として栄え、桑名宿は東海道53次の42番目のの宿場町としても栄え、旅籠数では宮宿に次ぐ2番目の規模でした。
また、木曽三川の河口部分に位置し、日本屈指の穀藏地域であった伊勢平野と濃尾平野からの集積地となり、米の集積地としても栄え、江戸期には米相場の商いが始まり、米の町としても栄えます。当時の主な米穀取引所は大阪堂島、日本橋蛎殻町、下関赤間関でしたが、その中でも桑名は、全国でも唯一、夕方にも相場を開き「桑名の夕市」と呼ばれm、全国に先駆けて相場が決められるため、「桑名の相場が全国の相場を決める」と言われました。

歌川広重作 東海道五十三次 桑名宿【Wikipediaより転載】

【初代・諸戸清六】
この邸宅の施主、諸戸家は代々庄屋を務める家柄でしたが、江戸末期、清九郎の代に塩の売買に失敗、2000両もの負債を負ってしまいます。
なお、清九郎の長男・初代・清六(1846~1906)が父の死後、家督を譲り受けて、80両で米国業を営み、そこから僅か3年で完済。
維新後も政府高官や三菱財閥の知遇を得て事業拡大。次々に田畑を開墾して山林を植林、日本一の大地主になますが、その一方で、飲料水事情が悪かった桑名に私財を投じ、上水道を引き市民にも開放しました。

(初代)諸戸清六【六華苑HPより転載】

1906年に初代・諸戸清六が亡くなると、諸戸家は二つに分けられ、家と屋敷は次男・清太が相続。当時、早稲田で学んでいた4男・清吾(1888~1969)が桑名に呼び戻され、18歳で(二代目)清六を襲名、家業を引き継ぎ、結婚。
1911年に、当時の建築界の重鎮にして「近代建築の父」と謳われたジョサイア・コンドル氏に建築を依頼します。

(2代目)諸戸清六【六華苑HPより転載】

【設計者 ジョサイア・コンドル】
なお、この邸宅の洋館部分を設計したのは、わが国では「近代建築の父」と謳われたジョサイア・コンドル(1952~1920)。

洋館部分 設計者:ジョサイア・コンドル【Wikipediaより転載】

1952年にイギリスで生まれ、僅か25歳で「お雇い外国人」として来日。工部大学校(現在の東京大学建築学部建築学科)にて教鞭をとり、宮廷建築家の片山東熊、日本建築の父と謳われた辰野金吾らを育成する傍ら、鹿鳴館を建設。退官後に一度英国に帰国後するも再来日し、三菱財閥の建築顧問などを歴任、ニコライ堂、古河庭園、旧岩崎邸庭園洋館、旧島津公爵邸(清泉女子大学本館)など、67歳で没するまでに70棟近く設計します。
https://note.com/780210/n/n8d505d3b451
が…
その殆どが、東京や神奈川に集中していたため、関東大震災、東京大空襲…
京を襲った2度の災禍で現存する作品は非常に少なく、中でも、六華苑洋館は地方に唯一現存するコンドル作品となります。

【たてものメモ】
六華苑(旧諸戸清六邸)
●竣工:1911年
●設計者:
 ・洋館:ジョサイア・コンドル
 ・和館:伊藤末次郎
●文化財指定:国指定重要文化財
●写真撮影:可(商用厳禁)
●入館料:¥460
●休館日:
・月曜日(月曜が祝日の場合、翌平日)
・年末年始(12月29日~1月3日)
●交通アクセス;桑名駅より「田町停留所」徒歩7分
●参考文献:
 ・桑名市教育委員会著「六華苑」
 ・邸内内部においてはパネルの数々を参照
 ・BS朝日放映「百年名家」
など

【長屋門】
まず、六華苑には、長屋門を入り入場。
また、先述の諸戸氏庭園については、春と秋に一般公開されております。

六華苑 長屋門

【外観部分について】
長屋門を道伝いに抜けると、青色の4階の塔屋をを萎えた洋館に出くわしますが、こちらがジョサイア・コンドル氏が設計した洋館部分になります。
このカラーも、コンドルが若き(2代目)清六に併せて付けたもの。
また、塔屋部分も、当初の予定では3階でしたが、(2代目)清六たっての願いで4階建てに変更されました。

洋館 正面写真

なお、車寄せ部分においては、空襲の被害を受けて損傷。
終戦後は、復元されることはありませんでしたが、こちらの部分に関しては、公開に合わせて古写真などから、復元された箇所になります。

六華苑 洋館 車寄せ

また、洋館の基礎部分の換気口部分には、諸戸家の家紋が足らっわれています。

洋館 基礎部分の家紋

庭園部分から外観を見ると、まず洋館部分においてですが、コンドル建築の特徴ともいうべき、1階のベランダと2階のサンルームが重なっています。
明治初期の洋館建築と違い、ベランダ部分を重ねてしまうと、日差しがあまり入らない欠点がありますが、コンドル氏は最後までこの手法を護り、六華苑の洋館部分は、岩崎家駿河台邸に似ている部分も多く、コンドルは2階部分をサンルームにすることで解決しました。
また、和館は伊東末次郎氏の作品になります。

六華苑 南側庭園から臨む

また、池部分から邸宅を眺めると、一番のビュースポットになりますが、和館と洋館…
2棟とも設計者も毛並みも違う邸宅ですが、ジョイント部分を見ると、見事に調和しており、和洋館並列式建築の名作とも呼ぶにふさわしい状況です。

池部分を挟んで邸宅を臨む

なお、洋館の出入り口は通常閉鎖されており、隣の内玄関棟から入りますが、こちらは、先述の空襲の際に焼失してしまったため、のちに復元された建築になります。
なお、現在はお土産コーナーや喫茶室、事務室などが設けられています。

内玄関棟

【平面図】
なお平面図を見ると、内玄関等を中心として、邸宅(和館/洋館)部分と、各棟を接続した状況になっております。
なお、清六氏は、和館を生活空間、洋館を迎賓の場として考えており、2階部分の黄色い枠部分ですが、(2代目)清六の母親の部屋になりましたが、現在は非公開になっています。

平面図【六華苑HPより転載】

【邸内部分-洋館1階】
内玄関等を抜けると白い部分が洋館の壁、和館は左側に向かうとあります。

内玄関棟から洋館部分の壁を臨む

‐玄関部分-
玄関部分に関しては、先述の戦禍により、ステンドグラス部分が損傷してしまったため、公開に際し、古写真などから復元されたもので、タイルはミントン社製。
なお、当時の洋館にしては珍しく靴を脱いで上がる方式に。
扉部分に関しては、六華苑ぼある場所が風が強く、風で閉じないよう、傾斜が付けられています。

1階 玄関部分

‐応接間-
なお、玄関から見て左側は塔屋になり1階部分は、応接間として活用。この塔屋に関しては、当初は3階建てと予定されていましたが、邸宅から揖斐川を臨めることを施主サイドから求められて、4階建てに変更。
また、窓ガラスにおいては日本で作られたものではなく、外国から輸入品が使用されました。

塔屋 1階

‐ホール部分-
ホール部分は、食堂や客間、階段部分とつながる邸宅の中核部分になり、右奥側の扉を開けると、和館になります。なお、このホールはダンスホールなどにも使用されました。現在はこのスペースを活用されて、イベント時には、コンサートホールなどにも活用されています。

1階 ホール部分

‐1階 階段-
次に階段部分を見ると、通し柱の無い、折れ曲がったもので、この部分もコンドル建築の特徴的な個所になっています。
また、階段の手摺子には装飾が付けられ、変化が付けられています。

1階 階段

‐1階各部分-
先述の内玄関棟から和館/洋館に伝わる廊下部分から見えた各部屋ですが、こちらの部屋は電話室となっています。
諸戸清六は、米穀業で名を馳せたため、通信が命綱になっており、電話が敷かれたのは三重県初、のこと。
また、全国的にみても12番目という速さでした。

1階 電話室

また、その隣の部屋はトイレとなり、六華苑が竣工したのが1911年のことで、竣工当時より水洗トイレでした。
その理由として、六華苑は竣工当時から水洗トイレでしたが、この理由として、走井山地下水より諸戸家が水道を引いたためと言われており、桑名は先述の水道整備が行われ、全国で7番目に水道が敷かれました(諸戸水道)

1階 トイレ

‐客間-
次に、この部分は、来客の接待用に使用さました。
この部屋にある家具類は、残念ながら竣工当時のものではなく、アンティークをそろえたものになっています。
また、全体的に海をイメージした部屋になっています。

客間

また、暖炉部分は、アール・ヌーボー調になっており、鏡が比較的高い位置に設えていますが、輸入品になっており、この当時の鏡の役割として、姿見以外にも、照明を映して部屋の明かり取り的な意味合いも込められています。

客間 暖炉部分

また、照明部分ノメダリオンは、バラの花が用いられていますが、バラは英国の象徴的な花で、コンドル氏は好んで使用しました。

客間 照明部分

‐食堂-
食堂部分は、白漆喰の天井に木目の梁と腰板が用いられた非常にシックな部屋になっています。
また、部屋の扉も入口同様、風で扉が閉まらないように傾斜が付けられており、扉も非常に高い設えになっています。

食堂

また、客間部分から食堂を臨むと、引き戸になっており、扉の色は食堂から見るとは白ですが、食堂部分から見ると違う色になっており、各部屋に併せた扉を設えています。

客間から食堂を臨む

ベランダ部分を臨むと、角材の列柱がならび、タイル部分に関しては、コンドル自ら選んだものを使用しています。

1階 ベランダ

なお、先述の階段ホールを上がり、洋館2階へ向かいますが、階段踊り場部分には明かり取りの窓があり、光が邸内に降り注ぐようになっています。

階段 踊り場の窓

【邸内 洋館2階部分】
‐階段ホール‐
次に先述の2階部分を上がると、ホール部分を中心として、塔屋と、書斎、寝室、居間、女中部屋といった1階部分と比較して、プライベート・スペースでで構成されています。

2階 階段ホール

‐塔屋 応接間-
1階塔屋部分と同じ形状になっており、狭い空間が心地よさを感じさせます。なお、この部屋脇に階段があり、3階、4階へと上がることができました。

塔屋 応接間

また、外観の候にも記載しましたが、そもそも塔屋は3階建ての予定でしたが、施主サイドの揖斐川の桜の景観を愉しみたい、という願望から当初の予定を変更され、晩年期のコンドルは若き施主の願望をかなえるのに苦心しました。

塔屋 階段部分

‐トイレ‐
次にトイレ部分ですが、こちらのタイルも、玄関部分や1階トイレ、ベランダと同様、コンドル氏が自ら選んだものが採用されています。

トイレ部分

‐女中室-
女中室は、現在、展示場などに活用されています。
諸戸清六邸は、和館と洋館では女中さんの役割が分かれており、一般的に洋館が迎賓の場であったことなどから、洋館の方のほうが地位は高かったといわれ、洋館内部には和館やその他の担当者の方はめったに中に入れなかったといいます。
また、コンドル氏の図面では、この部屋は予備室と掲載されていました。

女中室

‐寝室-
構造上、書斎部分と暖炉が背合わせになっており、洋館の電気金具は、戦時中の金属供出ですべて回収されたものの、尾の部屋の照明の傘は、竣工当時のものが残されています。

寝室

‐居間-
1階の食堂と同じ間取りになっており、この部屋からサンルームに通じています。また、この部屋の暖炉は邸内で特に高く設えています。

居間

なお、暖炉に関しては、こちらも鏡が付けられ、姿見としてではなく、室内の明かり取りとして活用されています。
また、タイルは濃い緑色のものが使用されています。

居間 マントルピース

また、北面壁面部分には造り付けの衣装ダンスが備えてあり、収納スペースにおいては造り付けになっているものの、和風の箪笥風の部分は、跡になってつけられたものと考えられます。

居間 衣装ダンス

‐書斎-
1階の客間の上になる部屋。
客間同様、壁面が非常に凹凸の多い部屋で、コンドルは好んでこの様式を多用しました。
また、この部屋からも、右側の扉を開けるとサンルームに出る事ができ、この部屋にある家具類も、竣工当時のものではなく、アンティーク家具を集めたものになります。

書斎

サンルーム部分は、1階ベランダと同じ広さを模し、サンルームの言葉通り、南面には陽が差し込む非常に明るい部屋になっており、(2代目)諸戸清六は、この部屋から庭園を眺め、紅茶を飲むことを楽しみとしていました。

サンルーム

なお、サンルームから庭園を眺めると、手前部分が洋館に併せた芝庭になっており、奥側と和館部分の庭園に関しては、和風庭園となっており、こちらも国指定名勝になっています。

2階サンルームからの景観

また、洋館2階部分から和館部分の屋根を見る事ができ、明治/大正期の洋風建築では、和館が接続しているのが一般的で、当時としては、純粋な洋式建築に抵抗があり、こうした座敷を付随させるのが一般的でしたが、六華苑のように2つの座敷を付属させたものは非常に珍しく、大変貴重な建物になっています。

洋館2階から和館を臨む

【和館部分】
洋館1階の扉を開けると和館となりますが、まず、畳廊下は29枚の畳が敷き詰めてあり、こちらは家族用。
従者の方は、板廊下を使用しました。

和館 廊下部分

【2の間】
「2の間」部分は、2代目諸戸清六が居住の場として使用車いました。なお、次の間は10畳間になっており、欄間部分はヒノキの1枚板になっています。

2の間「次の間」

座敷部分は、12.5畳あり床の間を設えており、竿縁天井はヒノキ板が使用されています。
また、2の間は(2代目)諸戸清六の妻がベッドを設え病気療養をしたなど、生活の場として活用。
日常生活は洋館部分ではなく2の間が中心となっていました。

2の間「座敷」

【1の間】
1の間は、和漢の中で来客の場として使用され、「鞘の間」は6畳になっています。
鞘の間は、主に来客者の方の荷物を置いたり、障子を取り外して1つの部屋として活用するなどに用いられました。
また、2の間とは違い、天井材は桐板張り、欄間には桐材が使用され、縁取りは黒漆ぬ衛になっています。

1の間「鞘の間」

次の間は15畳あり、天井部分は桐板張りで、欄間部分は桐材が使用され、黒漆で縁取りされ、桐や菊があしらわれており、この室内にどのような立場の方を招いても遜色ない設えになっています。

1の間「次の間」

床の間/付書院/飾り棚を設けた本格的な座敷になっています。
竿縁天井は桐板張りになっています。
また、釘隠しは桐と菊になっており、建具とけ込みは、黒漆塗りになっています。

1の間「座敷」

また、書院欄間には菊があしらわれており、琵琶床には松の一枚板が使用。書院などに付けられている電灯の配線は柱の内路に埋め込まれています。

1の間「座敷」 書院欄間と琵琶床

また、1の間「座敷」部分の外には、手水鉢が備えられ、1の間を利用された方が厠に行く際には女中が柄杓で水をかける方式になっています。

1の間「座敷」から手水鉢を臨む

‐厠部分-
厠部分を見ると、現在のものより非常に広くとられており、邸宅が竣工した1911年は、当時の主流派和服だったため、着衣を直したりするために、トイレは広く設けられています。
この背後には、退却/歌人用の浴室が設けられていましたが、現在班も越されていません。

‐1番蔵‐
こちらには諸戸家の家財道具、また来客用の荷物などがしまわれ、扉は漆喰塗りになっています

1番蔵

‐番蔵棟‐
こちらは木造2階建ての土蔵造りになり、内部は3~7番蔵の4つに仕切られ主に衣類や日常に使用するものが保存されています。

番蔵棟

‐高須御殿‐
こちらの邸宅は岐阜県海津町にあった高須藩の邸宅の一部を移築したものと言われており、2部屋からなり、南側と西側に濡れ縁を配したものになっていおり、現在は茶会などに貸し出されています。

高須御殿
高須御殿 次の間
高須御殿 座敷

‐離れ座敷‐
木造平屋建て。
1938年に建立し、もともとは桧皮葺屋根だったものが、のちに銅板葺きに改造。
2部屋から成立し、上段の間を設け、仏壇を納めていました。
内部に水屋を設け、茶匠・松尾宗吾好みの意匠になっています。

離れ屋
離れ屋 次の間
離れ屋 上段の間
離れ座敷 水屋部分

【編集後記】
六華苑については、今まで何度も訪問しましたが、訪問するたびに新たな発見がある、そんな邸宅でした。
また、愛知などを訪問することがありましたら、再訪問して学び直したい邸宅の一つです

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