わが心の近代建築Vol.97 外交官の家(旧内田家住宅)/東京都渋谷区→神奈川県横浜市中区
みなさん、こんにちわ。
今回は、今年の夏に一度公開したものの、写真不足で一度削除した「外交官の家」について記載します。
この邸宅については、記載当時は、屋根裏や塔屋部分の写真がなかったのですが、特別公開時に見学できたため、そちらの部分も併せて記載していきたいと思います。
≪外交官の家の歴史≫
外交官の家は1910年、外交官の内田定鎚がブラジル駐在公使時代に、渋谷区南平台に建てたものです。
この建物は、関東大震災、戦時中の空襲による火災を免れ、戦後もGHQから接収を受けるなどの多難な時代を乗り越えていきました。
特に空襲では、焼夷弾の被害を受けたものの、近隣住民の方の協力を得て、井戸水で消化して延焼を防ぎきり、この建物を残すことができました。
戦後は、建物の1階部分を写真室などに活用しながら保存していたものの、建物の老朽化などから、維持が困難となり、解体寸前まで至りました。
が、施主の内田定鎚が横浜市長の候補に挙がっていた経緯などから移築保存に横浜市が手を上げ、綿密な移築調査が行われ、たのち、平成6年から約2年かけてイタリア山公園に移築復元工事が行われ、「外交官の家」として一般公開されます。

【邸内展示パネルより転載】
≪施主 内田定槌について≫
❏内田定鎚について
施主の内田定鎚(1865~1942)は福岡県北九州市に生まれ、1889年に東京帝国大学を卒業ののち、外務省試補になったのち、上海副領事、漢城領事、ニューヨーク領事、ブラジル公使、駐スウェーデン公使、駐トルコ公使などを歴任し、退官後は日本・トルコ協会会長などを務めます。

【邸内展示パネルより転載】
❏内田定鎚氏と横浜市の関係
なぜ、渋谷にあった内田定鎚氏の邸宅が、横浜のイタリア山公園に移築された経緯についてですが、内田定鎚氏が、横浜市市長の候補に選出されたことが挙げられます。
また、横浜市としても、関東大震災の大火で遺されている洋館は少なく、そうした意味合いもあるのではないかと邪推してしまいます

【Wikipediaより転載】
❏内田定鎚氏とストックホルム五輪
内田定鎚氏は、大河ドラマ"いだてん"でも話題になった、日本が初の五輪参加した際にも大きな足跡を遺し、スウェーデン公使時代には、嘉納治五郎や金栗四三ら日本選手団がストックホルム五輪の遠征を円滑に行えるよう尽力した人物でもあります。

【邸内展示パネルより転載】
下列左より:内田定鎚夫人、金栗四三、
加納治五郎、内田定鎚
上部左より:大井正高、藤重源、山田四郎、大森兵衛、
三島彌彦、大森兵衛夫人 アニー、川角忠雄
≪設計者JMガーディナー≫
設計者のJMガーディナー(1857~1925)は、宣教師以外にも、建築家、教育者として広く知られ、1880年に米国聖公会から東京築地の立教学校に派遣され、教鞭をとりつつ、1881年には築地居留地37番に立教大学校を建設し、1883年には立教大学を設立し、初代校長に就任します。途中、体調を崩して一時帰国して再来日。1892年からは建築家として本格始動し、1894年の明治東京地震での被害を目の当たりにし、耐震構造などに着眼します。

【邸内展示パネルより転載】
1903年には自らの建築事務所を開業し、一般邸宅も請け負うようになり、1923年の関東大震災では、自宅や教会などが消失するもガーディナー一家は日光に滞在中だったため被害を免れますが、ガーディナーは1925年に亡くなり、その亡骸は彼が設計した日光真光教会に眠ります。

【Wikipediaより転載】
≪内田定鎚とガーディナーの関係性≫
ガーディナーと施主の内田定鎚を繋げる関係性としては、はっきりした資料こそないものの、ニューヨーク総領事として活躍した定鎚がハーバードクラブで欧米の方と昵懇の間柄となり、その経緯でガーディナーと親交を深めていったと推測されます。ガーディナーが設計を担当した個人邸宅としては、京都の長楽館などが残されていますが、その数は数が少なく、大変貴重なものとなります。
≪建物メモ≫
外交官の家
●竣工:1910年
●設計者:JMガーディナー
●文化財指定:国の重要文化財
●写真撮影:可
●休館日:毎月第4水曜日
●入館料:無料
●参考文献
・田中貞彦監修「死ぬまでに見たい洋館の最高傑作」
・内田青蔵 文/小野吉彦 写真「お屋敷拝見」
・邸内展示パネル
・ホームページはまレポ「横浜の名建築」
など
●留意点:予約制で建物ガイド中に塔屋などの見学機会あり
≪平面図について≫
外交官の家では、先述のように洋館部分のみ保存し、点線部分が解体された和館部分になり、この時代の邸宅で多く見られてた和洋並列式住宅となります。
1階部分が食堂などのパブリックルームに使用され、2階部分が寝室などのプライベートに充てられるほか、夫婦寝室以外に、客用寝室が付けられています。

【邸内展示パネルより転載】
≪外観について≫
❏正面デザインから
正面部分から見ると、外壁はクリーム色の薄い板材を横に貼り付ける|横羽目下見板張≪よこはめしたみいたば≫りとなり、コーナー部分などには柱状の板が貼られた、シンプルな構造ながら左右非対称のアメリカン・ビクトリアン洋式建築となり、2階屋根上の窓は屋根裏の採光のためのものです。

玄関ポーチに設けられた屋根に関しては日本風の屋根となり、三角屋根の中央部分には、うろこ型のデザインが施されるなど、一見すると見逃しがちな部分も面白いところ。床材にはタイルを用いるなどしています

現在、この建物の左側には新館として喫茶室が営業していますが、内田邸時代はかつては和館が存在していました。その名残として、廊下のジョイント部分が残され、右側の洋館のには3連の段差の付けられた茶色い鎧戸が設けられていますが、階段部分の採光用の窓となります

❏北面外観について
現在のベランダ部分は北側に位置しますが、もともとは南面にした採光に配慮された佇まいでした。建物全体的に取り立てて目立つ個所こそないものの、屋根窓や鎧戸から、平面的な変化を感じることができます。

特に「外交官の家」で一番特徴的な部分は、左側部分で、1・2階はサンルームに充てられ、3階部分は塔屋になり、かつては渋谷の街を映し出していた個所は、現在、横浜の街を見る事ができます。
屋根部分はスレート葺きとなります。

1階サンルームの窓下を見ると、細かく隙間があけられていますが、こちらは日本の建築で多く使用されている無双窓となり、日本の建築で多く使われる技術が使用されています。
また、窓ガラスにおいては、この当時の技術では大きなガラス窓を作るのは工程上不可能であったため、桟に小さなものが嵌めらています。

≪1階部分について≫
❏玄関部分
玄関を抜けると、玄関扉には、内田家の家紋「丸の剣三つ柏」がデザインされており、ホールへの扉は鮮やかなアールヌーボー風のステンドグラスが彩りを添えています。

❏供待室
玄関の右側に小部屋が用意されていますが、供待部屋として使用され、この邸宅を訪問する際のお付きの人や運転手の方の控室として用いられ、小さいながら暖炉も設えていました。
なお、この部屋から、馬車が一周できるように通路が敷かれているのが見えます。

❏ホール部分
ホール部分では、床は格子模様の寄木張りとなり、天井は漆喰塗になります。現役時代は花台などが置かれ、来訪者を招き入れました。帽子掛け兼傘立てなどは聞き取り調査などから新造されたものとなります。

階段わきの扉部分は、厠となり竣工当時で、既に水洗の洋式トイレが取り付けられいました。丁度、階段の部分の真下のスペースを有効的に活用した仕組みになります。
(特別ガイドツアー時のみ公開)

❏大客間
賓客をもてなす応接間にふさわしく、室内には長押状のなどの部材が回り、柱も見えるなど伝統的な室内になります。
その一方で、庭面に丸くせり出したベイウィンドウ(でまど)などから、柔らかな印象を与えます。

暖炉部分は小さなアルコープ風の意匠になり、いわば小さなイングルヌック調となります。
壁のランプに関しても。聞き取り調査から復元され、暖炉上の鏡は曲線を基調とし、両サイドのステンドグラスは修繕されたもので、双方ともアールヌーボー風になっています。

❏小客間
晩さん会などは食事の用意を待つ際、また、食後のティータイムなどに使用されました。家族間の団欒や憩いの場にも使用され、隣接する部屋とはスライドドアで仕切られるようにできていますが、通常時はドアは開け放たれ、各部屋の接続部分にも使用されました。

❏サンルーム
八角形の室内となり、陽の光がふんだんに入るよう、一面がガラス張りとなります。他の部屋には鎧戸が付けられているものの、庭に面した壁にはつかず、室内…
というよりかは屋外として捉えられています。

腰壁部分は引き違いの無双窓となり、必要時には風を取り込められるようになっており、このおかげで夏は涼しく、冬は暖かく使用できます。

❏食堂
多くの賓客をもてなす、外交官の邸宅としての食堂は極めて重要となります。壁部分は縦長の大きな板壁仕上げとなり、天井部分は大客間と違い、太い梁状のものが格子状に組まれていますが、木製パネルとなります。
また、暖炉上部は緩やかな曲線の柱が設えており、こちらも大客間同様、イングルヌック風となります。

暖炉はグリーンのタイルで囲まれており、デザインはアールヌーボー風。右側のステンドグラスはホール部分の扉同様にアールヌーボー風のデザインになります。

食堂の裏手はかつての和館となり、現在は廊下のみが残されています。なお、食堂と大客間の間にはかつての配膳室が設けられていました。

≪階段部分≫
次にホール部分に戻り、階段を見ると、ある理由からコの字状の螺旋に組まれており、階段の親柱、手摺子などはいたってシンプなデザインながら、それぞれに細やかな筋を入れるなどの細工がされています。

2階ホールから階段を臨むと、階段の段差に併せて、西洋風の上げ下げ窓と鎧戸が設けられています。
この効果として、室内の採光と空調の間手に設けられるほか、風雨の被害などを逃れるため、鎧戸で締め切ることができます

≪2階部分≫
❏ホール
2階部分は各部屋を繋ぐへそとなっており、壁上部にはモールディングが設えています。左側にある木の扉を開けると隠し階段になっており3階のトランクルームとなります。
トランクルームから降ろした荷物をホールに置き、ワイヤーで1階に卸しました。

トランクルームから荷物を降ろす際には、ホールの天井を外すことができ、滑車で荷物を降ろす仕組みになっており、施主の生活に配慮された造りになっています。

❏書斎
書斎に関しては施主 内田定槌が自身の執務のために使用した部屋となります。
こちらの家具類に関しては聞き取り調査や古写真などの史料から復元され、書棚には定槌が所有していた書籍が展示されています。

書斎部分の最大の特徴はアーチ状の出入り口となりほかにも、室内の柱などに、さりげない装飾がつけられた、こだわりの部屋となります。

❏主寝室
こちらは内田夫妻の寝室として使用されました。
主寝室は他の部屋に比べて開口部分も多く、夫婦の憩いの場らしく、1階に比べて色調も明るく、かつて広い芝が広がっていた方角にはベランダが付けられていました。

主寝室に付属した八角形の小部屋はサンルーム上にあり、夫人のプライベートルームとして使用。白い暖炉型ストーブの跡があるほか、壁には呼び鈴の押しボタンが取り付けられていました。

❏浴室
浴室は、現在のユニットバス式になり、廊下側からも、主寝室側からも扉でつながっています。
窓側からは白い光が差し込み、白タイルの床に白い石の腰掛、陶器の洗面台と浴槽など、清潔感に溢れています。余談ですが浴槽に関しては、聞き取り調査などから再現されたものとなります。
竣工当時、水道は井戸水をポンプで吸い上げ、和館のガスボイラーから浴槽へ給油していました。トイレは完全な洋式で木製の便座やハイタンクが付けられています。

❏浴室側の寝室
洋館部分には2つの寝室が付けられていますが、浴室側の寝室に関しては、令息室側の寝室あるいは客用寝室として使用されました。
板が嵌められた個所には、かつては暖炉が備え付けられていました。

❏書斎側の寝室
こちらの部分は、現在、外交官時代の内田定槌の渡航状況やその功績などについて展示し、竣工当初は客用寝室に充てられました。

≪3階部分≫
❏屋根裏部分
3階部分は屋根裏などとなり、隠し階段を登りきると、板の間となり、階段を使わずとも、板の間を外して、ここからトランクごと、滑車で降ろしました。
ここにも海外赴任生活の多い内田定鎚氏の生活様式に併せた構造となります。

❏塔屋部分
サンルーム上部は塔屋となり、現在は、横浜港を臨むるようになっていますが、竣工当時は渋谷の景観を愉しめるようになっていました。

≪編集後記≫
今回、改めて横浜外交官の家について記載しましたが、自身でも知らなかった個所が何カ所もあり、非常に実り多き邸宅でした。
横浜外交官の家は、GMガーディナー氏の作品でも現存する数少ない個人邸宅で、これからも、横浜のランドマークとして大切に使用されていくことを願って止みません。
特に特別ガイドでは、通常拝見できない箇所を見る事ができ、ぜひとも参加してほしいと感じます。
