わが心の近代建築Vol.109 春風万里荘(旧北王子魯山人邸)/茨城県笠間市
みなさん、こんにちわ。
今回は、近現代美術史の大物中の超大物、北王子魯山人が晩年過ごした邸宅、春風万里荘について記載します。
春風万里荘は、もともとは神奈川県の北鎌倉にありましたが、日動画廊の創業者 長谷川仁・林子夫妻が笠間市に「芸術の村」を創設するに際し、1965年に売りに出されていたところ購入され、「笠間 芸術の村構想」の一環として移築され現在に至ります。

≪笠間市について≫
笠間市は茨城県 県央部に位置し、笠間稲荷神社、笠間藩城下町として栄えたほか、陶器の笠間焼の生産地としても知られ、春と秋に行われる陶器市に際しては、多くの観光客でにぎわいます。
笠間焼に関しては、1770年代から笠間で作られ、箱田村の名主・久野半右衛門道延が始めた「箱田焼」と山口官兵衛がはじめた「宍戸焼」をルーツとしました。
のちに笠間藩藩主 牧野貞喜や牧野貞直は窯業を重要視し奨励し、現在、関東地方内では益子と並ぶ陶器の重要生産地になります。

≪施主 北王子魯山人≫
北大路魯山人(1883~1959)は、京都に生まれ、生涯を通じ、絵画、陶芸、漆工、篆刻などで活躍した芸術家で、高い美的感覚、そして豪快な逸話とともに、今も多くの人を引き付ける芸術家で美食家としても知られています。
古陶磁を深く研究し、そこに独自の表現や大胆な発想、遊び心を加えた魯山人の作品は、料理を盛るための器、食の空間を彩るための花器や絵画など、いずれも個性あふれる独特な美を持っています。
1936年から北鎌倉に星岡窯を構え、以降、生涯を通じ北鎌倉で過ごしますが、春風万里荘は自身の主屋として藤沢市の伊藤家から買い取り移築しました。

【Wikipediaより転載】
≪日動美術館と笠間 芸術の村≫
この邸宅が移築されたのは、日動美術館に先駆け、1965年のこと。
長谷川仁は、ここ、笠間に「笠間・芸術の村」構想を立て、芸術家たちのアトリエや住まいを集め芸術の拠点として君臨させることを夢見ており、春風万里荘を「笠間 芸術の村」のクラブハウスとすることを目的に移築しました。

1965年に移築の当時の写真を見ると、現在の主屋と比較し、屋根上部の熨斗部分が現在のものと比較し、傾斜が反った形になっていますが、この屋根は、筑波山ろく付近で活躍した、日本一と謳われる屋根師 「筑波流」の方々がによるものです。

【春風万里荘展示パネルより転載】
≪たてものメモ≫
春風万里荘
●設計年:江戸後期(笠間市に移築は1965年)
●設計者:不詳
●入館料:¥1000
●文化財指定:ー
●写真撮影:可
●交通アクセス:
JR常磐線「笠間」駅より徒歩25分
●参考文献:
・北王子魯山人に関してはWikipediaを参照
・BS朝日放映「百年名家」
・春風万里荘の展示パネル類
●留意点:
笠間駅よりはなれている場所で、市民バスもあるものの、本数が少なく、タクシーで行くのが現実的
≪薬医門部分≫
この邸宅の名前にもなっている春風万里荘は中国の漢詩が由来になっており、これを魯山人が好んで使用したため、邸宅の名前になりました。
なお、薬医門は元々のものではなく、この邸宅が移築した際、日動画廊 創業者の長谷川仁がデザインしたものと言われています。

≪主屋 外観部分≫
主屋部分は、もともとは藤沢市の豪農だった伊藤家の邸宅で、江戸後期に建てられたものになります。
魯山人は北鎌倉で星岡窯という窯場を営んでいた関係から、自邸が必要となり、当時の民芸運動の流れで伊藤家からこの邸宅を買い取り、1927年に北鎌倉に移築し、利用しました。
外観の特徴として茅葺の入母屋造となり、中央部分に式台玄関が飛び出した形で設けており、伊藤家が豪農であったことを伺い知ることができます。

中央に張り出した式台玄関を見ると、社寺建築で見られる虹梁や蟇股などが見られます。特に、中央部分の懸魚には、狐が描かれるほか、左右の肘木部分に象などが描かれていますが、伊藤家は、江戸期に名主としての役割があり、こうした装飾を必要としていました。

また、式台部分の茅に関しては、外観からは水平に見えますが、近づいてみると、表に張り出しており、茅を何層にもわたり重ねて葺き、これも筑波式の茅葺の大きな特徴となります。

主屋東側には、露地門が付けられていますが、こちらも、正門同様、移築時に新たに設えたものになります。薬医門同様、デザインは日動画廊創設者 長谷川仁氏が担います。

奥の茶室に関しては、星岡窯が建てられた際にはなれとして建てたもので、移築した際に、座敷前の縁側を通じて主屋と接続させました。

≪西側 外観部分≫
西側部分を見ると、北王子魯山人の世界観がフルに堪能でき、一見すると石積み風にした山小屋風の設えになります。
こちらの窓全面には、魯山人が設計したステンドグラスが張られていましたが、移築などによりその殆どが残されていません。(ステンドグラスに関しては後述)

煙突部分は独特なデザインになり、レンガ製になります。
煙突を付ける位置として、中央部分に設けると雨漏りがしてしまうため、雨漏りなどの心配がない、最も最適な場所に付けられました。
一見すると荒唐無稽に思われながらも、実に理にかなったものになります。

≪平面図≫
春風万里荘は、元々が豪農の古民家であったため、伝統的な6つ間仕切りのデザインになります。
魯山人は、図面左側部分の「うまや」などを増改築し、北王子魯山人の正秋感が現れたデザインになりますが、6つ間仕切り部分は、元々あった伊藤家の意匠を大切に使用し、ほぼそのままで使用しました。

【10年前、日動美術館さんの厚意で戴いた物】
≪西側 室内部分≫
ーどま部分ー
どまは、竹スノコ天井が特徴的になっており、かつての伊藤家だった頃の状況を色濃く残しています。
特に、土間側から6つ間仕切りを見ると、武家屋敷のように室直井が連なっています。

ー旧うまや部分ー
西側が魯山人がアレンジした箇所になり、こちらの部屋はかつて厩屋として利用されており何とも言えない北王子魯山人の世界観が広がっています。うまや部分は、リビングルームとして使用され、魯山人がくつろいだり、来客をもてなすために使用されました。

窓側に取り付けられたベンチは、材を名栗を加えたものになり、古木を利用したものになり、横部分はドアの廃材で、魯山人がデザインし直したものになります。

床一面にはケヤキの木口を利用した木レンガが使用されており、粗削りなところが山小屋風になっています。
木口は最も擦り減らない固い部分になり、摺れて年輪の木目が出ることにより、滑り止めにもなりました。

左側を見ると、民芸の範疇を超え、まるで縄文時代の遺跡と見間違えてしまうようなな暖炉が取り付けられ、こちらも魯山人がデザインしたものになります。
暖炉を日本建築の床と仮定すると、中央の曲がった木が床柱になり、右側の棚部分が違い棚となります。

棚部分を見ると、棚の下の棚はそば打ち台を再利用したものになります。
棚を押さえつける部分には象や天狗などをモチーフにしたデザインを使用しています。これは、民芸運動では考えづらい意匠になりますが、魯山人は柳宗悦ら民芸運動家と、一時は行動を共にしますが、やがて袂を分かち、一線を画し独自のオリジナリティを求めることになりました。

うまやの奥側は増築された箇所になり、北鎌倉時代はガラス窓総てにステンドグラスが貼られ、床材に用いた曲がったはマツ材と相まって、独特の世界観が描かれていました。

裏側通路には唯一残ったステンドグラスがあり、そのデザインは荒々しくもあり、何とも形容しがたい無国籍なもので、まさに魯山人の比類なき独創性が描かれています。

ートイレ部分ー
うまや奥側部分の3つの小便器は、魯山人がデザインし、自ら焼いたものになります。竣工当時から水洗になっており、魯山人は自らの作品を、使ってこそ価値が出ると考えており、トイレ部分には、その思想が集約されています。

ー女中室ー
こちらは、かつては女中室として使用推された場所になり、元々は窓ガラスが設けてありませんでしたが、現館長のもと、喫茶室として使用されることになりました。なお、この部分から西側の景観も、隠れたスポットになっています。

ー浴室ー
増築された箇所になり、トイレ同様、芸術作品とも言うべき場所になっており、五右衛門風呂が設えられています。側面のタイルは手焼きの陶板タイルになっており、こちらも魯山人自ら焼いたものになります。

浴室の中でも、特に竹を模した部分は織部焼になっており、織部焼は、天将年間の武将 古田織部の指導により栄えた焼物で、特に魯山人の織部焼は、桃山時代のそれに近いものになっています。
余談ですが、魯山人は、この織部焼で人間国宝になった人物で、自らの作品を惜しみもなく使用しているところに凄みを感じます

≪6つ間仕切り部分≫
ーひろまー
伊藤家時代には、接客空間として用いられた個所で、書院風の長押が回り、非常に天井が高く作られています。伊藤家は、この室内を重要視しており、板戸部分は江戸時代に活躍した絵師 岡本秋暉が描いた「花鳥図」が使用されています。秋暉は鶏の若冲に対し、孔雀の秋暉ともうたわれた人物で、この部屋の特別な糸を伺い知ることができます。

伊藤家がこの室内を重要視した背景には、広間に直接式台玄関が付けられており、換言するなら「玄関の間」としても使用していたことが窺い知れます。

ーなかのまー
なかの間部分から2間続きで座敷になります。
通常だと、なかのま部分に式台が設けられることが多いですが、伊藤家ではひろまに設けています。
また、奥座敷部分との境には、松皮菱の欄間が設けられています。

なかのまの仏壇は総ケヤキ造りになっており、東大寺本堂の屋根組などを模し、上部垂木あたりの箇所には、伊藤家の家紋 「三柏」を打ち込んだ建具が使用されています。ほかにも、地味ながら、透かし彫りなどの超絶技巧を駆使しています。

ーざしきー
違い棚に床柱、書院を付けた正統派の座敷になり、武家屋敷のような設えになっています。
魯山人は、ひろま、なかのまにも言えますが、正統な物には敢えて手を加えないことを美としていたことがよくわかる室内になっています。

ー茶室部分ー
前述のように茶室は離れとして設けられていましたが、現在は、縁側を伝い入ることができます。魯山人は茶室部分を夢境庵と名付けており、待合部分は平床とし、右側には火灯窓を設けた設えとなります

茶室 は、名建築又隠を模したものですが、誘因に比較し、床柱は黒柿の古木を使用し、誰でも入りやすいように、写真右側に貴人口を設けています。

最後に、主屋裏側の二間続きのスペースに行くと、こちらは寝室やなんどになり、竣工当時は家族用スペースとして用いられ、通常、人果たしいらない箇所になります。裏側部分は寺社建築では「方丈」となり、僧侶が修行をするメインスペースに代わります。

2間続きの裏側部分から庭園をのぞむと、主屋裏側になり、枯山水の庭になっています。京都龍安寺の庭園を模したもので、2代目館長 長谷川徳七氏がデザインしたものになります。
先述のように、裏側の部屋(方丈)から眺めると、じつに味わい深い景観になります。

≪編集後記≫
春風万里荘を訪問したのが2019年のこと。
それ以降、自身の病気なども重なり中々更新できませんでしたが、改めて再更新しました。
7年の時を経て、やっと記載できたことに自身としても、やっと本懐を遂げた心境。まだまだ手付かずの邸宅も多く、徐々に更新していけたらと考えています。
