わが心の近代建築Vol.61 旧近藤邸/神奈川県藤沢市
みなさん、こんにちは。
最近投稿が滞っていたこのBLOG…
今回は、神奈川県藤沢市に保存された、旧近藤邸について記載します。
旧近藤邸は藤沢市辻堂に海浜別荘として1925年に竣工します。
なお、施主亡きあと、老朽化が進み解体を目前に、地元主婦らが保存活動を行い、1981年に藤沢市市民会館の前に移築保存されました。
なお、設計者は、遠藤新。
遠藤はライトのもとで建築を学び、近藤邸は、その建築思想が色濃く残されたものになります。
≪辻堂海岸の歴史≫
①江戸期~別荘時代の状況
まず、この邸宅のあった辻堂の歴史について記載すると、もともとは、広大な砂丘地帯でしたが1728年に江戸幕府はこの一帯を相州鉋術調練所に定め、明治 大正期には帝国海軍の演習場になったほか、明治期にはドイツ人医師ベルツにより、海水浴が奨励されると海水浴場としても使用。また、周囲には多くの別荘が造られますが、近藤邸もその中の一つでした。

≪三井トラスト不動産 このまちアーカイブスINDEX 神奈川家藤沢・江の島より転載≫
②戦時中〜在日米軍接収時の状況
しかし、大東亜戦争の激しさを増す1944年には海水浴が禁止。終戦後は在日米軍の演習所に活用されることとなります。なお、米軍は江の島の代名詞のエボシ岩を砲弾演習の標的としたため、その形は大きく変わることとなります。

③現在の状況
接収が終わると日本に返還され、解除後は、団地開発、住宅地開発、公園開発などに充てられ、かつての姿は喪われ、辻堂海岸は海水浴場としても再注目。現在はサーファーの間でも人気地となり、今日に至ります

≪施主 近藤賢二について≫
まず、施主の近藤賢二(1874~1948)について記載すると、兵庫県に生まれ、同志社社に学んだ後、北海道に渡ったのちは教戒師として活動。東京に戻ったのちも霊南坂教会の会員となり、クリスチャンとして活動。後藤新平の秘書官を務めたことをきっかけとして、実業家に転身。語学能力などを買われ、ライジングサン石油(現在の昭和シェル)支配人に僅か26歳で就任し、横濱で活躍。横濱電気鉄道株式会社 常務取締役、東洋電機株式会社 監査役、朝日石綿工業株式会社 社長などを歴任し、地域経済の発展に寄与。この邸宅の施主になったのは51歳、経営者として円熟期になる時期でした。
また、氏は孫にも恵まれ、邸宅は孫がいつでも来れるようにの配慮もされます。

≪設計者 遠藤新≫
一方、設計者の遠藤新(1889~1951)は、福島県新地町に生まれ、東京帝国大学建築学科を卒業ののち、明治神宮造営局に就職後、当時の建築の大家・辰野金吾を批判する文書を書いたのち、渡米。
世界的建築家のフランク・ロイド・ライトに師事し、帝国ホテルのためライトが来日したのにあわせ帰国。
帝国ホテル新館設計のチーフ・アシスタントに抜擢され、ライトが帝国ホテル完成を目前に解雇されたのちは、自らの事務所を東京に開き、役目を引き継いで完成。
旧近藤邸は遠藤新が建築事務所を構えた初期の建物になりますが、ライトの建築思想のプレーリースタイルを色濃く残しています。
なお、施主 近藤賢二と遠藤新のつながりは不明なものの、カトリック信者のネットワークで、近藤氏が羽仁とも子夫妻と知り合い、その過程で遠藤新を知ったのではないか、と推測されます。

≪たてものメモ≫
旧近藤邸
●竣工年:1925年
●設計者:遠藤新
●文化財指定:国指定登録有形文化財
●写真撮影:可
●入館料:無料
●交通アクセス:
JR東海道線 藤沢駅徒歩10分
●参考文献:
・内田青蔵/小野吉彦著 「お屋敷拝見」
・田中禎彦監修 「死ぬまでに生みたい洋館の最高傑作Ⅰ」
・BS朝日放映「百年名家」
・辻堂海岸の歴史はWikipediaを参照
・三井住友トラスト不動産HP このまちアーカイブス 藤沢・江の島
●留意点:
見学の際は藤沢市民会館内 文化芸術課事務局に声掛けする事
≪平面図から辿る≫
平面図からたどると、近藤邸の配置に関してはT字型に配されており、1階左側と下側に和室が配されており、今までの住宅の概念とは違い、双方とも、3方面から採光を図れるようになっています。
また、中央部分に主要な居間兼食堂を配し、邸宅のいたるところにライト直伝の”しかけ”が施されています。

≪外観について≫
①正面部分のデザイン
旧近藤邸は、ライトの建築様式のプレーリー・スタイル(草原の家)を色濃く伝えており、屋根(写真左側)を低く抑え、建物が地面に水平に伸びるように作られています。
辻堂時代は敷地面積が3000坪あったことから、この様式はさらに映えていたと思われます。
また、建物は下見板張りにすることにより、更に水平線を強調。
屋根は当初、栗木羽葺きという栗の木をウロコ状に重ねたものを採用していましたが、現在は新素材のコロニアル葺きを使用しています。

②エントランス部分
なお、玄関部分を見ると、これだけの邸宅でありながら、玄関は非常に小さなものになりますが、この邸宅が海浜別荘建築であることから、格式にとらわれない形式になっています。
窓枠に関しては垂直線と水平線が交わるライト式になり、2階部分が張り出した形状になり、変化をもたらせています。

③バーコラ部分
また、玄関反対側にはL字型にバーコラが配され、窓枠などは水平線と垂直線が交わるライト式のデザインになっており、こちらにも出入り口が設けられていますが、この邸宅が海浜別荘であることから、辻堂時代は、こちら側から海に行ける方式になっていることから、玄関とみることができます。

≪1階部分≫
①玄関周り
近藤邸で様々な意匠が見られるひとつで、まず、土間部分と玄関ホール部分の段差が極めて狭く、ライトが提唱する、建物内と外が連続している空間であることを印象付けています。

また、玄関部分からホールを臨むと、反対側には、玄関部分と同じく幾何学的な扉を配しており、こちらからも出入りできるようになっています。狭い空間ながらも、ライト式の幾何学的なデザインが、所狭しと使用されています。

②1階 居間兼食堂
ホール部分を抜けると居間兼食堂になりますが、玄関部分に比較して、一気に視界が開かれる”仕掛け”が施されています。
柱を壁に埋め込む大壁が採用され、すっきりした印象を与えますが、壁面に細い材でラインを付けることにより、日本建築の長押のような印象を与えています。

また、玄関側から臨むと、左側には赤い造り付けのソファが備え付けられ、奥に段差を設け、10畳の和室が配置。
段差を30cm設けることにより、居間兼食堂にいる人との目線の位置を同じにする狙いがあります

③居間兼食堂 暖炉
また、ライトは暖炉の位置づけを非常に大切にし、メインになる部屋には必ず備えましたが、設計者の遠藤新も家族や来客者が集まる居間兼食堂に設けます。
暖炉は左右対称の大谷石製。
実際に火をくべることができるものになります。両サイドに造り付けの棚と、幾何学的模様の窓枠を設けています。

④居間兼食堂側 10畳和室
先述のように、食堂に連続して、和室が付けられていますが、伝統的な和室とは一線を画し、一度和室の意匠を分解して再構成した造りになっています。
連子格子風の引き違い窓を設け幾何学的デザインにし、押入の隣に床の間をつけ、ひし形風の窓が、ちょうど書院窓になるようにデザインされています

⑤1階 台所側 廊下
次に、玄関より女中室/台所側に向かいますが、設計者の遠藤新は、無機質な廊下というものを非常に嫌う建築家でもあり、ここにも氏の”こだわり”を垣間見ることができます。
幾何学的模様の窓を配し、訪問者の感じる見た目に変化を与え、つぎに何が来るのかの期待感を持たせます。

⑥1階 台所側和室など
台所側和室も、採光に気を配った部屋になり、この建物構造をT字型にすることにより、窓を多く設け、明るくしています。
また、近藤賢二氏には多くの孫がいたためか、和室の概念を壊すかのように、窓部分がちょうどベンチ状になり、腰かけかれるようになっています。
また、いつでも寝ころべるように、の配慮か?
洋間よりも和室の方が都合がよかったとも推測されます。

また、この和室の手前には旧女中室と旧台所がありますが、女中室側には、女中室でありながら、床の間を配したものになっています

女中室の隣には旧台所が構えてあり、3本の細い柱が壁に走り、窓枠部分も他の部分同様、幾何学的なものになっています。

≪階段部分≫
次に、階段部分になりますが、階段部分は非常に狭く作られ、いわば洞窟の中にいるような狭苦しさを感じさせますが、踊り場付近に来ると2階の様子が見え、光が差し、訪問者に2階への期待感を持たせる”しかけ”が付けられています。

≪2階 広縁≫
階段を上ると、一気に視界が広がり、広縁…
というよりも、サンルームとも言うべき状況になっており、1つの廊下を無機質なものではなく、幾何学的な窓も含め、様々な意匠を込めたものにしています。

≪2階 和室≫
①入り口側から臨む
2階和室を、入り口側から臨むと、ライト風の幾何学的模様の窓枠になっており、一方、壁面や天井などは装飾の無い非常にすっきりしたものになります。
右側の窓は窪んでおり、この邸宅に訪問したのが、孫たちが多かったことから、まるで秘密基地のような、妙な安心感を与えています。

②ベンチ側から臨む
また、こちらの部屋では、1階の居間兼食堂と同じく、赤いベンチが付けられ、ベンチの上に足を載せて座り、壁にもたれて本を読むなどの過ごし方ができる仕組みになっています。

≪編集後記≫
遠藤新はFLライトの建築様式を広く日本に浸透させた功績がありながら、徹底的にライト様式を踏襲したためか、”ライトの使徒”とされ、近代建築史的に軽視されてきた時期はありました。
が、換言するならば、ライト自ら”My Son”(我が息子)と言ったことからも、だれよりもライト様式を理解した建築家で、伝統的な和風建築の基本を知りながらも、ライト式にアレンジしてしまうオリジナリティをもった、非常に素晴らしい建築家、と僕は感じてなりません。
