わが心の近代建築Vol.55 矢中の杜(旧矢中龍次郎邸)/茨城県つくば市
みなさん、こんにちわ。
今回は、茨城県つくば市北条にある矢中の杜について記載します。
今回の邸宅はNPO法人「矢中の杜」の「杜人」の方々により維持公開。2023年に貼れて国指定重要文化財に選定された邸宅になり、僕自身にとっても、思い入れ深い邸宅の一つでもあります。
【北条の歴史】
まず、北条について記載すると、筑波山麓にある町で、北条が飛躍的意発展したのは徳川3代将軍・家光が筑波山の中禅寺堂社(現在の筑波山神社)再建のための資材運搬路を整備したことに始まり、この運搬路は「つくば山路」と呼ばれ、参詣道として江戸方面から多くの人が往来。

これにより、北条は門前町の機能を有しつつ、多くの商人や職人が居住。また農産物の一大集散地でもあったため、酒や醬油の醸造、油の製造、木綿の取引などが活発に行われ、大店が誕生。
また、多くの旅籠や日用品販売などの承認待ちが形成され、政治・経済の中心地として発展しました。

また、北条の街は頻繁に大火に襲われますが、文化8年(1811年)の大火以降、防火性能の高い土蔵造りの店蔵が軒を連ね、見事な街並みを形成。現在もそれらは多く残り、様々な活用方法が行われています。

【設計者/施主 矢中龍次郎】
つぎに、今回扱う「矢中の杜」の施主/設計者の矢中龍次郎(1878~1965)に記載します。
矢中龍次郎氏は茨城県北条に生まれ、小学校卒業と同時に上京。
日露戦争時には、近衛歩兵とし出征ののち、1906年に満州にわたり、建築材料の輸入業に従事。
その際、建材はその地区の気候に準じたものを使用することが良いと考え、関東府の援助を得て。大連に私立科学研究所を設立し、セメント防水材の「マノール」を開発。
研究を進める中、セメント防水材は多雨多湿の日本にこそ必要なものと感じ、1921年に油脂化工社(現マノール)を設立。
マノールを軸にし、様々な製品の製造販売を行い、成功をおさめます。

1936年には帝国発明協会から表彰、1955年には紫綬褒章を得ます。龍次郎氏は錦の御旗を地元に飾るという意味で約10年の時をかけ1953年に竣工。周囲からは、「矢中御殿」と呼ばれました。なお、邸宅に関しては、迎賓施設の意味合いも強く、随所に矢中龍次郎開発の建材を多数使用。邸内は、当時の家具類などが多く残り、2011年に国指定登録有形文化財に指定。2023年に日本の気候に配した実験的住宅として。優れた建築意匠から、国指定重要文化財に選定されました。

なお、矢中邸に関わる職人さんに関しては、こちらの法被を着用。
デザインとしてYとAで矢、下の部分で中の字が描かれています。
以前記載した、青梅にある津雲国利邸でもそうでしたが、この法被が地元職人のステータスともなっていました。

【たてものメモ】矢中の杜
●竣工:1953年
●設計者:矢中龍次郎
●文化財指定:国指定重要文化財
●入館料:¥500
●開館日:毎週土曜日11:00〜16:00
●写真撮影:可
●参考文献:
・BS朝日放映「百年名家」
・矢中の杜 展示パネル
・北条地区の歴史については「北条街づくりポータルサイト」を参照
●交通アクセス:
・つくばエキスプレス「つくば」駅より「つくバス小田シャトル」筑波窓口行「北条仲町」停留所より徒歩1分
・JR常磐線「土浦」駅より関東鉄道バス「筑波山口」行「北条仲町」停留所より徒歩1分
●留意点:
バスの本数が極めて少ないため、事前に調べて行かれることを薦めます
【外観について/本館】
まず、本館部分ですが、こちらが後にできたものになり、和風建築をベースとし、和洋折衷を随所に取り入れたものとなっています。外壁に関しては、黄色い独特なものになっていますが、山富貴酸化黄という塗料を使用。

また、北条の街は幾度も大火に襲われたため、西側部分には、龍次郎氏開発の矢中式防火壁を使用しています

【本館 地下室】
矢中の杜は、勾配のある土地に作られており、それを利用し、本館地下には大谷石で囲まれた地下室が設けられており、現在はイベントスペースなど地域住民の憩いの場としても活用していま。

また、奥側を見ると、天井左側を見ると通風口の跡を見る事ができますが、矢中の杜は、龍次郎氏亡き後、だれも住まうことがなかったのですが、龍次郎氏の着物や建材などは無kぃ図に近い状態でした。その理由として、この邸宅が換気に重点を置いたためと言われています。

【平面図】
矢中の杜は、手前側に本館、奥に別館を備えており、もともとは別館の奥には「はなれ」を備えていました。
竣工年としては別館側のほうが先に竣工し、戦後にはGHQを招いたことも伝えられています。
なお、敷地としては、先述のように勾配が付いた土地。
「ウナギの寝床」と呼ばれる奥側に深い構造になっていました。

【本館 玄関部分】
まず玄関部分をい見ると、和洋折衷になっており、土間部分は布目タイルを目地の見えないように配列。
天井は格天井になり、天井を高く作ることにより解放感を与え、壁部部分は昭和期に流行した砂壁としています。
ちなみに扉部分にはケヤキ材を使用。

玄関ホールは4畳半。
天井部分は表玄関の格天井よりもさらに太い格天井になり豪華さを表し、照明部分は折上げ式。
なお、照明部分の折上げ部分、ガラス襖の下側には通気口が設えています。
ちなみに、杉戸絵と衝立は矢中龍次郎氏と入魂の間だった絵師・南部春邦氏の作品となり、杉戸には鶴、衝立表側にはや農作物が描かれています。

なお、衝立反対側には、木の節目を利用し魚を描いています。

【本館 4畳間】
玄関ホールから書斎/居間に繋がる4畳間部分ですが、ホールの鶴の杉戸絵の裏府側はバラやチューリップなどが記載。
矢中邸竣功当時の格式にとらわれない、当時のハイカラな文化を表すような設えになり、こちらも南部春邦氏の作品。

また、諸異才側に繋がる杉戸絵には、猿が描かれています。この杉戸絵に関しても南部春邦氏の作品になります。

なお、こちらの五層窓は雨戸/ガラス戸/カーテン/障子/網戸で構成。空間部分は空気の層を作ることにより、換気の調節機能を高める仕組みになっています。

【本館 書斎】
和風の造りに洋家具を置いた和洋折衷式の部屋構造。
生前、龍次郎氏が最も愛した部屋と言われています。
天井部分の4隅にナナメ材を入れることにより、通常の部屋よりも天井を高く見せ。欄間部分には細かい細工が施されており、この邸宅背㏍説に関わった大工さんの高いスキルを感じさせられます。
障子戸も雪華模様となっており、部屋全体で、秋と冬の意匠になっています

なお、4畳間の猿の絵が描かれた杉戸絵の裏側はススキの絵が描かれ、秋/冬の情景になっています。

【本館 座敷】
書斎の雪華模様の襖を開けると、座敷になります。
この部屋には、主に親しい来客の応接用に利用。襖絵は6枚から成立し、初秋の風景、色づき始めたモミジと小川、白菊が描かれており、その風景に呼応するかのように、床柱は全国的にも非常に珍しいモミジの銘木を使用しています。

また、この部屋のテーブルは掘り炬燵(こたつ)になっており、先述のように、この邸宅は通風に配慮…
つまり夏は良いものの、冬は非常に寒く、ここで暖を取られるようになっています。

【廊下部分】
なお、居間と座敷側は縁側でつながっており、居住部分は、4つ間取り。軒桁は1本の丸太木になっており、居間/座敷とも猫間障子になっており、室内から庭園を愉しめる形になっています。

また、圧巻なのは廊下②からの外観。
窓からは全国各地から銘石を集めて積み上げ、人口の滝を流しました。竣功当時には、この室内から筑波山も臨むこともでき、その景観は圧巻だったといいます。

【本館 居間】
座敷の隣部分は居間になりますが、1964年…
晩年期の龍次郎氏は、この部屋で先の東京五輪を観戦したことが伝えられています。
なお、こちらの部屋の箪笥などには、龍次郎氏の生前の着物類がそのままに残されている…
換言すれば、それだけ通気性に優れた環境であったことの証左になります。

こちらの棚は真中部分が仏間になっており、右側の部屋の木材はサクラ製。棟梁が、若手大工の方のスキル向上のために、一任した個所になり、現在でも、頑強な造りになっています。

龍次郎氏自らオーダーメイドしたもの。
手前部分の観音開きの扉は三面鏡になっており、箪笥の引手を引くと、龍次郎氏が愛用した衣服が、盛前期と同じように収められています。

【本館 廊下①】
玄関ホールから別館にかけ、1本の長い廊下で結ばれており、廊下①の西側には、浴室やキッチンなどのバックヤードになっています。

【本館 女中室】
竣工当時、この邸宅には何人かの使用人がおり、女中部屋は長押(なげし)や畳の縁がないなど、他の部屋に比べ、質素に作られており、畳も頻繁に変えずに済むよう、上部に編まれています。
なお、室内には足踏みのミシンや鏡台など、r当時の生活様式を伺い知ることのできる家具類が多数残されています。

【本館 台所】
こちらは現在でもイベントなどで使用されるため、現代的な設備が置かれてますが、造り付けの棚や電気炊飯器、木製冷蔵庫、ガスオーブンなどの設備も残され、タイル張りの洗い場も特徴の一つになっています。
冷や水を使うため通気に配慮されており、防火のため天井一部が漆喰塗にもなっています。

なお、奥側は炊事場になりますが、矢中邸に多数の訪問者があったときに使用され、地下室同様に大谷石ほ製。
右側の石蔵も大谷石製になっており、主に貯蔵庫として使用されました

【本館 脱衣室/トイレ】
脱衣室は、性格上、通気に配慮された部分になり、真中の部分が頂点になるような仕組みになっています。
天井の通風部分は網代天井になり、折上げ。換気用のスリットや無双窓が取り付けられています。また、洗面部分の腰板部分はタイル張りとなります。

また、トイレ部分は、床面に布目タイルが貼られ、腰板部分はブルーとグリーンのタイルが貼られています。
脱衣場と同じく、折上げ式になっており、上部は網代天井。側面の通風口にはスリットが用いられ、無双窓式になっています。

【別館 外観】
別館部分は本館が居住棟として作られたのに対し、迎賓棟として作られ、1階部分が鉄筋コンクリート造の大谷石張りであるのに対し、2階部分は木造構造。
なお、2階部分が張り出した独特な形状になっており、雨が邸宅にしみこまないように配慮されています。

また、竣工当時は別件の奥に「はなれ」が建てられ、主にトイレなどのバックヤードとして使用。
現在は、空き地になり、建物周囲には庭園が配置されていたことが古写真から伺い知ることができます。

【別館 玄関部分】
こちらの床面も、本館と同じく布目タイルが目地が見えないように市松状に貼られています。
また、右側の扉は、内蔵に入るかのような構造。
かつては、右側ガラス扉から別館に入れる仕組みになっていました。

玄関ホールを見ると、洋の設えながら、床面には畳が敷かれる和の設え。
扉部分は漆塗り。扉枠は幾何学的な模様になり、中国風になっており、昭和初期に流行った意匠がとりくまれています

階段わきにはトイレが設けられ、ガラス部分は時代背景を表すかのように結霜ガラスを使用。
また、床面と腰板には白色のタイルを使用し、壁部分は砂壁になっており、矢中龍次郎氏の財力を表した意匠になっています。

【 別館1階食堂】
玄関ホールを抜けると食堂になり、床面は畳敷きでありながらテーブルが置かれた西洋式になっています。
右側部分の杉戸絵は、本館部分と同じく、矢中龍次郎氏と昵懇の間柄だった南部春邦氏の作品。
長押部分には水墨画が貼られ、北川金鮮作の「全国十二公園図」となり、全国の名園を一望できる様相になっています。

また、左側の造り付けの棚は、サクラ材の一枚板を使用。
サクラ材は湾曲しながら成長する木材のため、まっすぐに育てられ、かつ、これだけ大きなも似は大変貴重な材といえます。

また、照明部分の折上げ箇所にも、通気口が設置され、ただの通気口ではなく、日本古来の青海波模様が設えたものとなります。

【階段部分】
階段に関しては、総ケヤキ造り。さらに漆を塗ったものとなり、非常に豪華な設えとなっています

【2階5畳間】
秋団を上がり、5畳間になりますが、控えの間的なもの以外にも、ここの窓からは、本館屋根部分を飲尾むことができ、この邸宅が、ただ単なる居住棟/迎賓棟以外に、矢中龍次郎氏が開発した製品の紹介棟としての役割も果たしていました。

本館の屋根部分を見ると、「矢中式陸屋根」が見えます。
通常、木造建築において、陸屋根(平たい屋根)を作るのは防水処理上の問題から非常に難しいとされていましたが、矢中龍卯三郎氏が開発した研究効果により、それを可能にしたことを証明した、大変貴重な事例となります。

【別館 2階暖炉のある控室】
この部屋の天井部分は和風的な意匠でありながら、シャンデリアを備え、イスとテーブルが置かれた洋風的な意匠になっています。
また、天井も通常の和室に比較して高く設けられている上、蟻壁も搭載されています。
なお竣工当時は畳の上に絨毯が敷かれ、家具類が置かれていました。

天井部分を見ると、杉板の格天井となり、柾目が縦と横に配され、四隅は斜めに組むことにより、天井の高さをアッピールしています。

また、暖炉部分は竣工当時から電気式ストーブが置かれ、暖炉部分は床の間封的な意匠になっています。
なお、竣工当時の時代背景として、暖炉は「豊かさの象徴」として、デザイン的に用いられました。

また、暖炉上の畳に関しては、上部に2枚の写真が掲げられていますが、昭和大帝と光淳皇后の御真影。
この意味として、矢中龍次郎氏は、お二方の御足もとが寒くならないように、という思いが込められています。

また、この室内の襖には西陣織が貼られ、ガラスを使用。欄間部分には筬欄間(おさらんま)を使用。
大変細かい細工になっており、職人さんのスキルの高さを感じさせられます。

【別館 2階床の間のある応接間】
床のある応接間は、天袋/地袋、床の間、書院を設えた本格的な和室になり、蟻壁を配した高い天井である一方、隣の応接間同様、シャンデリアを用いています。
床の間は1.5mと長く、この邸宅で最も格式高い室内になっています。

なお、床柱は杉材の四方柾という高級材を使用し、床脇部分には、1階食堂の造り付けの棚で使用されたサクラ材を使用しています。

なお、付書院に関しては極めて精巧な組子細工になっており、書院欄間の先には「はなれ」部分が存在しました。

【編集後記】
この邸宅に関しての記載は、過去何度も挑戦するも失敗。
今回やっと、公開することができました。
昭和後期に関東鉄道が廃止され、鉄道網がなく、矢中の杜に関しては素晴らしい邸宅でありながら、深くは知られていない状況。
僕自身、少しでもこんな素晴らしい邸宅を記載できたらと強く感じる次第であります。
