見出し画像

わが心の近代建築Vol.76 水海道風土博物館 坂野家住宅/茨城県常総市

みなさん、こんにちわ。
今回は、茨城県常総市大生郷町にある豪農邸宅、水海道風土博物館 坂野家住宅について記載します.

≪坂野家の歴史≫
まず、大生郷町は鬼怒川沿いにある低湿地帯で、坂野家は、この土地に住み続けて約500年…
当時から、この地方の惣名主的な家柄になり、「伊左衛門どん」「たらんぼ大尽」などと呼ばれていました。
江戸中期に行われた3000町歩(約30㎢)の新田開発では、当主の伊左衛門が地元側責任者の「頭取」に選出され活躍。
また、天保年間(1830~43)には、二宮尊徳が大生郷村の荒地再興の任を帯び、この邸宅に逗留して、農民に農業の仕法を施した記録も残り、明治23(1890)年の「大日本博覧図」の銅版画には、その当時の姿を伝えています

明治23年に描かれた坂野家の銅版画
【邸内展示パネルより転載】

なお、1933年の記録によると、農業規模は小作米で1300俵、小麦で600俵の収穫があり、7人の使用人を抱えていました。
「豪農層の大型住宅の発展過程を知ることができる数少ない例」として、1968年に国指定重要文化財に選定され、1998年に土地と建物を常総市が譲り受け、屋敷前や門前などを銅版画図を基に復元し、2003年から母屋の解体修繕工事が行われ、母屋の形式が整った1838年の姿に戻され、西側の書院に関しては、2023年に国指定重要文化財に選定されました。

≪たてものメモ≫
水海道風土博物館 坂野家住宅
●竣工年:
 ・主屋部分:18世紀前半
 ・座敷棟部分:1839年
 ・書院棟「月波楼」:1920年
 ・文庫蔵:明治初期【推測】
●設計者:ー
●文化財指定:国指定重要文化財
●写真撮影:可(納戸部分は不可)
●入館料:¥300
●交通アクセス:関東鉄道 水海道駅より8km
●参考文献
 ・邸内展示パネル
 ・水海道風土博物館 坂野家住宅解説シート①~④
 ・常総市デジタルミュージアム
など
●留意点:
・交通アクセスにおいては、水海道駅よりタクシーを利用
・建物のほか書画など、秀逸な作品も多く、ボランティアガイドさんのガイドツアーを受けられることを強く薦めます。

≪薬医門について≫
南側を正面として、表門とその附塀を配し、ともに重要文化財に選定されています。
薬医門は安土桃山時代に出現し始め、元来は縄文の一種でした。
主に公家や武家屋敷に使用されたものですが、それが農家の坂野家に建てられたことで、当時の坂野家の役割を知ることができます。

薬医門

≪主屋部分 外観≫
主屋は、幾多の遍歴を経て現在の姿になりますが、正面部分は土間/居住部分、左側を式台部分になり、それぞれの用途に分かれますす。
まず、正面側の居住/土間部分が建てられたのは、約300年前ほどで、現在の形になったのは天保9年(1838)のとき。
左側の座敷部分は、発見された墨書から天保9年(1838)ごろに造られたものと判明しています。

母屋を臨む

また、茅葺に関しては、何層も重ねていく方式で、この地域独特の設えである「筑波式」を採用。
この例としては、ほかにも…
 ・春風万里荘:茨城県笠間市
 ・旧吉田家住宅:千葉県柏市
などでみることができます。

筑波式の茅葺

≪土間部分について≫
「土間」は日本の伝統的な民家建築に多く見られ、農業を生業とした坂野家においては作業場/炊事場として活用。
54坪の面積になり、土間はタタキ(三和土)となり、土に石灰とニガリを混ぜたものを固く叩き締めて仕上げています。
室内は、大きな柱や太い梁で構成され、豪壮な造りは坂野家を象徴したものになります。
室内の天井の形状から、写真右奥う分画像しくされたものと分かります。

土間外観

カマド部分は大小4カ所の火口を持ち、カマドとなり部分には発掘調査で地炉(じろ)を確認されたので、そちらも復元されました。天井部分には砂ずり壁の天井が設えており、屋根などに飛び火して火災が起きるのを防いでいます。

土間/カマド部分

なお、1864年(文久4)の坂野家家相図には、土間部分に厩があったことも確認でき、発掘調査で馬屋と思わしき「掘り込み」も発見され、復元されています。

土間の馬屋部分

≪平面図からみる≫
主屋を見ると、土間部分/居住棟/座敷棟/書院部分に分かれており、土間部分と居住棟に関しては伝統的な「田の字」造りの古民家建築となり、座敷棟に関しては、式台玄関と3つの座敷を。
書院棟に関しては、来客用の建物として、2階建て建築で、母屋とは別に厠と浴室を備えています。

邸宅平面図

≪居住棟について≫
Ⅰ:広間部分

仏間・茶の間・納戸とともに坂野家で最も古い部分にあたり、竣工から300年とも言われています。
広間部分は、「惣名主」としての業務や帳場として使用された14畳の部屋になり、「客間」としても使用されました。
鴨居と敷居を設け板戸で東西を8畳と6畳に分けて使用することができます。

主屋 広間部分

広間南には無双連子(むそうれんじ)の蔀戸(しとみど)が設けられ、その上を欄間としています。
蔀戸は、平安期の寝殿造建築でも多く使用されたもので、坂野家住宅では蔀戸と欄間で、採光と通風対策が施されています。

広間の蔀戸

Ⅱ:茶の間部分
茶の間は、14畳あり、家人の生活空間として使用されました。
復元工事前は、畳を敷き、掘りごたつを置いて使用していましたが、工事の際に畳を上げたところ、柱や敷居に残された煤の付着などから、かつては板敷きであったと考えられ、根太や天井の構造から、囲炉裏が切られていたことも判明。
復元に際しては調査結果を踏まえて板敷で囲炉裏を切った間取りに戻されました

主屋 茶の間部分

Ⅲ:仏間部分
こちらも、坂野家で夫も古い箇所となり、仏間以外に客間としても使用されました。
かつて仏壇には、江戸前期の1653年(承応2年)から16代にわたる位牌が並べられ、坂野家の家柄の古さを偲ばせていました。おもや

主屋 仏間部分

なお、床の間に掲げられている書は、12代目当主・坂野行斎が古希を迎えた際に記載したのもの。
「あっという間に歳月が過ぎて、物事が悠々と進み、優れた人が皆、この世を去ってm、役に立たないまま70年をむかえた」 
と記載しています。
行斎氏は詩歌に優れた人物で、書院棟に様々な方を招き交流を続けました。

12代目当主 行斎書「七元絶句」

≪座敷棟部分≫
Ⅰ:式台玄関
式台は、玄関先に設けた一段低い板敷で来客を迎えるところで、坂野家は幕府役人が逗留する、謂わば出張所的な側面もあり、農家でありながら、武家屋敷にみられる薬医門や式台玄関を持つことを赦されました。
なお、こちらの玄関は幕府らが使用するため、家人はおろか、主人ですら日常時には使用しませんでした。
座敷棟は式台玄関と、3つの座敷を持ち、それぞれの性格に併せて使用。右側の玄関は内玄関にあたり、来賓者の従者用の玄関として使用されました。

座敷棟/式台玄関

Ⅱ:3の間
他の座敷部分と比較しても天井は低く、特別な意匠もみられない部屋になっており、主屋棟の仏間と壁でつながり、Ⅰで記載した内玄関部分に直結していることから、幕府役人の従者の方の控室と考えられます。

座敷棟/3の間

Ⅲ:2の間
こちらは式台玄関かに直結した部屋になり、3の間と違い手mン条部分は高く、長押は2重に回され、床の間ヴが配されるなど、3の間に比べ、明らかに格式が高い造りになっている一方、正式な座敷とは違い、床脇が違い棚ではなく押し入れになっている点、書院がないことから、1の間の「次の間」的なものとして使用されたことが推測されます。

座敷棟/2の間

こちらから欄間部分を覗くと、もともとは坂野家の家紋である蔦をモチーフにしたものでしたが、左側部分は蔦の葉が落ちた状況になりますが…
現れたのは16弁の菊の花。
これは、天皇陛下の家紋を著し、あまりにも恐れ多いから、蔦の葉のモチーフで隠したものと推測されます。

座敷棟/2の間から欄間を臨む

なお、2の間の床に飾られている書は11代目当主  坂野耕雨によるもの。
安政5年に自邸 書院棟「月波楼」で催された観蓮会での自詠漢詩幅になり概要を記載すると...
「博識の雲帆に対し、自身は見識が狭く、雲帆の包容に接してきた二十数年間に感謝する。また、ともに金石などの学に勤しむが、何事も隠さない兄弟の洋であり、互いに真心をもって直言する。灰を重ねつつ詩を吟ずるが、これを理解してくれるのは桂園のみである」と記載されています。
漢詩人の真中雲帆、秋葉桂園に充てて記載したものになります。

11代目当主 坂野耕雨
「次韵和間中雲帆見寄之作」詩

Ⅳ:1の間
中庭に面し、高い天井と二重に回された長押、本格的な床の間に床脇には天袋と違い棚を備え、坂野家で最も格式の高い客間になります。この部分は、坂野家を訪問した幕府役人の方など、特別な方の貴賓所となります。
この邸宅から、惣名主としての坂野家の格式と役割を伺い知ることができます。
また、床の間に飾られた掛け軸は、奥原晴湖の蘆雁図となります。

座敷棟 1の間

1の間には、藤田東湖が書いた書簡が遺されていますが、11代当主 坂野耕雨とはともに梁川星厳のもとで学んだ間柄。
藤田東湖が江戸藩邸で蟄居した際には折に触れて援助した間柄になります。

藤田東湖の書簡

また、1の間と渡り廊下で、書院棟「月波楼」とつながり、現在の「月波楼」は2代目で、初代は幕末期に造られ、特に11代目 耕雨、12代目 行斎の時には、周辺地域や江戸から数多くの文人 墨客が訪問して、多数の書画を遺していきました。
なお、初代「月波楼」は、明治23年の銅版画にも遺されています。

座敷棟と書院棟「月波楼」をつなげる太鼓橋

≪書院棟  月波楼【2代目】≫
Ⅰ:外観について

こちらは2023年に重要文化財に選定された箇所になります。
1998年に行われた半解体工事から発見された棟札から1920年に大口村(坂東市大口)の棟梁の手で設計されたことが判明。
現在の建物は2代目になり、近代和風建築の名作として知られ、初代 「月波楼」同様数多くの方が来訪します。

書院「月波楼」【2代目】

己真美面から臨むと、2階部分には垂木が載せられ、1階部分、2階部分とも当時ではモダンだったガラス戸を使用して採光に配慮。
1階、2階ともそれぞれ、次の間と座敷を配しており、2階の窓上には巻取り式の日除けが備えられています。

書院「月波楼」 南面を臨む

Ⅱ:1階 次の間について
1階次の間は、10畳間から成立。
ヒノキ材による造作がなされ、欄間は伝統的な「組子欄間」が配されており、この邸宅部分に関わった職人さんのスキルを堪能することができます。

1階 次の間部分

なお、こちらにはいくつかの書が遺されており、こちらの書は「幕末の3舟」の一人として有名な高橋泥舟の扁額。
縦52cm、横135cmのもので、、楼号「吾妻楼」と記載されていますが、どこの楼化は判明していません。

書斎棟「月波楼」/1階次の間
高橋泥舟書「吾妻楼」

こちらの書は水海道出身の名主 秋葉桂園の扁額になりますが、名主以外に書画に精通した人物をしても知られ、氏のもとにも多くの文人墨客が訪問。
また、勤皇思想も持ち、幕末期の志士 吉田松陰、頼三樹さぬ楼寮人も桂園のもとを訪問したことが伝えられています。

書斎棟「月波楼」/1階次の間
秋葉桂園の扁額

同じく、こちらの書は高橋泥舟と同じく「幕末の3舟」として知られる、幕臣 勝鱗太郎の書になります。

書斎棟「月波楼」/1階次の間
勝海舟 書「五言書」

Ⅲ:1階 座敷部分
こちらも10畳間から成立。
中心部分に床の間を備え、左右に違い棚、右側には天袋、左側には地袋を備え、床板にはケヤキの1枚板を使用し、床柱と框に関しては黒柿を使用した設えになっています。

1階 座敷部分

また、床の間に飾られた書は、こちらも「幕末の3舟」の一角、山岡鉄舟の作品になり、鉄舟が茨城県の初代県知事(参事)に就任した際に求めたもので、この時に11代 耕雨は没していたので、12代行斎が求めたものになります。

書斎棟「月波楼」/1階座敷
山岡鉄舟書「七言二句」

付書院を見ると、タモの木の玉杢を使用し、書院障子部分には、氏欄間部分同様、細かい「組子細工」が施されており、書院欄間には鳳凰が描かれており、地袋には水墨山水画がえがかれています。

書斎棟「月波楼」/1階座敷
付書院部分

Ⅳ:南面廊下部分
1階南面廊下を見ると、軒桁には太い絞り丸太を使用し、天井部分には垂木に繋がる竿縁天井になります。
また、廊下全面にガラス窓を使用していることから、この当時のガラス窓は、大変貴重なもので、坂野家の財力を垣間見ることができます。

1階南側廊下 天井

Ⅴ:浴室部分
「月波楼」の浴室部分は、天井部分を見ると、中心部から放射状に梁が回り、左側に見えるガラス戸部分には、細かい装飾がなされているほか、床部分にはタイルを使用。
この当時、タイルはモダンな建材で、ここからも、坂野家の財力を伺い知ることができます。

書斎棟「月波楼」1階 浴室

≪2階部分≫
Ⅰ:2階次の間

2階部分は、1階と同様、南面と北面に廊下を配し、そこに付けられた手すりなどに近代和風建築の粋を見る事ができます。
こちらの部分の襖絵に関しては、川村雨谷氏の作品になり、1階同様、欄間は組子細工が施された設えになります。

2階次の間

Ⅱ:2階 座敷部分
2階次の間と同様、10畳の座敷となります。
右側に床の間と付書院を配し、左側に床脇…
違い棚と天袋を配しており、床柱は柾目の四方柾を使用しています。また、掛軸に関しては鷲津穀堂氏の作品になります。

2階 座敷部分

2階南側廊下を見ると、垂木下部分下には、巻き上げ式の日除けがあり、1階部分同様、竣工当時のガラス窓が設けられています。
書院棟は、伝統的な和風建築でありながら、当時ではモダンな建材を多く取り入れています。

2階南側廊下【常総市デジタルミュージアムより転載】

≪文庫蔵≫
2階北側部分から見下ろすと文庫蔵がありますが、竣工年は定かではないものの、1864年(文久4年)の図面には描かれておらず、荷揚げ記録の墨書から鬼怒川を経て水海道に入った木材であるものの、釘の形状などから、およそ明治初期のものと推測されます。
土蔵造り2階建ての建造物で、「貴重品倉庫」として、「月波楼」で製作された作品のほか、文献や文書などを保管していました。

文庫蔵

≪編集後記≫
自身がこの邸宅を知ったのは、たまたまネット検索をしていた際に、偶然目に入り、訪問時はあまり期待していませんでしたが、建築としての美しささることながら、「幕末の3舟」の作品。
また、この建物が豪農の邸宅としてのみではなく、幕末期~明治期の文化サロンとしての役割も果たしていたことに、驚愕しました。
全国にはまだまだ多くの建築物があり、どんどん記載していきたいと感じます。

いいなと思ったら応援しよう!