わが心の近代建築Vol.100 旧岩崎邸庭園/東京都台東区
みなさん、こんにちわ。
この弱小アカウントも、いよいよ100棟を迎えることができましたが、今回は、キリ番としてどこにしようと考えておりましたが、旧岩崎邸庭園の建築群について記載していきます。
≪旧岩崎邸庭園の歴史≫
❏江戸期の歴史
まず旧岩崎邸庭園は、天正18(1590)年に徳川四天王の榊原康正が徳川家康よりこの地を拝領したことに始まります。
榊原家は、江戸中期には越後高田藩 榊原家中屋敷として活用します。

【邸内展示パネルより転載】
❏明治期の歴史
明治初期、旧舞鶴藩主の牧野弼成邸になったのち、1878年に三菱財閥の初代、岩崎彌太郎にが購入し、長男の岩崎久彌に譲渡されます。当初は、和風庭園でしたが、ジョイサイア・コンドルにより和洋が混在した芝庭庭園に改造されます。
敷地面積は、現在の春日通りにまで達する、非常に広大なもので、関東大震災時には半年間、周囲の人に土地が貸し出されました。

【邸内展示パネルより転載】
❏戦後から現代へ
太平洋戦争終結後、邸宅はGHQにより接収されました。その後、GHQの政策により財閥家族へ課された重い財産税のため。岩崎久彌はこの邸宅を手放し、千葉県富里に移住しました。接収完了後、邸宅は最高裁判所の所有になり、敷地は縮小され、芝庭の景観も失われました。
また、1969年には司法研修所設計のため、和館部分の大多数が解体され、敷地面積も当初の⅓まで減少します。
なお、1994年に司法研修所が移転したのを機にこの邸宅は文化庁に管轄が移り、2003年より一般公開されます。

【邸内展示パネルより転載】
≪洋館設計者 ジョサイア・コンドル≫
コンドル(1852~1920)は、イギリス生まれの建築家で、わずか24歳で「お雇い外国人」第一号として来日します。
工部省営繕局顧問、工部大学校造家課程(現在の東京大学工学部建築学科)の教師として教鞭を執り、辰野金吾をはじめ、片山東熊、曽根達蔵ら、後の建築界を担う人物を育成し、鹿鳴館の設計を行います。

【Wikipediaより転載】
辰野金吾の英国留学帰国後、その立場を譲り、幾度の職を経て三菱顧問に就任し、数多くの建築を遺します。
また、イギリス本国では、建築家としてよりも、日本文化の研究家として知られ、1893年には、自身の邸宅に日本舞踊を教えに来ていた前波くめと結婚します。
1920年にコンドルは病に侵されますが、くめは献身的な介護を行うも、先に天逝。コンドルは、その僅か10日後に、くめを追いかけるように永遠の船出に出航します。

≪施主 岩崎久彌≫
岩崎久彌(1865~1955)は、三菱財閥の創始者・岩崎彌太郎の長男として生まれ、1885年に彌太郎が天逝し、三菱財閥は、彌太郎の弟・彌之助に譲られます。
久彌は、慶應義塾から米国へ留学し、叔父の彌之助が50歳で引退したのちに、1894年に三菱財閥の3代目に就任します。
1896年には男爵に叙せられ、1916年に甥の小彌太氏に社長の座を譲ります。また、1923年の関東大震災では自宅庭園を罹災者の方に半年間開放します。1924年には東洋文庫の設立、1938年には清澄庭園/六義園を東京市に寄付するなどの社会活動にも尽力。終戦後は、財閥解体に伴い、三菱傘下の全役職を辞任し、千葉県富里の末廣農場で過ごし、1955年、眠るように大往生を遂げます。

【邸内展示パネルより転載】
≪たてものメモ≫
旧岩崎邸庭園
●竣工年:1896年
●設計者:
・(洋館部分/撞球室)ジョサイア・コンドル
・(和館部分)大河喜十郎
●文化財指定:国指定重要文化財
●入館料:¥400
●休館日:年末年始
●写真撮影:平日のみ可(階段部分は安全配慮のため禁止)
●交通アクセス:
・東京メトロ千代田線「湯島」駅より徒歩約3分
・JR線「御徒町」駅より徒歩15分
●参考文献:
・邸内展示パネル
・公益財団法人 東京都公園協会ビデオ「日本の近代建築の夜明け〜旧岩崎邸庭園」
など
≪正門部分など≫
❏煉瓦塀
まず、正門前にある塀ですが、当初はレンガ塀ではなく煉瓦積黒漆喰塗り仕上げの塀で桟瓦葺き。
黒漆喰塗は耐水性と防火性に優れ、商家などに多数使用。
旧岩崎邸庭園では耐震補強工事時に発見されたものを使用し、左側部分に復原されています。

❏袖壁
袖壁は、防火や目隠しなどのプライベートを護るために設けられたもので、中央の神殿形式のペディメントの下には、岩崎家の家紋、「三階菱」が描かれています。
なお、岩崎家の家紋と、岩崎彌太郎の出である土佐山内家の「三つ柏」を合わせて。現在にも伝わる三菱スリーダイヤのマークになります。


【邸内展示パネルより転載】
≪洋館部分について≫
ー外観についてー
❏正面部分
洋館部分は、ジャコビアン様式になっています。
設計者のコンドルは左右対称を崩すことを得意としていましたが、彼の作品の中でも、大胆に崩した形になります。
ジャコビアン様式は、中世ゴシック建築〜近世ルネッサンス様式の過渡期に現れた建築様式になり、軒周りや塔屋部分などにみられる革紐を組み合わせた装飾が特徴です。

ルネッサンス的な部分として、建物に柱を付けている点や窓上部に三角やね(ペディメント)があります。また、柱に付けられたよせむね屋根を上から見た四角いデザインの装飾、窓の下の不思議なデザインなどはジャコビアン様式独自のものとなります

同じように、2階部分になると、1階窓枠と同じく、上部にペディメントが就くほか、柱部分にはさらに細かい装飾がなされており、こちらもルネッサンス様式では見られないデザインとなります。

ゴシック的な部分として、建物の中でひときわ存在感を出している塔屋部分が挙げられますが、その一方、窓の両側に窪んだ部分(ニッチ)はルネッサンス様式で流行したものとなります

❏側面側から臨む
1階部分と2階部分のデザインが違っていますが、1階部分はのちの増改築により設けられたもので、もともとはベランダ風の設えとなります。この部分は邸内から見ると、竣工当時の姿がよくわかります。現在、こちらの部分はサンルーム的なものとなっています。

❏ベランダ側から臨む
ジョサイア・コンドルが設計した特徴に、ベランダ部分を1階と2階に重ねる、というものがありますが、洋館部分もその例にもれず…
・1階部分:トスカナ式列柱
・2階部分:イオニア式列柱
になっており、外観に変化を与えています。

屋根部分は屋根裏部屋用のドーマー窓が取り付けられるほか、屋根上部にはパラメットと呼ばれる屋根の外周部分の縁を設け、その上にグリーンの装飾の付いた鉄柵を設けています。
また、納屋周りにはピナクルと呼ばれる中世建築の屋根や棟に設けられる槍のような装飾が設けられています。
こうしたゴシック的な装飾も、ジャコビアン様式の特徴の一つとも言えます。

ー平面図ー
南面にベランダを置き、洋館部分は1階が食堂や客室などのパブリック・スペースとし、2階は主に寝室や集会場などのゆらーべーとルームが置かれました。
和館とは渡り廊下を通じて行き来ができ、撞球室(ビリヤード場)とはトンネルを通じ、地下室から行き来ができるようになっていました。
なお、料理などは、洋館の地階で行われましたが、GHQに接収された際には、情報機関「キャノン機関」の収容施設が置かれました。

【邸内展示パネルより転載】
ー洋館1階部分についてー
❏玄関部分
こちらのステンドグラスは、竣工当時からのもので、特に晩秋には、目の前にある銀杏の木が色づくと、ステンドグラスとのコントラストはこの邸宅最大の魅力になります。
床面のタイルは、目地のないものが使用されており、ミントン社製に物になります。

❏玄関ホール
写真右側には、暖炉がつけられています。
岩崎邸庭園洋館の特徴として、各部屋とも暖炉は違う形のものが搭載されていました。また、暖炉とは別に、様々な部分にラジエーターも搭載されており、地下室のボイラー室で暖めていました。
なお、邸内全体的に暗い印象を与えますが、明治期の西洋館はこの程度の明るさだったと言われています。

❏学習室
本年度6月より公開された部屋になります。
ホールの反対側にあり、書生部屋、または学習室と呼ばれ、家庭教師などを招いて、子どもたちの勉強尾などを教えていた場所になります。
なお、その中には、日本最初の助手留学生のひとり、津田梅子(1864~1929)もおり、久彌夫人寧子(しずこ)は教師と教え子の間柄であったため、岩崎家に家庭教師として迎えられました。
なお、津田梅子が津田塾大学を設営する際には、施主の岩崎久彌が多くの経済支援をした記録も残されています。

❏ホール部分
鹿鳴館時代を髣髴とさせる場所で、天井の衣装や床の木組、暖炉の設えなど、随所に手の込んだデザインとなります。暖炉は重厚な石製になり、周囲をビクトリアンタイルで囲み、上につけられた大鏡はフランス製になります。

階段部分は吹き抜けになり、今までのの本建築では見られなかったものとなります。ホールにある双子柱は、上部にお皿が載ったような形のドリス式になり、化粧柱にも革紐を合わせたようなジャコビアン風の装飾がつけられ、左側には玄関ホール同様、スチームが取り付けています。

❏大食堂
来客時の食堂として活用されました。岩崎家では通常の食事は、和館の食堂を使用し、大きなイベントなどに、この部屋を活用して、賓客をもてなしました。
天井部分は大きな梁を露出させ。、腰板部分には木製パネルを貼り付け、重厚な室内にしています。
その他、海外留学のある久彌から、子どもたちが西洋式のテーブルマナーを習う際などにも用いられました。

暖炉部分を見ると、こちらにもベランダに向かって大鏡が付けられ、当時の照明の補助として、ベランダからの光を反射させています。大鏡を囲む木枠は、細やかな彫刻がされており、アーカンサス(葉アザミ)なども描かれています。

右側奥の扉は、扉の向こう側には配膳室が置かれ、上と下が別々に開けることができ、給仕人たちは、上部で覗きながらパーティーや食事の進み具合で料理を提供しました。

また、大食堂の床板には、サクラ、カシ、ケヤキ以外に、現在では入手困難な、唐木三大銘木の紫檀と黒檀を用いています。

❏客室
導線的にサンルームと夫人客室、大食堂に繋がる部屋で、大食堂に比較すると軽やかな室内になります。天井部分には日本製のシルクが貼られており、客室などに使用されました。

なお、腰らの床板に関しては、大食堂と異なるデザインとなり、カシ、ケヤキ、クワ以外に、大食堂同様、現在では入手困難な唐木三大銘木の紫檀と黒檀が使用されています。

❏ベランダ
ベランダの列柱はトスカナ様式の列柱が供えられ、床面はビクトリアン・タイルが一面に敷き詰められています。
近年になり、このタイルが、ロンドンのウェストミンスター国会議事堂や、米国ワシントンの国会議事堂などでも使用されたミントン社製のものと判明しましたが、ミントン社製のタイルが個人邸宅で使用される例は世界的に見ても極めて稀有な存在になります。

❏婦人客室
書斎同様天井が非常に高く設けてあり、設計者コンドルが好んで用いたイスラム風意匠が採用。
コンドルは東洋趣味を表すために、イスラム風の要素を使うことが多く、この部屋は婦人用の客室に使用され、エキゾチックさを感じさせるデザインになります。

こちらの暖炉は大理石製となり、先がとがったアーチは、イスラム様式独特のオジーアーチと呼ばれるもので、ネギの花状の曲線を採り入れています。

床部分は、他の部屋と異なるデザインで、カシ、ケヤキ、クワ、そして、唐木三大銘木の黒檀を用いており、こちらも寄木細工になっています。

天井部分は花鳥模様の刺繍がつけられ、オリジナルの形になっています。図柄のモチーフは、小鳥やアーカンサスの葉をあしらったバラの花束、大輪の菊花の2つが描かれています。修理のため天井から外したところ裏面には、退色していない鮮やかな刺繍が残っていました。

扉部分は、左右のコーナーのスクリーンの花弁型アーチと、扉上部のユニークなアーチがつけられ、こちらもイスラム様式が用いられています。
コンドルは、鹿鳴館などでもイスラム様式を好んで使い、ヨーロッパではイスラムはタバコをイメージしていたため、シガールームとして予定していた可能性もあります。ま

書斎
接収前は、革のソファーが並び、周囲の書棚には洋書が陳列していました。
写真右側の2連アーチが特徴的になっています。
施主の久彌は、海外留学をしていたためか、この部屋を気に入り、書物を読むほか、三菱財閥の幹部との打ち合わせなどに使用しました。

こちらの本棚は、ハワード&サンズ社製のものになります。
同社はビクトリア朝時代の優れた家具メーカーとして知られ、同社の製品は「椅子のロールスロイス」と呼ばれていました。
本邸がGHQに接収される前に岩崎小彌太の熱海別邸に移されたものになります。

天井部分は、格子を組み合わせた幾何学的な模様になります。その間に植物模様の装飾がなされるなど、重厚な中にも繊細さを兼ね備えたものとなっています。

なお、書斎部分の寄木に関しては、サクラ、カシ、ケヤキを使用した寄木張りになります。

❏サンルーム
外観部分にも記載しましたが、こちらは明治後期に増築された箇所になり、室内から台形に角度を持って張り出したベイウィンドウになります。
館内には暖炉やスチーム暖房が付けられていますが、竣工当時の暖房では補いきれず、サンルームでそれをサポートしていました。

ー階段部分ー
❏1階部分から臨む
階段は3つ折りの支柱がないもので、この階段デザインも、他のコンドル建築にも多く見られるものになります。
階段にはアーカンサス風の花模様で装飾された手すりがつけられています。下側に向かう階段は、キッチンなどのバックヤードに行くもので、螺旋階段となります。

❏2階部分から臨む
右階段室天井を見ると、格子状の交点に円を配した幾何学模様。円の中には花柄の彫り物装飾があります。
こちらの大窓からの光が室内を照らし、1階ホールの鏡から反射させる仕組みになっています。なお、1階同様、柱部分は双子柱となり、こちらの柱は頂部に渦巻き型の模様がつくイオニア式となります。

ー2階部分についてー
❏ホール部分
2階は寝室や集会所などのプライベート施設になります。
1階部分同様、天井部分は1階部分と同じく格子状の交点に中央部分には菱形の中に装飾が付けられています。
なお、こちらの暖炉においては、プライベート空間という事もあり1階部分より簡素化されています。

❏北側控室
2025年より公開された部屋。
こちらは、どのような用途で使用されたかは文献がないため不明になりますが、カーテンレールなどが付き、窓からは旧岩崎邸庭園 洋館の大イチョウを臨むことができます。なお、現在は控室と呼ばれています。

❏北側客室Ⅱ
2階の各室で玄関側の撞球室(ビリヤード室)脇にある客室になります。
かつては、2階部分はすべて金唐革紙(後述)の壁紙が敷かれていましたが、GHQに接収された際にペンキを塗られ、家具類が持ち帰られてしまったため、現状の状態にります。

❏夫人寝室
1階の婦人客室の上にある部屋になります。
装飾的には、天井部分が木目の格子状になるなど、1階より簡素化され、西洋の古典的な様式が取り入れられてはいますが、隅のコーナースクリーンや、壁紙などにイスラム様式を基調としています。

❏金唐革紙の客室
隣側の婦人客室と扉でつながったコネクティング・ルームになります。ベランダに面し、部屋には竣工当時のデザインを復元し、金唐革紙が貼られています。
金唐革紙はヨーロッパで生まれた技法で、革に金を箔押ししたものでしたが、日本では和紙に金を箔押しし、明治期のヨーロッパで大変注目されました。昔は多くの洋館に使用されましたが、現在は国会議事堂、長野県岡谷市の旧林家住宅など、数件しか残されていません。

❏集会室
1階大食堂の上に位置し、この部屋は、家族用の団欒室として、また、来客者との談話室に使用されました。
2階はプライベートルームは設けられていたものの、リビングルームが設けられてはおらず、この部屋が用いられました。

大鏡部分を見ると、中央部分にペディメントがあしらわれていますが、この鏡で旧岩崎邸庭園洋館で謎の箇所になりますが、ペディメントの両端を支える左右の列柱風の装飾の先端部分は、90°ずれていています。

❏ベランダ
ベランダは1階と異なり、イオニア式列柱を採用しています。コンドルはベランダを重ねて置き、それぞれの柱を異なった様式にする特徴がありました。また、床部分はタイルは敷かれず、木目になっています。

❏トイレ
竣工当時そのままの水洗式トイレで、機構そのものは現代の方式と同様です。便器、洗面台のボールに英国の陶器メーカー「ドルトン」社名と同社工場のひとつ「ペーズリー&パリ」工場名が残されていますが、「ドルトン」社は、現在、世界的陶器メーカーの1つとして知られる「ロイヤル・ドルトン」社です。

≪和館部分≫
❏渡り廊下
洋館と和館をつなぐ渡り廊下は、洋館の天井に比べ、急に低くなります。和館部分は、岩崎家が通常の生活をするために用いられ、現在は、その一部が残されています。

渡り廊下部分からは、中庭を臨むことができ、非常に大きな沓脱石と手水鉢を目にすることができます。
ここだけでも、かつての和館がいかに贅を尽くしたかを伺い知ることができます。

和館に入る、渡り廊下は舟底天井となります。また、天井部分の中心にある柱は、1本もので、現在では、ここまでの材木を入手するのは非常に困難なものとなります。

❏大広間
入側部分は大広間の庭園に面した廊下となり、天井板は長さ15~16mほどの現代では入手困難な銘木が使用されています。、入側は近代和風建築で多く使用されるようになります。

大広間部分は、岩崎家の冠婚葬祭に使用された箇所になります。
書院部分は平書院で、違い棚は鳥居棚にし、長押や鴨居、天井板などには、ヒノキや杉のタイbの九月以下われるなどしました。
また、床の間に描かれた富士山の絵は、橋本雅邦によるものとなります。

平書院部分には、「菱門」の組子になります。これは、岩崎家の家紋「3つ重ね菱」をモチーフにしたデザインになります。
非常に細かい細工がされており、岩崎家に関わった大工の方のスキルの高さを伺い知ることができます。

和館は現在、大広間部分のみ遺されていますが、和館の設計は当時最高峰の棟梁と謳われた大河喜十郎氏になりますが㎡、軒先は柱がない状態なのに長くとられており、大河喜十郎氏はじめ、この邸宅に関わった大工の方々のスキルの高さが現れています。
なお、もし現存されていたら、洋館部分よりも文化的価値が高かったと言われています。

≪地下室部分≫
❏地階
大階段の螺旋秋団を下ると、バックヤードとしての地階と撞球室までの通路があります。
地階部分は洋館の地上部と同じ広さがあり、スチームストーブ用のボイラー室や調理室、倉庫、使用人部屋などがおかれ、れんがの積み方は、イギリス積みとなっています。
こちらは、戦後の一時代、「キャノン機関」の収容所が置かれた歴史があります。

【邸内展示パネルより転載】
❏地下通路
撞球室までは地下室で繋がり、天井部分は、ボールド天井になります。通路は白い焼き付けタイルが全面に貼られ、天井部分は、明り取り用のガラスが嵌められています。
通常、撞球室は、邸内に設けられましたが、岩崎邸庭園では離れに設けられ、この部分は、撞球室に訪問する方が雨に濡れないためにの配慮で設けられました

【邸内展示パネルより転載】
≪撞球室≫
❏内部について
|撞球室《どうきゅうしつ》(ビリヤード場)は、天井部分は、装飾があまりなく、柱を直接見せるキングポストトラス構造となり、暖炉部分も洋館のそれとは違い、モダニズム的なアールヌーボーとなります。
ビリヤード場は、紳士たちの社交場となっていました

❏外観
設計者のコンドルは撞球室をスイスの山小屋風と記しています。屋根はシンプルな切妻造りでスレート葺きとなります。
切妻屋根の上にもう一つ、切妻屋根が刺さるように載る形式になり、うろこ状の装飾が付けられていますが、これはシングルと呼ばれるもので、ログハウス風の造りで、日本建築の校倉造にも似た雰囲気になります。

≪編集後記≫
このnoteも、そもそもは、双極性障害で自殺未遂を3回やらかしましたが、生きがいを見つけるためと、タイピング能力の勉強のために始めましたが、最近になって、自身、生きる意義と夢を発見しました。
途中、何度か、事実無根の謂れのない事を言われたりして、窮地に立たされ、何度も鬱病を発症し、この記載どころか、人生そのものを辞めようか考えていましたが、なんだかんだ続けていて、心底よかったと感じる次第です。
今後の予定として、新規投稿を定期的に行いつつ、今までのものを、加筆修正していければと考えております。
よろしくお願いします。
