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わが心の近代建築Vol.77 旧華頂宮邸/神奈川県鎌倉市

みなさん、こんにちわ!!
今回は、5月16.17日に公開された旧華頂宮邸について記載しますが、この邸宅に関しては、宮廷建築であるものの、華頂宮家が住んだのはほんの数年で、戦前期には華頂宮家の手を離れて他の所有者に売却された状況。
そのため、どの部屋がどのように使用されたか?照明などの製造時期の特定などの証言がないものの、デザインなどに非常に凝ったものになっているので、その状況について記載します。

≪宅間が谷について≫
山の尾根に挟まれた谷あいのことを「谷戸(やと)」といますが、旧華頂宮邸は、竹林で高名な報国寺のある宅間が谷(たくまがやつ)の奥にあります。
宅間が谷の由来として、この界隈には平安~南北朝時代に続いた宅間派という絵師・絵仏師の芸術家集団が拠点としていたことから、そう呼ばれました。
なお、近代では川端康成や林房雄といった多くの鎌倉文士がこの地に住みました。

報国寺本堂部分【Wikipediaより転載】

≪施主 華頂博信氏について≫
華頂博信(1905~1970)は伏見宮家に生まれ、1
1926年に皇室離脱し、閑院宮華子と結婚。
華頂の姓と侯爵の地位を授けられますが、華頂という姓は、1924年に断絶した華頂宮家から得たものになります。
1935年からは貴族院議員を勤めるほか、海軍軍人としても活躍。兄弟たちが病戦死するなか、華頂博信は父 伏見宮家博恭王とともに戦後まで生き延び、1946年に貴族院を辞任して公職追放、1951年に妻 華子と離婚ののち再婚し、渡米して心理学の研究を行います。

施主 華頂博信【Wikipediaより転載】

≪華頂宮邸の歴史≫
この邸宅が建てられた時には、華頂博信氏は既に、臣籍降下したため、宮家ではないものの、博信氏の自出や邸宅の佇まいから、近隣の方々からは華頂宮邸として親しまれました。
通常、華族の本邸は都内に建てられますが
なぜ鎌倉後に建てられたか?
その理由として
 ・鎌倉の街に多くの華族の邸宅が集まる土地。
 ・当時の帝国海軍の一大拠点が横須賀で鎌倉から近かった
 ・幼少期を小田原の閑院宮別邸で過ごした夫人の希望
などの理由が考えられます。
が…
残念ながら、華頂博信 華子夫妻がこの邸宅で過ごしたのはわずか数年ほど。戦前に既に、邸宅は売りに出されて人手に渡り、戦後はGHQの接収を受けたのち、1996年に鎌倉市が取得するまで、幾多の人手に渡りました。
邸宅を数年で手放す理由として
 ・華頂家が3人の子宝に恵まれ手狭になった
 ・博信が貴族院議員に就任後、多忙を極めたため
などと言われています。

≪たてものメモ≫
●竣工年:1931年
●設計者:詳細不明
●文化財指定:国登録有形文化財
●写真撮影:可
●入館料:無料
●交通アクセス:
 JR横須賀線 鎌倉駅より「浄明寺」停留所下車 徒歩5分
●参考文献:
 ・田中禎彦監修「死ぬまでに見たい洋館の最高傑作」
 ・鈴木博之著「皇族の邸宅」
 など
●留意点:
 年2回、春と秋の土日に特別公開の際に邸内見学可能

≪正門部分について≫
こちらの正門部分は、竣工当時のものになり、旧華頂宮邸に関しては、南野陽子版「はいからさんが通る」、テレビドラマ「相棒」などのロケ地に頻繁に使用されているため、ドラマなどでこの邸宅を見た方も多いのではないかと思われます。
デザインとして、レンガを側面部分に敷き詰めた形状になり、双方にランプが取り付けてあり、邸宅に対する興味を沸かせてくれます。

正門部分

≪邸宅外観について≫
まず、華頂宮邸は、屋根裏部屋付きの2階建て建築で、地階にはボイラー室を備え、宮家の建築にしては小ぶりな建物ですが、新婚華族の邸宅としては十分すぎる規模になります。また、こちらの建造物の設計者などに関しては詳細不明になりますが、閑院宮強羅別邸(現・強羅花壇)と酷似したデザインになっております。

Ⅰ:正面側から臨む
玄関側から見ると、1階部分をレンガ貼りにし、2階部分を柱を前面に出すハーフティンバー様式を採用。
中央部分に採光のための屋根裏の窓を設け、左右対称に三角屋根を設け、左側には採光のための窓を。右側には平屋建てのバックヤード部分が張り出した形状になります。

正面部分

また、写真左側のハーフティンバーの窓枠上下などには、三角形の木材を4カ所に貼り、×印の装飾を付けていますが、こちらに関しては、閑院宮強羅別邸(現・強羅花壇)にも同じ装飾が見られます。

2階安堵の上下の小壁に付けられた×印の装飾

貼りだした平屋部分の窓枠には、格子状のアイアンワークを見る事ができますが、時代背景上、竣工当時に流行したアール・デコを採用しています。

邸宅の窓枠部分

Ⅱ:側面写真
邸宅側面の写真を見ると、こちらも同様、1階部分をレンガのタイル張りとし、2階部分左側は柱を前面に出すハーフ・ティンバー様式が採用。右側は。腰板部分をレンガタイル貼りにして、それ以上をクリーム色に塗られています。

側面写真

また、こちら破風部分を臨むと、先述の格子のアイアンワーク上部に付けられたアールデコ風の装飾と同じものを見る事ができます。

破風部分に付けられた装飾

≪南面を臨む≫
邸宅の南面を見ると、大きな屋根を持ち、中央部分には採光のために付けられた大きな開口部分がアクセントになっています。
また、屋根全体が、幾つもの三角形が入り組んだ形になっており、2階中央部分から右側にかけ、1階部分と同じく柱を表側に出し、壁を付けるハーフティンバーが採用され、中央部分にテラスと池を置いて、左側には平屋建ての三角屋根が張り出しています。

南側外観を臨む

テラス側を臨むと、手すり子を付け、床面は竣工当時のもの。
中央部分は池になり、手前側と奥に2個づつ花壺を設け、壁泉にはライオンがあしらわれています。

中央部分のテラスと壁泉

また、テラス部分にあがると、上部には持ち送りを付け、左側の壁面はレンガ風のタイルが貼られています。
また、広間部分には大きなガラス扉を付け、室内から庭園部分に出られるようになっています。

テラス部分を臨む

テラス部分から庭園を臨むと、ベルサイユ宮殿などの幾何学的なフランス式庭園になっており、邸宅がハーフティンバーの民家風なのに庭園が宮殿風…
一見ミスマッチでありながら、程よい佇まいになります。
また、庭園に植えられたバラの花ですが、邸宅管理を委託されているボランティアさんたちによって植えられたものになります。

テラスから庭園を臨む

≪平面図を臨む≫
平面図を見ると華頂宮邸として使用されたのは僅か数年。
実際住まわれている方や従事された方のの証言も皆無。
華頂宮家の子孫の方々も、幼いときに越してしまったため、記憶がなかったりでデータがなく、竣工当時の設計図や写真も発見されておらず、謎の多い邸宅になっています。
が、南面に貴重な部屋が配置されたデザインになります。

平面図

≪1階玄関部分≫
玄関手前は、天井は化粧梁とし、両側面には、この当時にフランク・ロイド・ライトが帝国ホテル設計時に導入して流行したスクラッチ・タイルがつけられていますが、上部の照明においては、竣工当時のものかは定かではありません

玄関部分

また、先述の玄関部分奥をみると、扉部分は格子状に装飾を付けたアイアンワーク、左側の窓枠は幾何学的なモダンな設えになり、床面は布目タイルを。
天井部分は化粧梁をつけ、左側面は大理石状の腰かけになっています。

玄関扉部分

≪1階ホール部分≫
こちらは、邸宅の各部屋に繋がる「へそ」的な部分になり、照明の関係上、一見赤色に見えますが、壁面は黄土色のラフな仕上げ。
大階段が特徴的で、邸宅のまさに「顔」になります。
また、表面は柱を多数見せる一方、邸内には大きな柱が見えないのも特徴の一つとなっています。

1階ホール部分

また、ホール部分の床部分はすべて寄木張りとなりますが、特に注目したいのが階段周りで、階段の丸い部分にあわせて、丸型になっています。

階段の形にあわせて貼られた寄木

玄関隣の部屋になりますが、こちらも、どのように使われていたのかの詳細は不明なものの、位置的にはこの邸宅を訪問した従者の方の控室として使用されていたと推測されます。
左奥側にはスチームが見えますが、邸内地下にはボイラー室が付けられ、スチーム暖房になっています。

1階 玄関隣の個室

≪1階食堂≫
この邸宅で唯一、使用用途が推測される部屋になり、天井部分はラインを幾つも重ねたモールディングが敷かれ、舟底天井風の三角形になっており、照明は、いつのものかは判明していません。

1階 食堂部分

また、食堂部分の暖炉は、いわゆる装飾的なもの。
暖炉内にはスチーム暖房が埋め込まれ、地階のボイラー室で暖められた蒸気を使い、暖を炉中心にして両サイドの窓には格子型のステンドグラスがはめ込まれています。

食堂 暖炉部分

≪1階 南側中心部分にある広間≫
こちらの広間も南面に面しており、壁の色は竣工当時はどのような物かは不明になりますが、応接室だったものと推測されます。
また、こちらの暖炉のグリル部分にもすぐれたアイアンワークが施されており、床面も食堂同様、寄木細工が施されています。
また、この部屋からはガラス扉を通じて庭園に出られるようになっています。

1階 中心部分の広間

≪1階 南西側の広間≫
こちらの部屋も、階段ホール部分や南側食堂や広間と同じく、床板は寄木細工が施され、暖炉はスチーム暖房が埋め込まれ、石の状態こそ違えど、大理石製。
グリルには各部屋と違ったデザインになっています。
天井部分には、水平線のモールディングが施されています。

1階 南西側広間

また、こちらの広間にはサンルームが備え付けてあり、右側に見ええる扉は、テラスを通じて庭園に出られる仕組みになっており、床は市松状のタイルが貼られています。
なお、照明に関しては円形を重ねたモダンなデザインではあるものの、残念ながら、いつのデザインかは不明いなっています。

1階 サンルーム

≪2階ホール部分≫
大階段を上り2階へ上ると、1階部分同様、壁面はラフな黄土色の仕上げになり、天井部分はカマボコ型(ヴォールド型)天井が連なり、化粧梁で仕切られた独特なデザインになっています。
2階全体的に1階部分同様に、主要と思わしき室内は南面になります。
また、窓は北側に向けられ、採光のために付けられた物で、格子状のアイアンワークが施されています。

2階 階段ホール部分

なお、1階部分同様、床の曲がった部分は、それに合わせて寄木が付けられた大変珍しい意匠になります。
また、階段の手すり子のデザインも1階からつながるもので、見るものの目を奪います。

2階階段部分の曲線部分のデザイン

≪2階 北西側洋室≫
こちらの部屋も、もともとの使用用途、壁紙など詳細は不詳ながら、暖炉などがない簡素な造り。
北側に面して浴室(現在非公開)に連なっていることから、更衣室的な役割を果たしていたのではないかと邪推します

2階 北西側洋室

なお、浴室に関しては、現在は非公開で10年前に訪問した際の写真を使用しますが、浴槽などは現代的にアレンジされていますが、窓脇に関しては、各部屋にみられた格子状のアイアンワークが施されています。

2階 浴室部分【現在非公開】

≪2階 中廊下≫
2階部分の北側室内と井波が和h室内の間には中廊下が走り、残念ながらこちらも竣工当時の姿こそ不明なものの、南側居室と北側居室の扉の高さが違っているのも面白い意匠になります。

2階 中廊下

中廊下奥は小階段を隔てて、傷まの部屋になりますが、北側の室内で、裏側の階段に繋がることから、従者の方、あるいはバックヤード的に使用されたのではないかと推測されます。

2階 中廊下奥の部屋

≪2階 中廊下側の和室≫
中廊下左側に見える室内は和室になりますが、この部屋が竣工当時から和室だったのか不明ではあるものの、天井部分には細かい竿縁的なデザインが付く一方、天井板は白色で、西洋風の上げ下げ窓が付くなど、不思議なデザインになります。

2階 和室

≪2階 南東側 洋室≫
南東側洋室は、天井は太い化粧梁を貼り、暖炉は1階部分大理石製で、暖炉グリルに関しては花柄となります
壁紙や照明など、各部屋同様、その使用用途に関しては詳細不明ではあるものの、全体的にシックなデザインになり、右側部分の扉は附属室に唾がります。

2階 南東側洋室

先述のように、こちらの部屋は装飾的な暖炉がなく、洗面器蒲生受けられる特徴などから、南東側洋室の付属室としての意味合いが強いと思われます。
なお、照明などはどのデザインから竣工当時のものと思われるものの、残念ながら、その時期に関しても不明です。

2階 南東側洋室に繋がる洋室

≪2階 南側中央の洋室≫
南東側の洋室に扉ひとつで、中央部分の洋室になりますが、南東側に比較し、白色を基調とした軽やかな室内になります。
天井部分は、南東側・ホール部分の天井が太い化粧梁が付けられているのに対し、モールディングが走り、端部分は独特なデザインになっています。
暖炉は大理石製で、グリルは、葉をデザインしたような意匠になっています。なお、こちらの室内もどのような用途で使用されたかは不明です。

2階 南側中央部分の洋室

また、この部屋からは、庭園と鎌倉の谷戸を臨むことができ、鎌倉の自然を堪能することができます。
先述のように、鎌倉の切り拓いた土地を堪能できます。

中央部分からの眺め

≪2階西側 和室部分≫
西側和室においては、大理石製の暖炉があり、窓は上げ下げ窓。天井はセンターラインにモールディングが走り、照明はシャンデリアであるものの、その一方で、中央部分が畳敷きというふしぎなしつらえになりますが、これに関しては、のちに大幅に改変されたのではないかと推測されます。
こちらの部屋に関しても、南側の各室とともにつながっています。

2階 南西側和室

≪編集後記≫
旧華頂宮邸は、戦前期には競売に出され接収なども受けたこと。
創建当時の写真や証言などのデータもなく、謎の多い邸宅になりますが…
 ・古我邸
 ・旧前田家鎌倉別邸(鎌倉文学館)
とならび、鎌倉3大西洋館と謳われていますが、実質、見学できる唯一の洋館になります。
現在は、ボランティアさんの貢献で庭園などが保たれ春と秋に一般公開さえれていますが、邸宅に対するダメージは拭えず、抜本的な改修が望まれると当時、末永く大切にされることを願ってやみません。

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