わが心の近代建築Vol.106 文化のみち撞木館/愛知県名古屋市東区
みなさん、こんにちわ。
今回も、今まで記載しようにもできなかった建物から、愛知県名古屋市中区に保存されている撞木館について記載します。
この建物は、日本の陶器を知る上でも非常に重要な場所となります。
≪名古屋と陶器について≫
名古屋と陶磁器の関係は深く、江戸期には尾張藩は瀬戸焼・美濃焼を庇護したことから始まり、明治期には滝藤万次郎(太洋トレーディング創業者で名古屋の陶磁器の第一人者)らが神戸・横浜などの外国商館と取引し、久谷方面からが功を集めて絵付け加工をしたことに始まります。装飾的調度品を作ってた京都・有田に比較し名古屋では日用食器を扱いました。

【名古屋市公式観光情報 名古屋コンシュルジュより転載】
東区に当時企業が本格的に立地するようになったのは、日清戦争後のこと。そもそも名古屋の陶磁器は商業的色彩が強く、物流に便利な市中央部に店舗を構える傾向にありましたが、明治20年頃になると、輸出向けの比重が高くなり、広いスペースが必要になったため、武家屋敷跡などのまとまった土地があり地価の安かった名古屋市東北部に絵付け・加工業者が集うようになります。

【邸内展示パネルより転載】
明治20年代に名古屋市に進出した業者の代表格が森村組(現在のノリタケの母体)になります。1876年にニューヨークで日本の骨董品なおどを販売し、明治20年代には陶磁器を扱うようになり、瀬戸で造らせた素地を世東京や京都の工場で絵付けし、横浜・神戸で輸出をし、撞木町・主税町に工場を集結させ、名古屋が陶器のメッカとなりました。

【ノリタケHPより転載】
≪施主 井元為三郎≫
井元為三郎(1873~1945)は16歳で有田系の商店に入り、撞木町に隣接する飯田町に井元商店を構えます。
明治40年にはサンフランシスコに貿易会社を設立し、大正に入るとシンガポール、ビルマにも進出し、陶器以外に医薬品や雑貨も扱うようになり、1924年には名古屋陶磁器貿易商工同業組合の組合長に就任します。
このような経緯を経て、大正末期に井元邸が建てられますが邸宅は和洋瀬中型で、洋館部分は迎賓の場というよりも、井元氏の会社に勤める社員が、海外遠征時のルールを学ぶ場に充てられました。

【邸内展示パネルより転載】
≪ステンドグラス作家について≫
撞木館のステンドグラスは、洋館の各所に用いられましたが、全体的にアールデコの影響を受けており、製作者は宇野澤ステインド硝子工場の草分けの職人、梅澤鐵雄の作品となります。
梅澤鐵雄は大正10年ごろに名古屋市中区老松街にステンドグラス製作所を造り、代表作には岐阜県庁のステン同ラスなどがあります。
≪たてものメモ≫
撞木館
●竣工年:大正末期~昭和初期
●文化財指定:名古屋市景観重要建造物
●入館料:¥200
●写真撮影:可
●休館日:年末年始、月曜日(祝日の際は翌日)
●交通アクセス
・名古屋市営バス「東片端」下車徒歩3分
・基幹バス「清水口」下車徒歩5分
・場小屋市営地下鉄桜通線 「高岳」駅下車 徒歩10分
❏平面図から
撞木館は洋館部分と和館部分、蔵部分、茶室に分かれますが、洋館部分は、他の邸宅と用途が違い、自社社員が海外に行く際にテーブルマナーなどを学習するための施設などに使用し、井元家は和館を居住地にしました。
和館部分は、手前に住まいの部分、和室1は迎賓施設として使用しました。

【撞木館HPより転載】
≪洋館部分 外観≫
❏正面写真
洋館部分の外観は、黄色く塗られた外観に、屋根はスパニッシュ瓦、屋根部分にはユーゲントシュティールで見られる「牛の目」状のドーマー窓が設けられたアメリカで竣工当時に流行したスパニッシュ様式になります。

❏玄関ポーチ
玄関ポーチの柱部分には、長斧削りを施した状況が見られるほか、1階窓脇の下には、竣工当時にFLライトが帝国ホテル ライト館を建てた際に注目されたスクラッチタイルが貼られているほか、玄関部分は縁取りを石貼りにし、玄関扉のガラス欄間部分にはステンドグラスが設えているなどしています。

❏バーコラ側から臨む
側面部分1階にはバーコラが取り付けられており、窓枠の木はすべて白色に塗られ、下枠にはすべてスクラッチタイルが貼られています。
またベランダ部分は1段高く設えられ、直接庭園に降りることができます。

ベランダの上部にはバーコラ(日蔭棚)が付けられ、ベランダに併せて段差が設けられていますが、柱下部は石貼りにされています。
ベランダ部分は赤いタイルが貼られていますが、撞木館ではタイルをふんだんに使用しています。

≪1階外観部分≫
❏玄関部分
玄関ポーチ上部の照明は星型となり、床面は玉砂利が敷かれています。
ポーチまでのアプローチが曲がりくねった上に、写真右側には南天が植えられていますが、これは邪鬼はちょくすインして入ってくると古くから考えられていたため、魔除けの意味合いを込めています。また、ポーチを支える柱には長斧で削ったような加工を施しています。

玄関から邸宅を臨むと、表の扉とは別にもう1つ扉が設けられており、天井部分は白漆喰塗となり、モールディングには装飾が付けられています。
床部分は市松状のタイルが敷かれ、左側の帽子行き場に関しては、竣工当時のもの。扉部分とガラス欄間は幾何学的模様のステンドグラスが付けられています。

❏ホール部分
階段1階の側面の板にはアールデコ調の装飾が付けられた白パネルが付き、階段部分には、手斧でナグリ加工が施されています。なお、壁と天井部分は白漆喰が塗られています。
階段となりは厠となり、上部の半円形のステンドグラスには鳥が描かれ、奥側の窓も半円形となります。

❏応接間/食堂部分
現在、食堂と応接室は喫茶室として使用されていますが、竣工時はバーコラのある方が応接間として使用されました。
天井部分は幾重にもモールディングが付けられており、旧応接室側からガラス扉を上部覗を見ると、ステンドグラスが付けられ、中心部分には鳥が描かれています。

食堂前の扉には、扉にマークが付けられていますが、象嵌という、異なる素材(金属、木、陶器など)の表面を彫り、そこに色や質感の異なる別の素材(金、銀、貝、彩色木材など)をはめ込んで模様を作る伝統工芸技法が使用されています。

和や方とのつなぎ目部分にも幾何学模様のステンドグラスが置かれ、その奥に観音開きの扉が置かれています。
洋館部分は先述のように社員が使用するがためなどに使用されますが、扉を隔てて用途が分けられました。

≪2階部分≫
❏ホール部分
階段ホール部分は2階全体から行くことができ、階段踊り場上部には窓ガラスが設けられていますが、こちらは明り取りとしての役割も強かったです。
改変されている個所がありますが、井元家の方々が語学に堪能で隣の和館に住んでいたことから、接収した将校一家も大切に使ったため、大きなダメージはありませんでした。

❏寝室
洋館部分で最も改変された箇所になり、天井部分は、筋を何層も重ねたモールディングとなり、通路扉などに改変点が見られます。
現在は会議室として貸し出されていますが、竣工当時などは寝室として使用されました。左奥側部分はクローゼットとして使用されました。

❏浴室
便器や浴槽は現在のものに変更されていますが、竣工当時からタイル張りになり、ユニットバスとなります。竣工当時は、タイルは高級素材であるため、井元為三郎氏の財力を伺い知るお琴ができます。なお、木造建築で2階に浴槽を設けることは、配管など費用面など難しいところですが、この施工を行った工務店のスキルの高さを感じさせられる部分です。

❏娯楽室
古父らの部屋はトランプゲームなどを行う部屋として使用されました。
天井部分は白漆喰で、モールディングには蔦が描かれており、窓は西洋風の上げ下げ窓が用いられています。箪笥などは井元家で使用されていたものを活用しています。

ステンドグラスには、娯楽室という事もあり、上部はトランプのスペードやダイヤ、ハート、クローバーが描かれており、下部分には黄色いステンドグラスが使用されています。

❏サンルーム
娯楽室の隣はサンルームになり、床部分はタイルをヘリングボーン状に貼ってあり、腰板には帝国ホテルでFLライトが使用して注目されたスクラッチタイルを使用しています。
天井部分は白漆喰塗で3段のモールディングが層になっています。

≪和館部分 外観≫
和館部分は井元為三郎一家の生活の場として設けられ、洋館より遅れて作られました。
右側部分に台所などと「田の字」造りの4部屋が配置してあり、写真左側部分に座敷が2部屋設けられています。

和館部分の屋根は、上部に熨斗瓦を付け雨水の侵入を防ぎ、切妻屋根と寄棟屋根を重ねる伝統的な入母屋造りになり、屋根裏の換気や雨風への強さが保たてれいます。
屋根構造は横一文字の瓦が2層並び、一番下に青銅屋根が設けられた3層構造になります。

足場は石の上に柱を載せる石場建が用いられており、これにより、自身の際などは揺れを分散させて壊滅的な被害を免れるほか、建物に通気性を保つことを可能にしています。
沓脱石には、三重県菰野町産のものを用いています。

≪和館 内部≫
❏台所
台所部分は板張りになり、竣工当時はまだ、カマドなどを使用していました。その一方、流しなどはタイル張りにして、立ったまま作業を行えるように変更されるなど、今までの生活様式とは異なるものも用いられています。

台所の勝手口部分に置かれた冷蔵庫に関しては、米穀GE製になります。
撞木館が戦後にGHQから接収を受けた跡で、将校家族宛にアメリカから輸送されてきたものがそのまま残されています。

❏浴室部分
洗面所部分は、床面は継ぎ目なくタイルが敷かれており、その当時のタイル職人の方の高いスキルを伺い知ることができます。
また、流し台にも白タイルと細やかな水色のタイルを使用しており、非常に手の込んだ個所となります。

浴室はシャワーが後付けで現在のものが付けられているものの、写真左側に、竣工当時のシャワーが残されているほか、浴槽も木造の竣工当時のもので、腰壁には白タイルと水色のタイルを使用しています。
天井部分には空気抜けの通気口が設けられています。

❏展示室3
かつては食堂として使用した室内になり、こちらに掲げられた半纏は、井元為三郎の店舗で使用されていたものになります。
家族は、こちらで食事をとり、天井部分は竿縁天井となります。

❏展示室2
家族用の室内として使用していました。この部屋の上部には天袋が設けられていますが、井元邸は、幾度も修繕された跡があり、天袋下は板の間になっています。

❏和室2/庭園側手前の和室
和室部分は基本的に日本古民家の伝統的な「田の字」型に造られており、写真の右側部分は、長年の改造により、こちらについていた天袋が取り外されたのではないかと推測されます。
また、写真奥の欄間には松が描かれています。

❏和室2/蔵側手前の和室
かつては4つ間仕切りの部屋は、襖で仕切り、4つの部屋に用いりましたが、日本建築では来客時などでは襖などを取り払い、一つの部屋で使用することができます。
現在では、襖を取り払い、1つの大部屋として使用しています。

❏和室2/庭園側奥の和室
主人居室として用いられた部屋と推測されます。
そのため、書院などは拝されていないものの、4つ間の和室の中で唯一、床の間が付けられています。
各部屋とも竿縁天井となり、柾目板が使用されています。

❏和室2/蔵側奥の和室
かつては仏間として使用された部屋になります。
そのため、現在押入が付けられている部分が、一段高くされており、かつてはそちらに仏壇が置かれました。
また、こちらの欄間は鶴が描かれており、これは施主の井元為三郎氏が、酉年であったためといわれています

❏厠部分
厠部分は便器などは現在の仕様に変更されていますが、腰壁までのタイルなどは竣工当時のもので、非常に継ぎ目の細かい仕様になっています。
邸宅の財力を調べる際にトイレを見ると分かりやすいですが、竣工当時、tileは貴重品であり。このことからも井元為三郎氏の財力を伺い知ることができます。

❏和室2と和室1を仕切る扉
和室1は和館の中でも迎賓のために使用されるため、通常使用している部分との1枚板の仕切りの扉が設けられています。
なお、入側部分は軒桁が丸太材を使用し、天井部分は数寄屋風意匠となります。

❏和室Ⅰ/次の間
和室1は2部屋から構成されており、天井部分は、竿縁天井となり、屋久杉の柾目板を使用しています。
次の間部分は絞り丸太の床柱が使用されているほか、書院部分は下地窓となり、数寄屋的意匠の込められた室内になるほか、地袋部分は、1枚の板に直接溝を彫り込むなど、非常に手の込んだ設えになります。

❏和室1/座敷部分
座敷部分は、筆返しの付いた違い棚に天袋、地袋、そして付書院を設えた本格的な部屋となっており、床柱は四方柾材を使用するなどしています。
襖部分は雪見障子がつけられ、座ったままでも庭園を愉しめる設えとなります。

付書院は、異常に細かい細工がされており、書院の天板と、床の間天井には1枚板の鏡板を使用し、1段下がった部分には網代を組んだものを使用しています。

天袋の溝部分は1枚板に直接溝を掘ったものになり、失敗の赦されない非常に難易度の高い仕事がされています。
また、引手部分にはコウモリがあしらわれていますが、日本語でも「幸(こう)が盛(も)り」になるとの語呂合わせから、福を運んでくる縁起物として扱われました。

≪西蔵≫
蔵部分も、建物と同時期に造られれたもので、井元家の家財道具などが保管され、2階建て建造物となります

≪茶室『撫松庵』≫
茶室は1933年に京都から移築されr田ものと言われています。もともと、どちらの邸宅にあったものかは不明なものの、時代を追うと幕末〜明治初期に造られたものと言われています。
なお、撫松は、井元為三郎氏の息子の茶号から付けられました。

茶室の内部は2畳半に中板が置かれる大変珍しい造りで、天井部分は他家材を用いり落天井になるほか、床の間が桝床であることから表千家六世 覚々斎原叟宗左好みの造りとなります。

水屋部分にも、床柱には絞り丸太を使用し、天井部分には竹材を使用し、丸窓が付けられる意匠になります。
また、水屋部分にも竹材を使用するなどしています。

≪編集後記≫
撞木館に関しては、かれこれ10回程度訪問しましたが、今回やっと投稿できました。決して有名な建造物ではないですが、かつて名古屋の文化のみちに、数多くの陶器関係者の方が多く住んでいたことを伝える生き証人として、大変貴重な遺構になっています。ほかにも、何カ所か記載できていない場所がありますが、改めて記載していきたいと考えております。
