わが心の近代建築Vol.89 鈴木信太郎記念館/東京都豊島区
みなさん、こんにちわ。
今回は、近代建築の大家・辰野金吾の長男にあたる辰野隆(1888~1964)、山田珠樹(1893~1943)らとともに、日本のフランス文学研究の黎明期を支えた鈴木信太郎氏の邸宅について記載します。
この邸宅については、鈴木家より寄贈を受けたのち、2018年から豊島区の管理により鈴木信太郎氏の記念館として運営されています。
≪鈴木信太郎氏について≫
❏パリ留学まで
鈴木信太郎(1895~1970)は東京神田に生まれたのち、第一高等学校~東京帝国大学を卒業しますが、ここでの辰野隆氏との出逢いは終生続くこととなります。
1920年に東京帝国大学文学部副手に採用され、1921年に講師に昇格し、翌年には「シラノ・ド・ベルジュラック」を初出版し、以降多数の著述を上梓。1925年には30歳で私費でパリ留学し、中世フランス語を学び、数多くの書籍を研究のために買い込むも、父親の危篤に際し、翌年に帰国しますが、その岐路で、別便に載せたパリで購入した千冊ほどの書籍を船の沈没で消失し、一時期は軽い精神衰弱に陥ります。

【邸内動画より転載】
❏帰国~城北大空襲まで
1928年には現在の地に母屋と鉄筋コンクリート造の書斎棟を建立させ、1931年には東京帝国大学助教授に昇進します。が、1945年の城北大空襲により主屋棟は火が回り全焼し、鉄筋コンクリート製の書斎棟は2階部分こそ全焼するも、1階部分と蔵書は生き残り、1945年には東京帝国大学にて文学博士の学位をえます。

【邸内展示パネルより転載】
❏終戦後~東大教授時代
終戦後は、農地改革などにより時価が保持していた田畑を失うなどして、この時代が生活苦を極め、自ら働く必要性にかられ、1947年には新制の東京大学にて文学部教授になり、1953~56年まで文学部長を勤め、1956年に東京大学を定年退職し約37年の東大生活を終えます。

【邸内展示絵映像より転載】
❏東大退職後について
そののち、1956年~1968年まで中央大学文学部教授として教鞭をとり、1960年には、長年の研究成果から、フランス政府よりレジオン・ドヌール三等勲章に叙せられるなどして1966年に定年退職します。
同年4月から東洋大学文学部教授を勤め、1969年に体調の悪化から退職し、1970年3月4日に自身の愛した書斎の机で亡くなります。

【邸内展示映像より転載】
≪鈴木信太郎記念館について≫
❏邸宅の構成について
現在邸宅は、豊島区の改修ののち、鈴木信太郎記念館として一般公開されており、後述しますが、邸宅は1928年に建立した書斎棟、終戦まもなく増築したホール/茶の間棟、母親の上京とともに自身の本家から移築した座敷棟の3棟から構成されています。

【邸内展示パネルより転載】
❏保存に至った経緯
まず、鈴木信太郎記念館が保存された経緯ですが…
・明治初期、昭和初期、終戦直後の建造物が並んでいる事
・長男 成文氏が日本を代表する建築家で管理を行っていた事
・鈴木家から戦争の痕跡を残した建造物として遺す意向があった
3つの経緯が重なり、中でも終戦直後の建造物は解体されることが非常に多く、残されたものが非常に少ないなか、書斎棟に城北大空襲の痕跡が色濃く残されている事などから、信太朗の長男で、日本の建築計画学の権威であったを代表する鈴木成文(1927~2010)氏が中心となり邸宅保存を模索していた事で、保存が可能となりました。
なお、鈴木成文氏が出張の際には、書生の方が管理するなどの活動をされていました。

【邸内展示パネルより転載】
そのようなこともあり、途中、鈴木成文の急逝などあったものの、次男でフランス文学者の|鈴木道彦(1927~2024)らが引き継ぎ、信太朗の記念館として、戦争以降として保存が決定します。
≪たてものメモ≫
鈴木信太郎記念館
●竣工年:
・座敷棟:明治20年代
・書斎棟:1928年
・茶の間/ホール棟:1946年
●設計者:粟谷鶉二
・座敷棟:不詳
・茶の間/ホール棟:粟谷鶉二
・書斎棟:
1階部分:大塚泰(1928)
2階部分:粟谷鶉二(1931)
:鈴木成文(1956)
●文化財指定:豊島区指定有形文化財
●写真撮影:可(資料の一部、2階部分の一部に禁止箇所あり)
●入館料:無料
●休館日:
・毎週月曜日(祝日の際は翌日)
・年末年始
●交通アクセス:
・東京メトロ丸の内線「新大塚」駅徒歩2分
・JR山手線「大塚」駅 徒歩7分
●参考文献:
・BS朝日放映『百年名家』
・豊島区立鈴木信太郎記念館編「豊島区立鈴木信太郎記念館常設展示案内」
●留意点:
書斎棟2階に関しては、毎週第3土曜日のミュージアムトークで公開します(一部写真禁止)
≪邸宅について≫
❏土台部分:
鈴木信太郎が邸宅を建てた当時、大塚地区では、邸宅の分譲区画整理に、当時、フランク・ロイド・ライトが使用して人気を得た大谷石を使用しましたが、その当時に造られたもので、周囲には、何カ所か、そのような場所が遺されています

≪ホール/茶の間棟部分≫
❏設計者 粟谷鶉二
粟谷鶉二は、信太朗の先輩、辰野隆から紹介され、二人の間柄は書斎棟の改修依頼からの付き合いで、邸宅を焼失後には、すで再建の依頼を決定します。二人の間柄は長らく繋がり、葉山に所有していた別荘依頼のほか、周囲の文学者に粟谷鶉二氏を薦めます。

❏竣工当時の日本の建築事情について
当時の日本建築は、戦時中にもまして熾烈を極め「臨時建築等制限規則」により増改築、15坪以上の新築が禁止され、戦後まもなくはバラック建築が林立しますが…
・妻の生家が元々が材木商で、良質な木材を使用できたこと
・後々のことを考えた増築
・|粟谷鶉二《あわやじゅんじ》の尽力
この時代の建築物が残されることが非常に少ない中、大変貴重な終戦直下のの生き証人となります。

❏外観について
まず、外観を見ると桟瓦葺で外壁はリシン仕上の漆喰塗としています。まず、従来の和風建築ではあまり見られなかった出窓の採用、片側に小扉を持つ洋風の扉にするなど和洋折衷にデザインとしています。

❏内部について
・玄関ホール部分:
玄関部分は、通常は使用されることはない玄関となり、鈴木信太郎氏専用の玄関となります。
玄関の土間部分はタイル張りになり、使用された木材も非常に良質な物となります。
ホール部分は、椅子が置かれ、鈴木信太郎氏を訪問された方の応接室としても使用されました。

この邸宅が現在も遺されてる大きな要因として、書斎棟2階への階段が当時から予定されるなど、増築を見据えた設計がされました。

ホール奥には、書斎棟へ向かう大きな鉄扉がありますが、これにより、鈴木信太郎の書籍類は火災から護られました。
なお、扉の縁などに、熱により、無数の曲がった個所が現在も遺されており、以下に空襲下の火災が熾烈を極めたかを伺い知ることができます。
なお、空襲後、室内が冷め切るまで1週間程度冷却期間を置き、床から書斎に向かって穴を掘り、書籍が無事だったかを確かめました。

・茶の間部分
洋風の玄関とはうって変わり、居間は日本風の茶の間になり、机部分は、掘りごたつになります。その一方で、出窓になっていることから、ちょうど、出窓部分で腰かけられるなど、粟谷鶉二の独自的なデザインもみられ、こちらの反対側はキッチンなどのバックヤードとなっています。

≪座敷棟≫
❏外観について
鈴木家は、春日部市で古くから続く家系で、約30万坪の土地を所有し、敷地も2000坪にもなる屋敷を構えていました。
戦時中、鈴木信太郎の母はそちらに疎開しましたが、終戦とともに帰京します。
座敷棟は、母の帰京に併せ、”はなれ”の一部を1948年に移築したもので、竣工年は明治20年代といわれ、移築に際しては「臨時建築等制限規則」には含まれませんでした。
屋根は桟瓦葺で掃き出しのガラス戸が入った開放的で伝統的な和風建築になります。

❏内玄関
なお、移築に際し、内玄関等を新設しますが、表玄関が主人や来客の間として存在していましたが、こちらは家族専用の玄関になり、簡素化されたものとなります。

❏次の間部分
座敷棟は、長い縁側に次の間と座敷から構成されており、従来の和風建築に比較して天井は高く設計されており、天井を含櫛rつらえる要因としては、刀を邸宅で抜けないようにするためですが、明治期になると、その心配がなくなり、天井は高く設けられるようになります。

❏座敷部分
座敷部分は、書院こそ平書院に省略されてはいるものの、違い棚に天袋と地袋、床柱に床の間を設えた、伝統的な書院が設えられました。床の間と違い棚の奥行きは688㎜と一般的なものと比較して浅く設置されています。天井は竿縁天井になります。

❏床の間部分
床の間部分を見ると、まず、左側の平書院に関しては、非常い細かい組子細工が施してあり、改めてこの建物が手の込んだものであるかを伺い知ることができます。
また、右側の床柱には黒柿を使用。南画は信太朗の父、政次郎が保護した高森碎巌(1847~1917)によるもの。南画の下の床板に関してはケヤキの一枚板を使用するという現在では再現不可能なものとなります。

❏縁側部分
次の間と座敷の南面には縁側が走りますが、ここで注目したいのがガラスについてですが、春日部の邸宅でありながら、竣工当時のガラスも遺されており、鈴木家の財力の一端を伺い知ることができます。軒桁には杉の磨き丸太が使用されており、ここまで直に伸びた材は大変珍しいものとなります。

❏厠部分
縁側奥の厠に関しては、さすがに竣工当時のものではないものの、公開に併せ、書斎棟と同じトイレ(非公開)を豊島区が購入し、設置しましたが、書斎棟が竣工したのが1928年で、すでにその当時から、この地域には下水整備がされている証左になります。
なお、トイレの座席面は黒漆塗りで東洋陶器のマークが入っています。

≪書斎棟≫
❏外観について
こちらは1928年に書斎兼書庫として竣工したもので、信太朗がフランスから帰国する際、稀覯本約1000冊を船火事で焼失した経緯から、当時の個人邸宅としては非常に珍しい耐火構造の鉄筋コンクリート造りで竣工し、設計には大塚泰が担当し、のちに子ども部屋など設けるため、増築しますが、こちらは粟谷鶉二となります。

❏北側廊下
奥には蔵があります(現在非公開)が、廊下全面に天井まで続く本棚が置かれています。南面に書斎と富んだ名が乱立し、鈴木信太郎氏がいかに本に情熱を注いだかを伺い知ることのできる場所となります。

なお、上部の本を取る際には、梯子をかけて本を取る仕組みとなります。このような状況は、東京都庭園美術館などにもみられ廊下わきに置いてあります。

❏1階書斎
こちらは鈴木信太郎氏が自らデザインに関わり、室内はオールチーク材となっています。
書物に関しては空襲後、室内を冷却するのに1週間ほど放置してから、次男が地面を掘り進めて中に入り、本の無事を確認しました。終戦直後は鈴木信太郎夫妻の居室に使用されました。

1階部分は所せましと本棚で埋め尽くされており、本棚上部の鉄のレールの上に北側廊下の梯子をかけて書籍の取り出しなどを行いました。この部屋からも、信太朗の本に対する愛情を感じられます。

暖炉に関しては、ゴシック調のデザインで周囲をタイル張りにしています。実際に火をくべるものではなくガスの暖炉になりますが、戦時中、空襲がいよいよ激しくなると、空気抜けのための煙突を埋めて、火が書斎内に入り込まないように工夫しました。

また、この室内にある机に関しては、鈴木信太郎自らデザインしたもので、鈴木信太郎の背丈や利便性に併せて作られています。
なお、鈴木信太郎は、ここで眠るようにして亡くなりました。

❏書斎のステンドグラスについて
ステンドグラスに関しては、鈴木信太郎自らの図案から、宇野澤ステインドグラス工房で作られたものといわれています。
ステインドグラスには生涯にかけて研究したフランス人詩人、マラルメの言葉「LE MONDE EST FAIR ABOUTIR A UN BEAU LIVER S.M」(世界は一冊の美しい書物に近づくべくできている ステファヌ・マラルメ)と記載してあります。先述の机部分から、ステインドグラスを見て、座右の銘にしていました。





❏書斎棟2階(通常非公開)
当初書斎棟は平屋建てでしたが、窓からの結露などにより、本に水分が含まれて痛みを負ってしまうことを信太朗は発見し、粟谷鶉二に増築を依頼します。
なお、信太朗はこの時の仕事ぶりに感動し、葉山の別邸(現存せず)、ホール・茶の間棟の設計を依頼します。

2階部分は、そもそもは結露を取るためのに造られましたが、戦前期は、子どもの遊戯室などに充てられるなどしますが、城北大空襲で被災し室内の鉄柱はアメのように曲がり、修繕後も直されることなくそのまま使用されました。
手前の2部屋については成文夫妻の仕事部屋、奥部分は寝室などに充てられました。(寝室は撮影禁止)

❏編集後記
邸宅は鈴木成文氏らの尽力により保存されますが、鈴木家では記念館、屋外博物館として以外にも、空襲の被害状況、そして終戦直下の状況を知る生き証人として、この邸宅の保存を臨んでおり、邸宅のいたるところに空襲の被害状況を知ることのできる稀有な邸宅でもあります。
末永く、この邸宅が再び戦禍にまみれる事のないことを強く望んだ、そんな建物探訪でした。
