わが心の近代建築Vol.110 倚松庵(旧谷崎潤一郎邸)/兵庫県神戸市東灘区
みなさん、こんにちわ。
最近は新しい職場に慣れるなどが重なり、投稿個所が減ってしまいましたが、今回は久々の投稿という事で、2024年に訪問した倚松庵について記載します。この建物は、阪神地区を襲った阪神淡路大震災や水害などの様々な災禍から、偶然中の偶然で被害を免れた、換言すれば非常に恵まれた建物となります。
≪邸宅の歴史≫
1:倚松庵所有者について
この邸宅は、1929年に武庫郡住吉村に後藤ムメ氏と外交官だったベルギー人主人の邸宅として建てられ、夫妻は、この周辺の土地を所有する大地主でした。潤一郎が借りる際の持ち主は、後藤ムメ氏と息子 後藤勒雄氏で、勒雄は極東選手権競技大会サッカー日本代表の選手として活躍した人物でした。
谷崎潤一郎は氏の代表作 「細雪」の舞台としてこの邸宅をイメージして記載したことから、「細雪の家」とも言われています。

2:倚松庵付近を襲った二つの災害
この邸宅は、幾度の災害を乗り越えた奇跡的な邸宅で、まず1928年7月5日に起きた阪神大水害がありますが、この状況は小説「細雪」中にも描かれています。
谷崎潤一郎一家は、この邸宅に住んでいたため、難を逃れて無事だったものの、阪神国道住吉橋付近で住吉側が氾濫を起こすなど、この一帯に甚大な被害を出しました。

【邸宅展示パネルより転載】
谷崎順位四郎氏が手放したのちは、1986年には住吉川畔に神戸新交通六甲アイランド線の橋脚建設計画が持ち上がり、倚松庵のあった場所が選ばれ、解体話が出始めますが邸宅保存運動が起き、住民訴訟に名で発展しました。
結果、1987年に倚松庵は移築保存することが決定し、工事が行われ、建物などは持ち主の児山悠輔氏から寄贈を受けたのち、移築復元の解体作業が開始され、元あった場所から150m程離れた現在地に移築して、1990年の谷崎潤一郎氏の生誕日に併せ、谷崎潤一郎が過ごした当時の姿に復元され、開館しました。
が…
19950117
阪神淡路大震災において、かねてから地盤の脆弱さが懸念事項だった六甲アイランド線の橋梁が瓦解し、甚大な被害を出すこととなります。
各鉄道網が復旧する中、六甲アイランド線は、最も復旧が遅れたものの、移築された倚松庵は、そのことが幸いしてか、ほぼ無傷で事なきを得ました。

【Wikipediaより転載】
≪谷崎潤一郎について≫
谷崎潤一郎(1886~1965)は、明治末期から昭和中期まで、生涯にわたり執筆活動を行った作家で、国内外で高く評価されました。
文化勲章、文化功労者をなどを受賞したほか、その名前はノーベル文学賞候補に幾度も上がりました。
潤一郎は東京の日本橋区蛎殻町に生まれ、関東大震災以降は関西に移住し、1954年に熱海に転居するまで21年間を関西を拠点として活躍。
阪神時代には、大正以来のモダニズムと中世的な日本の伝統美を両端として文学活動を行い、特に長編小説を多く記載し、数多くの名作を生み出し、作品の中でも阪神間モダニズムの影響を多く受けます。

【Wikipediaより転載】
また、谷崎潤一郎は自らの作品を関東大震災前と後に分けており、1923年9月1日の関東大震災によって関西に逃れてきた谷崎は、この地に残る「古き日本のエキゾシズム」に惹かれ、また阪神間の温暖な気候に魅せられて永住志向になります。
北に六甲山脈が走り、南は瀬戸内海に臨むという、谷崎潤一郎が最も好んだ山海両面の特色を満喫できる地理的条件を備えていました。
≪倚松庵 平面図≫
谷崎潤一郎は転居が非常に多い作家として知られ、関東大震災から熱海に転居するまで計13回ほど転居を繰り返したほどで、この前に住んでいた打出の邸宅が、松子夫人との結婚、しばしば訪問する夫人の2人の姉妹の影響で手狭になったため、広い家を探していたところ、この邸宅を発見します。
もともと、ここには先述の後藤ムメ氏と息子 後藤勒雄氏が在住していましたが、2人に借家に移ってもらい、自身がこちらに住むこととします。
邸宅は木造和風建築でありながら洋間を備えたモダンなデザインで、天井が高くつけられていました。谷崎潤一郎は倚松庵の雅号を用いたのは1932年ごろで、倚松庵と名付けられた邸宅は計6か所、実際に松があるものは4棟でしたが、谷崎潤一郎がこの邸宅を愛していた事と、最も長く在住したことから、ここを倚松庵と呼んでいます。

【倚松庵HPより転載】
≪たてものメモ≫
【たてものメモ】
●竣工:1929年
●交通アクセス:
・六甲ライナー「魚崎」駅徒歩2分
・阪神本線「魚崎」駅徒歩6分
●入館料:無料
●開館日:土/日曜日
●写真撮影:可
●参考文献:
・「倚松庵」HP
・たつみ都志著「ほろよい文学談義 谷崎潤一郎~その棲み家と女~
・谷崎潤一郎氏についてはWikipediaを参照
など
●留意点
定期的に武庫川学園教授 たつみ都志氏のガイドツアーがあり(要HPを確認)
≪倚松庵 外観≫
正門部分
倚松庵は中間層の邸宅に多く見られた形式の日本家屋で、比較的標準的なものとなります。が、元々がベルギー人の方が住まわれたことで、洋間などが設けられたほか、門扉には三角のデザインがされるなど、和と洋が融合した阪神間モダニズムを象徴するかのようなものとなります。

庭園側から邸宅を臨むと、洋間部分にはテラスが設けられ、そこから出られるようになっています。テラスは5畳敷で、庭土から30㎝ほど高くなり、当時のままに復元したセメントの上に立っています。

なお、テラス側にはアールデコ調の外灯が付けられていますが、これはオリジナルのものではなく、開館に際し、元の持ち主、児山悠輔氏の証言により復元されたものとなります。

谷崎潤一郎は1944年に熱海に疎開する際、かつてに隣人に挨拶に伺いますが、庭園の様子を「嘗ては予の愛したる庭なりしかどこれを見てはもはや何の愛着もなし」と嘆きます。
かつての庭は、畑や防空壕を作るために荒らされ、変わり果てた姿になり、谷崎潤一郎は以降、倚松庵を訪問することはありませんでした。現在の庭園は、小説「細雪」の情景をもとに復元されたものとなります。

≪1階部分について≫
ー中廊下ー
玄関を入ると、まっすぐな廊下が奥側まで通っていますが、これは従来の日本商家の建物の様式とも、一般的な農家の建築様式とも異なり、昭和初期の住宅に多く採用された「中廊下」式となります。
従来とは異なり、各部屋に行くのに別の部屋を通らなくて済むようになり、西洋建築の合理主義的な思想と、日本的な協調精神が調和した箇所となり、多くの邸宅で採用されていきます。

ー応接間ー
広さ10畳になる部屋で倚松庵の心臓部に該当します。
小説「細雪」の中でもたびたび登場し、家族の団らん、来客応対など、この邸宅の要となる箇所にあたります。
倚松庵が持つ和のイメージは、このよう間に入ると鮮やかに衝撃的に打ち砕かれます。谷崎潤一郎がこの邸宅に愛着したのも、自身が憧憬した洋の部分と、関西移住時に急速に失われつつあった和の融合が、この部屋には存在したためと言われています。

こちらの照明に関しては、一見すると中華鍋のような形状になりますが、谷崎潤一郎氏のあとに住んだ児山悠輔氏の証言に基づいて復元したものになります。
谷崎潤一郎の美意識「陰翳礼讃」のため、間接照明になり、天井は白漆喰に梁がめぐらされており、僅かながらナグリ仕上げが施されています。

この建物が造られた当時は、暖炉とステンドグラスは上流会空のステータスで、庶民の憧れでした。
倚松庵にも扉部分に、わずかながらステンドグラスが貼られ、マントルピースは、レンガ積み風となり、石炭で暖を取る形状。マントルピース上部にはニッチ(窪み)が設けられています。

ー食堂ー
応接間に続く部屋になり、3枚扉で仕切られています。
こちらの廊下側の扉は引き戸となり、ステンドグラスが備えられ、奥側の小窓からは扉を開けずとも、廊下を隔てた台所から食器や料理を行き来することができました。天井部分も応接間同様梁がめぐらせてあり、天井を高く設えています。

小説「細雪」には、妙子が日本舞踊を踊るシーンがありますが、妙子のモデルになった松子夫人の妹 信子さんが、上方舞の山村流を踊る写真が残されています。
金屏風を置き、食堂部分の家具類をすべて取り払って舞台に見立て、応接間に座布団を敷き、谷崎夫妻、娘の恵美子さん、隣に住むドイツ人家族らなどが信子さんの山村流の舞を愉しんだことが伝わっています。

【倚松庵HPより転載】
この室内にある机に関しては、サイドの板を引くと天板が出てきてテーブルが広くなる仕組みになり、倚松庵で唯一、谷崎潤一郎が使用したものになります。椅子に関しては、1脚のみがオリジナル品で、ほかのものはレプリカになります。(その他の家具は、阪神間モダニズム時代に使用されたものを、開館に合わせて買い揃えたもの)

【倚松庵HPより転載】
ー西の部屋ー
邸宅内で一番西にある室内で6畳間(実際には4畳間)になり、1畳間の縁側が付いています。
食堂西側扉に通じており、食堂から廊下側の襖をあけてこの部屋に入ると、昼間でも薄暗く冷え冷えしていますが、南に面して庇が深く、陽が縁側の障子を通じてしか室内に入れないためです。

ー台所ー
中廊下を挟んで、反対側は邸宅のバックヤード的な場所になります。
台所部分においては、かなり狭い空間ではあるものの、狭さを感じさせない工夫が凝らしてあり、天井板を貼らずに梁が見えるようになっているため、圧迫感を与えません。器棚を階段スペースに収納したため、無駄な空間を排除所いています。

勝手口側から臨むと、流し台はこの当時に頻繁に使用された人造洗い出し石を用いています。現在は水道が設けられているものの、実際、この市域に水道が引かれたのは1942~43年ごろの話で、谷崎潤一郎が居住していた時代には水道がなかった可能性が高いです。
勝手口左下には、風呂の炊き出し口が設けられており、湯加減を見るためだけのために風呂場への潜り戸が設置され、こちらにも西洋的合理的思考が反映されています。

ー浴室ー
こちらの浴室は五右衛門風呂が用いられ、谷崎潤一郎が住んでいた当時に使用されたものを、最後の所有者である児山悠雄氏が使用していたため、オリジナルのものになります。
児山氏が所有した際、ガスを用いらず、薪や紙屑を使用して炊いていたため、現在に残すことができました。

≪2階部分≫
ー廊下部分ー
2階部分の廊下も、各部屋を通らずとも廊下を通じてそれぞれの室内に移動できるようになっています。
階段の途中で止まると、2階の廊下からは、廊下へ首を出した状況になり、このシーンは「細雪」にも描かれています。階段の手すり子には、名栗を加えた跡のようなものが付けられており、細やかな部分にも、さりげない意匠が施されています

ー東側8畳間ー
2階は1階の各部屋と違い、プライベートルームとして使用されましたが、小説内では幸子と貞之助夫婦の寝室に充てられました。
東側に一間、南側に一間半の窓があり棚干が付けられ、さんさんと陽の光が降り注ぐ、家中で最も明るい部屋となります。

2階欄干から庭園部分を見下ろすと、庭園側にいる方からは気づかれず、下を眺めることができるようになっており、風が良く感じられるビュースポットになっています。

ー中の間ー
小説「細雪」では作中、悦子の部屋に用いられました。
8畳の部屋と1間の襖から構成されており、西側の部屋とは縁側と扉で通じています。採光は南側の窓と西側の障子のみで、やや閉鎖的な空間となり、現在は、谷崎潤一郎の小説などの資料が展示してあります。

ー西側4畳半和室ー
「細雪」内では6畳にされていますが、実際には4畳半で一間半の縁側が付けられています。六甲山脈を臨めるのは、邸内で唯一、この部屋のみとなります。
作品中には出てこないものの、この山の風景の、”外へ向かって開かれた”雰囲気が、谷崎潤一郎に”旅立ち”の場面を描き立たせたのではないでしょうか?

≪編集後記≫
阪神間の邸宅を追うと、必ず1995年の阪神淡路大震災にぶつかりますが、この邸宅においては、以前掲載した旧武藤山治邸と同じく、数奇な運命で、その被害を免れた邸宅となり、改めて時の運というものを感じます。
また、今まで、太宰治、山本有三、林芙美子、志賀直哉…
様々な文人の邸宅を追ってきましたが、ここまで邸宅が柵人に寄与したものとしては愛知県犬山の博物館 明治村に保存された「猫の家」(旧夏目漱石邸)【未収録】くらいなもので、自身としても、非常に勉強となる邸宅の一つでした。末永く、この邸宅が愛されていくことを願って止みません。
