わが心の近代建築Vol.88 根津記念館/山梨県山梨市
みなさん、こんにちわ。
今回も、近現代史に大きな足跡を遺した大物中の超大物の邸宅として、以前記載した起雲閣を所有していた根津嘉一郎氏の実家だった根津記念館について記載します。
根津嘉一郎は鉄道王としての側面以外に、美術品コレクター、近代茶人として、また、教育関係など社会事業などにも貢献し、現在の経済界に大きな足跡を遺された人物でもあります。
≪根津嘉一郎氏について≫
根津嘉一郎(1860~1940)は現在の山梨県山梨市に生まれ、東武電鉄や南海鉄道などの多くの鉄道敷設や再建事業に貢献したことから”鉄道王”とも呼ばれて政界にも進出したほか、茶人や教育者としても活躍し、数々の瀕死の企業を多く買収し、再生させたことから”火中の栗を拾う男”、”ボロ買い一郎”とも称されます。
嘉一郎は1940年1月に亡くなりますが、日中戦争のさなかという事もあり、花輪の掲出こそなかったものの、政財界・教育界から多くの参列者が集まり、その死を惜しみました。

≪根津記念館について≫
根津嘉一郎氏は、本邸を東京に持っていたため、山梨の邸宅管理を甥の根津啓吉氏に行わせますが、根津記念館を建てる際には、その建築様式や使用部材など…
事細かく手紙などで指示を出し、サンプルを東京から贈ったりもしました。
嘉一郎氏の生家は、もともとは中央線を隔てて反対側にありましたが、根津家は数多くの土地を所有しており、大地主として経営しやすいように、新しい新居として、この地に建てられました。
根津記念館は、2003年にこの邸宅と土地が根津家より山梨市に寄贈ののち、根津嘉一郎の邸宅を保存活用する施設として2008年に開館。
これにより、今まで非公開だった根津家の歴史的建造物(長屋門/主屋/土蔵)などが修繕されて通常公開されたほか、残された設計図などから、大磯から現在地に移築された”青山荘”と”茶室燕子花”が再建され、根津嘉一郎の軌跡と彼の美術品を収納した展示棟も新たに作られて公開されます。

≪たてものメモ≫
根津記念館
●竣工年
・主屋:1933年
・長屋門:1938年頃
・青山荘/茶室 燕子花:2006年(復元)
●文化財指定
主屋/長屋門に関しては登録有形文化財
●写真撮影:可
●入館料:無料
●参考資料:BS朝日放映『百年名家』
●交通アクセス:
中央本線「春日居町」駅より徒歩20分
●留意点:
タクシーを使用する際には、山梨市駅からの利用となります。春日居町駅には駐在していません
≪長屋門について≫
根津記念館の四方を長い塀で囲まれ、壁部分は白漆喰で塗られ、瓦屋根がついた武家屋敷風で、1938年頃の作品となり、正門部分は長屋門の設え。両サイドに堀が付けられています。

正面を臨むと伝統的な意匠となり、数多くの”持ち送り”が付けかれ、瓦屋根下の”垂木”は2段重ねとしますが、建築構造的なものではなく、むしろ根津家の格式を表す装飾的なものとなります。

窓もサッシに格子のはまった出窓となっており、出窓の下部にも、”持ち送り”がリズミカルに設置され、従来の形式にとらわれない、いかにも近代和風建築らしい自由なデザインになります。

このような例は土台部分にも表れ、かつての日本建築は礎石の上に柱が直接乗る”石場建て”でしたが、この門では、手前部分が柱を直接載せる”柱勝ちち”に対し、隣の柱は、土台の上に布石が敷かれた”土台勝ち”が採られ、柱が礎石に直接乗らない形となります。

❏平面図より
根津記念館は、主屋と”青山荘”、”茶室 燕子花”から構成されますが、1929年に世界大恐慌が起き、各財界人は、自身の地元に住む大工さんらの経済救済策のため、邸宅を作ることが多かったのですが、根津嘉一郎氏がこの邸宅を建てたのも、その流れからといわれています。

【邸内展示パネルより転載】
≪主屋について≫
❏外観部分
主屋外観は重厚な武家屋敷然とした長屋門とはうって変わり、数寄屋風の玄関が二棟並んでいます。左側部分がかつての主屋になり、写真の右側に見える木はザクロで竣工当時に植えられたものとなります。

外観を見るとシックなようで非常に手が込んだ建造物となり、屋根部分を見ると、1階部分がシャープに設えた平坦な造りに対し、2階の屋根は”反り”と”むくり”が付けられた、大変手の込んだものとなります。

また、1階屋根の柱同士を水平につなぐ”ヌキ部分”や”破風”の下の材にも、”手斧”でつけられた”ハツリ”が付けられており、一見目につかないところにまで、非常に細やかな装飾が付けられています

≪主屋1階部分≫
❏事務室
玄関扉を開けると、前土間の奥は事務室となりますが、帳場の付けられた佇まいで、根津家では借家経営、土地管理などを行っていたため、このような佇まいとなります。また、天井部分は近代和風建築らしく、漆喰が塗られた洋風の佇まいとなります。

また、主屋とのつなぎ目には、消火栓が付けられていますが、1923年の関東大震災の火災による惨状から、防火対策にも重きが置かれています。

❏廊下から中庭部分を臨む
邸宅を左側に行くと、中庭になりますが、反対側に見えるのは、再建した青山荘になります。

❏茶の間(居間)
1階は連続した3部屋から構成されますが、手前側の部屋は居間となり、シンプルながら品よく丹精にまとめられています。
その一方で、造り付けの引き出しがはめ込まれるなど、利便性を求めた昭和初期の建築らしい佇まいとなります。

また、となりの夫人室とのつなぎ目には、障子紙が貼られた細やかな”平書院風”になりますが、これは取り外すこともでき、取り外したら下地窓になります。
これも根津嘉一郎が根津啓吉に指示を出したもので、施主のこだわりを感じます。


❏夫人室
居間の隣は夫人室になり、欄間部分に関しては筬欄間となり夫人室らしく、右側には収納のための押入が付けられ、配置的に”主人の間”の”次の間”になります。

❏主人室
一番奥が主人室になり、室内自体は角材の長押がついた正統派の書院造りになります。
なお、この部屋には炉が切ってありますが、こちらに関しては、邸宅公開に併せ、茶席も行えるように改造された箇所となります。

その一方で、床の間右側には”琵琶棚”風の子襖を設け、床柱に関しては釣床風となり、障子の建具を挟んで設けられた平書院、長押の枕裁きなど、昭和期の近代和風建築的な、伝統にとらわれない遊び心に富んだものとなります。

なかでも、琵琶棚風の地袋は、双方に空くといった変わった意匠になっていますが、こちらに関しては、何の意図で設けられたのかは現在も不明となっています

❏土蔵部分
土蔵部分の外観は、3階建てとなり、屋根は”置き屋根”という伝統工法が採られ、土蔵の屋根の上に空間を設け、木造の屋根を付けることにより、万一火災が起きた時には、屋根は落ちても内部の財産が守られる形になります。

室内に戻り、母屋と土蔵を結ぶ蔵前は、畳だけでも13畳あり、土蔵とともに現在は資料展示室として活用されています。
ここでも土蔵内のコレクションなどを展示できる意匠にもなっています

蔵前には金庫が遺されており、この邸宅で実際に使用したものとなり、この部分に金庫を置くことを想定し、足元はコンクリート造りとなり、耐久性を付けています。

蔵内部は、現在は立面図や平面図、根津嘉一郎から甥の啓吉へ邸宅設計の指示が出された手紙が遺されています。
”青山荘”や”茶室 燕子花”の再建を可能にした経緯として、多数の資料が多数遺されていたためといえます。

天井部分には屋根裏に置かれたものは、”鏑矢”といわれるもので、もともとは戦で用いられたものになりますが、後年は上棟式の際に神事に使用されたのちに屋根裏に収められ、棟札同様、建築年や設計者、かかわった大工など、建物の歴史を表す大変貴重な手がかりとなります

蔵内部に置かれたオルガンに関しては、根津嘉一郎は市内の小中学校にピアノを贈呈し、これらは”根津ピアノ”と呼ばれましたが、置くスペースなどの面で贈ることのできなかった小中学校には、オルガンを送り、これがその実物となります。

❏台所部分
階段横には使用人エリアとなり、近代的な広い台所になります。奥にはカマドなどが設けられ、勝手口部分は玄関先に合った事務室と同じく、洋風の設えとなします。

横の氷冷蔵庫付きの流し台は、公開に併せて再現されたものとなります。

また、収納のための地下室が設けられています。

❏浴室
浴槽はタイル張りとなり、近代的な形状にはなるものの、現在と比較すると小ささは否めません。
根津邸では、勝手口前にボイラー室が設けられ、そちらから湯が提供されました。

≪2階部分≫
❏階段
階段部分を見ると、比較的緩やかに作られており、右側に見える窓は、書斎の下地窓となります。

❏廊下
2階から廊下を見ると、1階部分と同様の配置になり、天気が良い日には、現在でも富士山を臨むことができ、この邸宅の最大の見どころになります。

❏書斎
一番手前の部屋が書斎となりますが、下地窓や円窓が施された和洋中が入り混じった不思議な意匠になります。なお、この室内の椅子に関しては、根津嘉一郎氏が、東武鉄道で社長を務めた際、実際に使用したものとなります。

右側の壁には絞り丸太が埋め込まれ、そちらを床柱に見立てることにより、壁部分は”織部床”風の床の間。
円窓部分が平書院になります。

❏客間/次の間部分
書斎棟の隣には、2間続きの室内となり、手前部分が次の間となります。1階部分に比べ、欄間の意匠や窓の欄干など、より数寄屋色を強めたものとなり、この2部屋は親密な間柄の方を招いたとされています。

❏客間/座敷部分
近代建築では、個々の部屋のプライベート性が重要視されますが、この邸宅では伝統的な和風建築の配置に原点回帰しています。
なお、座敷部分の床の間や窓の欄干など、書院を崩した数寄屋色が強いものとなります。

≪青山荘 ≫
❏外観
主屋に向かって右側の建物は、大磯にあった建物を移築したものになり、元々の建物は解体され、建築部材などは寺院などに再利用されましたが、根津記念館として一般公開するに際し、2005年山梨市が新材から再現したものになります。
青山の由来に関しては、近代茶人でもあった根津嘉一郎の号が青山であったためといわれ、主屋2階が親しい人のための客間だったのに対し、パブリックな迎賓棟として使用されました。

❏玄関部分
玄関部分は格天井となり、1から作り直した経緯から、竣工当時の姿を想像しながら愉しむことができます。

❏寄付部分
玄関先に位置する部屋となり、西洋建築でいう所のホール部分となり、天井部分は竿縁天井となり、伝統的な和室建築となりますが、天井部分は非常に高く設えています。

❏応接室
応接室に関しては、来客者が一番最初に招かれる部屋となり、和洋折衷様式になり、天井部分に関しては、主屋事務室や台所と同じデザインで、形式に統一性を持たしています。
こちらの床の間に関しては、通常の床の間とは異なり、床の間と床脇をL字型に配した、大変珍しい意匠となります。

❏廊下部分
青山荘は、先述のように、元々が大磯にあったためか、以前扱った旧古河家大磯別邸などと同じく、廊下は非常に広く保たれています。

❏客間部分
次の間部分
客間部分は、次の間部分と座敷部分の2部屋から構成されており、次の間から欄間を見ると筬欄間風となり、左右に廊下を配した造りになります。

座敷部分に関しては、主屋1階/2階の座敷部分が、遊び心がある設えだったのに対し、パブリックな迎賓棟であったためか、正統派の書院造りとなり、”蟻壁”を設けることより、天井部分が高く設けられている錯覚を与えることにより、非常に開放的なイメージとなります。

なお、この青山荘の一番魅力的な部分が座敷から眺める庭園部分。
この部屋から見える松の木は、こちらも大磯から移設したもので、邸宅が解体されたのちも遺されました。
なお、庭園のトータルコーディネーターは、根津嘉一郎が自ら行い、天気の良い日にはここから富士山を臨むこともでき、まるで邸宅から大磯の海を眺めているような錯覚に陥ります。

❏茶室 燕子花|《かきつばた》
青山荘の奥には、根津嘉一郎好みの茶室、燕子花も復元されています。こちらに関しては、奇をてらったもののない正統派の茶室となります。


❏編集後記
根津記念館は、寄贈当初は大変痛みの多い状況でしたが、見事に復活します。工事前から、ボランティアの方により管理がされており、邸宅公開後の管理も、彼らの手で管理されており、邸宅についてのガイドなどは事前に予約をすれば聞くことができます。
改めて、市民の方と文化財の関わりを強く感じました。
