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わが心の近代建築Vol.79 西郷従道邸(東京都目黒区→博物館明治村)

みなさん、こんにちわ。
今回も、博物館明治村に保存された、西郷従道邸について記載します。明治村関連の建築として自身が扱うのは、坐漁荘、柴川又右衛門邸に次ぐ3件目になります。

『ボンジュール ジャポン フランス青年が活写した1882年』
朝日新聞社 1998年

≪施主・西郷従道≫
西郷従道(1843~1902)について記載すると、は、薩摩藩の下級武士・西郷吉兵衛の3男として生まれ、兄の隆盛とは15歳も年が離れた兄弟でありました。
兄の影響で、そんのう鳥羽伏見の戦いなどに従軍、1869年には長州藩の山縣有朋とともに、軍制などの視察のため渡欧し、近代化を図り1874年に台湾出兵を命じられ、成功をおさめ第一次伊藤博文内閣で海軍大臣に任命されて以降は、海軍の地位向上に努め、山本権兵衛を後継者として、「薩の海軍」を築き上げました。

施主 西郷従道
【Wikipediaより転載】

≪邸宅建築の経緯≫
まず、この邸宅ができた経緯として、征韓論(明治6年の政変)い敗れた兄の隠居先として、台湾出征成功の報奨金で、東京都目黒区の豊後国の竹田城主 中川修理大夫の抱屋敷(現・西郷山公園/菅狩公園付近)の土地を購入。現在は高級住宅街として名高いこの地域も、当時は、樹木がうっそうと生い茂り、池には三田用水から水を引くなど、林泉の美しさは近郊随一との呼び名も高かったです。残念ながら、西郷隆盛は、1877年の「西南の役」で没したため、この邸宅に住まうことはなく、西郷従道は、この邸宅を別邸として使用しました。まず、洋館が1880年に建てられたのち、1889年には明治大帝の御行幸に併せ、大広間のある和館もつくられることとなります。

西郷従道邸 和館部分
『郷土目黒 19』より転載

また、庭園部分も、1937年の『日本庭園史図鑑』を見ると…
「三田用水から水を引いて2段の大滝あり、大・中・小3つの池あり、出島や中島あり、広大な芝生あり、これを屏風のように樹木が斜面に林立し、四季の変化も素晴らしい雄大な眺めで、風趣にとんだものであった。その上、隆盛が島津斉彬に江戸で最初に仕えた時の役がお庭番だったからであろう、隆盛に仕えた下僕永田熊吉は、京都で庭師修行を受けていたので目黒庭園(西郷従道邸)を修作っし、鶴の噴水、石灯篭、石橋などをくわえ、日本庭園としての美を備えるようになった」と記されています。

『日本庭園史図鑑』有光社 1937年

また、当時の西郷従道邸は、「其七通りまでは麦、桑、野菜畑にして、建物としては西洋館1棟、日本造屋1棟に過ぎず(中略)邸内には、七面鳥、鶏などを飼育し、牛を飼いてその乳を搾り、純然たる農家の生活にして、華族の別邸としてはドーとしても思はれず、」と記載され、きわめて放牧的で田園的なものだったことが推測されます。

≪従道亡き後の邸宅≫
西郷従道邸は、1928年に箱根土地分譲株式会社(西部の前身)が南平台町・丸山町・神泉の土地28万5千坪が西郷山として開発分譲され、1940年に敷地の多くが東京KK(東京電力)に譲渡。
更にその中の敷地が1941年に東京急行に売却、更に残る土地も1941年に東京市に譲渡、邸宅は1943年に日本国有鉄道に売却。
和館は空襲で焼失し、太平洋戦争後は國鉄の職員邸宅や国鉄スワローズの選手合宿所に使用。
その後、洋館部分と、当時名古屋鉄道が保持していた元・山手線の蒸気気動車ホジ6014号との等価交換したものになり、博物館明治村が1964年に開村したのにちなみ、愛知県犬山市で移築保存されました。

西郷従道邸と等価交換されたホジ6014号
名古屋市 リニア鉄道間で展示中【Wikipediaより転載】

≪邸宅について≫
邸宅設計は1883年に竣工しますが、洋館に関しては、欧州視察を行った際、諸国の貴族が自身の邸宅を社交/政治の場として使用したのに倣い、洋館部分を接客/来賓の場として使用。
設計にはフランス人建築家のレスカスと日本人棟梁の鈴木孝太郎氏が担当。
特にレスカスは、日本が地震大国であることに着眼。
邸宅のいたるところに地震対策がされているほか、室内も、自身が建築金物を扱っていたこともあり、多彩な舶来品で設えており、明治大帝は洋館部分から相撲菜祖を観戦、皇后陛下に関しては従道が後援していた養蚕技術の改良成果を観覧されました。

≪たてものメモ≫
●竣工:1883年
●設計:Jレスカス 棟梁 鈴木孝太郎
●文化財指定:国指定重要文化財
●写真撮影:可
●入館料:2000円
●交通アクセス:
名鉄犬山線「犬山駅」より岐阜バス 明治村線「明治村停留所」より徒歩1分
●参考文献
 ・西郷従道邸内の展示パネル
 ・鈴木博之監修「元勲・財閥の邸宅」
 ・博物館明治村編集「博物館明治村 ガイドブック」
 ・https://daikanyama.life/ Daikanyama.Life西郷従道邸のこと
など

≪外観部分について≫
Ⅰ:玄関正面部分

迎賓館としての玄関としては、玄関ポーチがつくくらい、しかもポーチ屋根部分に関しては、梁だけという非常にシンプルなものですが、この理由として、西郷従道邸は和館部分から入るため、このようにシンプルなデザインになっています。

正面写真

Ⅱ:側面部分について
邸宅側面部分を臨むと、屋根は通常の邸宅に比べて非常に浅くできており、2本の煙突が見えます。1階ベランダから庭園に降りられる階段が備えられていました。
なお、この邸宅の屋根が低い理由にはレスカス自身が、この邸宅を設計した際、地震の対策の為でもあります

側面部分の写真

Ⅲ:ベランダ部分から臨む写真
次に、ベランダ部分から邸宅を臨むと、1階と2階部分には同じ感覚で柱が走り、2階部分からは、明治大帝が御行幸時には、この2階部分から庭園部分で行われる相撲などを愉しまれたことが伝わっています。
御行幸の際には相撲以外にも薩摩踊りなども披露された、とのことです。

ベランダ部分を臨む

Ⅳ:2階ベランダ部分の拡大写真
2階ベランダ部分の外観がこの邸宅の外観の最大の見どころであり、破風部分にも切り抜きの板飾りが取り付けられたほか、屋根飾りや柱頭上部、ベランダの手すりなど、非常に細やかな装飾がなされ、全体的にシンプルではあるものの、この邸宅に関わった方々のスキルの高さを伺い知ることができます。

2階部分の装飾などの拡大写真

≪邸宅に施された地震対策など≫
Ⅰ:1階基礎部分

これは、西郷従道邸全体的な話になりますが、屋根などを軽量化。その一方で、1階の壁には高さ1mの煉瓦材を充填して、邸宅の下部/基礎部分に重さを持たせて、上部を軽くして重心を安定させています

1階 壁面部分に充填された煉瓦材

Ⅱ:屋根部分/垂木の省略
先述のように西郷従道邸の屋根高は浅く設えていますが、地震対策として、他暦を省略化。母屋に直接野地板を打ち付けることで、軽量化を図り、これにより、邸宅の屋根が浅くなっています。

垂木のない屋根部分

Ⅲ:屋根部分/銅板葺き
それ以外にも、屋根部分に関しては、瓦を使用せず、銅板葺きとすることで、屋根の軽量化を図り、邸宅間に安定感を持たせました。
これが、この邸宅が、関東大震災などの地震災害を乗り越える大きな要因になりました。

銅板葺きの屋根

≪平面図から≫
なお、平面図を見ると、南面に玄関を持っていき、西側にベランダと展望台。基本的に南面にはパブリックな部屋、北側にプライベートルームを配し、玄関部分にはメインの階段を。
裏側動線に小階段を配した造りで、室内の割り当ては、基本的には1階、2階とも同じ配列となっています

平面図
【邸宅前展示パネルより転載】

≪邸内について/1階部分≫ 
Ⅰ:中央ホール部分

中央階段に関しては、この邸宅のメインになる場所ですが、らせん階段に関しては、フランスより直輸入されたものになり、バラされて出荷ののち、この邸宅の建築現場で再度組み直されたものとなります。

中央ホール部分

Ⅱ:1階 客用食堂部分
ベランダに接した部屋となり、特徴として、中央部分にはモールディングが入り、天井は格天井となっていますが、これらは白漆喰の仕上げではなく、鉄板を加工したもので、竣工当時では白漆喰で設えるよりも高価な仕上げとなります。

1階 客用食堂部分

また、照明部分を見ると、天井飾りには通風のための穴が付けられ、格天井部分には、細やかな装飾が付き、非常に手の込んだ設えとなっています。

1階 客用食堂の天井飾り

Ⅲ:1階 応接間/再現食堂
こちらの部屋は、先述の食堂部分と同様、1じゃ売バルコニーと接続し、窓はベイウィンドウ、蛇腹式のモールディングが付けられ、白漆喰を使用。写真奥側の扉はそれぞれ、夫人室とホールに繋がり、左側の扉で客用食堂と仕切り、大きな催しなどには、2つの部屋をつなげて使用。
食器類は、名古屋のノリタケ製。家具類は実際に赤坂離宮で使用されたものを使用し当時の室内を再現。家具類の皮部分はドイツで貼り直しています。

1階 応接室

Ⅳ:1階 夫人室
主人たちが政治談議などを行う間、夫人たちは、こちらの部屋で裁縫など女性ならではの会話を行い、そのためか、モールディングや暖炉などは、応接間や食堂に比べてシンプルなものを使用。
暖炉に関しては、応接間と背中合わせでつけられています。

1階 夫人室

夫人室にある椅子は日本製。
ダルマ椅子と呼ばれるもので、当時の日本人女性は着物が大半で会ったため着物でも座りやすいよう、背もたれを改造したものになり、椅子には螺鈿細工が施されたものとなります。

夫人室のダルマ椅子

Ⅴ:1階 書斎
こちらの部屋は、西郷従道の書斎に利用され、新聞記者らもこの部屋に滞在し、西郷従道に取材するなどとして利用。
また、右側にはニッチが付けられ、窓枠のカーテンレールはフランス製となっています。
また、室内は、今までの各部屋がモールディングが付く形になっていましたが、非常にシンプルな造りとなります。

1階 書斎

また、書斎右側にある書斎ですが、こちらに関しては実際に西郷従道が使用したものが寄贈されました。

書斎 書棚部分

Ⅵ:1階 男子勉強部屋
2階 東側部分にも個室がありますが、ゲストルームとして使用。
1階 男子勉強部屋で、竣工当時、どのように使用されたかを再現しています。

1階 男子勉強部屋

≪邸内について/らせん階段~2階部分≫
Ⅰ:らせん階段部分
らせん階段は、レスカス氏がフランス本国から輸入したものであり、邸宅建設時に現地で組み立てられましたが、親柱、手すり子の細やかな装飾、そのカービングなど、非常に計算しつくされたものになっています

1階 らせん階段

2階 階段ホールから階段部分を臨むと、柵で締め切ることができ、1階部分と2階部分を区切る設えになっています。

2階 階段ホールの柵部分

また、2階部分より階段部分を臨むと、手すりの継ぎ目に関しても階段の段差にあわせて計算されており、階段段差部分も手すりに併せ、同じ幅となっています。

2階ホールより階段部分を臨む

Ⅱ:2階東側部分について
2階東側の各部屋についてはゲストルームとして、寝室に充てられ、各部屋とも1階にみられるような室内になっていたと推測されます【内部非公開】

2階 ゲストルーム

Ⅲ:2階 応接室部分
1階 応接間(復元食堂)の上部にある部屋で、かつての室内が再現されています。
なお、カーテンボックスに関してはフランス製の復元されたものを使用。椅子などの家具類に関したは、赤坂離宮で使用されたものとなり、暖炉上のガラスに関しては、ベランダに面しており、明り取りのために設えられました。

2階 応接室

なお、こちらの暖炉に関しては瀬戸の本業窯で実際に焼かれたもの。暖炉のデザインとしては鳥居をイメージして…
  ・中央部分:天橋立
  ・右:松島
  ・左:安芸の厳島神社
の日本三景が描かれ、邸宅にいながら、それらを味わえる、という意匠が込められています。
なお、時計に関しても舶来品を展示しています。

応接間の暖炉部分

また、天板部分を見ると、仁保の松原が描かれており、子の暖炉に関しては、豪華さを見せる以外にも、邸宅を訪問した書外国人に日本の技術力の高さを魅せる、という意味合いも非常に強いものでした。

暖炉の天板部分

また、この室内の家具類に関しては大変貴重なものが使用されており、ソファーは、実際に明治宮殿で使用されていたもの。
足元には螺鈿細工が施してあり、龍紋を描いた布地になっています。
明治宮殿に関しては、大戦末期に空襲を受け焼失。
昭和大帝は現宮殿ができるまで、宮内庁を住処としましたが、そういった意味でも大変貴重なものとなります

2階応接間のソファー

ピアノに関しても、宮中で使用されていたもの。
可動式の燭台(ろうそく立て)、鍵盤は象牙で明治42年の日本楽器(現在のヤマハ製)になっています

2階応接間のピアノ

Ⅲ:2階 居間部分
こちらは1階客用食堂の上部に当たる部屋。
ホール部分から臨むと、ニッチ(窪み部分)は、かつてはストーブが置かれた跡となります。

2階 居間(ホール部分から臨む)

また、ベランダ側から臨むと左側に見える長椅子に関しては、かの鹿鳴館で使用された長椅子と言われており、武井見える部分は疑竹(木材を竹に似せたもの)になり、螺鈿細工が施されるなどされています。

2階居間 ベランダ側から臨む

Ⅳ:2階ベランダ部分
明治大帝は、御行幸時に、この部分に腰かけ、ここから芝生で行われた相撲や薩摩踊りを愉しまれました。
また、手すり部分など、非常に細やかな装飾が付けられ、特に天井部分は1階客用食堂と同じく、白漆喰ではなく、鉄板に型押した鉄板天井で、舶来のもの。
また、足元には傾斜が付けられ、降水時など、水はけをよくするための配慮がされています。

ベランダ部分

2階ベランダからの外観は、明治村初代館長の谷口吉郎博士の設計コンセプトになりますが、入鹿池などの自然を活かし、かつての邸宅から見える外観を想像して作られており、ここから、竣工当時、西郷山がどのように見えたかを偲ばせてくれます。

2階ベランダからの景観

≪編集後記≫
この邸宅は、邸宅さることながら、明治期を見つめてきた家具類が所狭しと保管されており、ガイドツアー時に実際に生で座ったりでき、大変貴重な生きた文化財となります。
末永く明治村が大切にされることを願います。

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