★わが心の近代建築Vol.10 旧朝倉家住宅/東京都渋谷区
みなさん、こんにちわ。
今年は、新しく内容を更新するのみではなく、過去投稿も随時修正していくことを決めていましたが、なかなかできず…
過去の投稿した東京都渋谷区にある旧朝倉家住宅の記事を修正します。
【三田用水と旧朝倉家住宅界隈】
まず、朝倉家は現在の代官山ヒルサイドテラス脇にひっそり建ちますが、この界隈は、かつては三田用水が流れ、土地の形状柄、崖の上を縫って流れるような形で作成され、尾根筋を選んで掘削されました。
なお、旧朝倉家住宅は西渋谷丘陵上にあり、この界隈はかつて、富士山を見られる名所としても広く知られ、安藤広重の作品にも残されています

「歴史を訪ねて 浮世絵に見る目黒」から転載
【旧朝倉家住宅の歴史】
旧朝倉家住宅は、東京府議会議員などを務めた朝倉虎治郎氏の邸宅として1919年に、大工棟梁・秋元政太氏により竣工します。
邸宅は、丘陵の高低差を活かして造成され、1923年の関東大震災で土蔵の漆喰が崩落し鉄筋コンクリートに建て替えられたものの、邸宅はほぼ無傷の状態で残りました。

1944年に朝倉虎治郎氏が亡くなったあと、相続税などの問題から朝倉家は邸宅を手放し、1947年に中央馬場会に売却。GHQから中央馬場会は解散命令を受け、1957年には経済産業省の前身にあたる経済安定本部の官邸として利用ののち、1964年からは渋谷会議所に名前を改められ使用され、周囲も槙文彦氏によりヒルサイドテラスが造成されました。
1995年から5年かけて修繕され、2004年に邸宅が重要文化財に選定されたのち、2008年から庭園含め、一般公開されるに至ります。

(Wikipediaより転載)
【施主 朝倉虎治郎氏とヒルサイドテラス】
❏施主 朝倉虎治郎
施主 朝倉虎治郎(1871~1944)は愛知県碧南市の杉浦家の次男に生まれ、小学校を5年で中退したのち、深川の材木商で丁稚奉公人として勤務したのち、1897年に朝倉家に入婚し1899年に家督を継いで精米業を営みます。
その傍ら、1904年に養父・徳次郎の跡を継ぎ、渋谷町会議員に選出。1915年には東京府議会議員に選出され、家業一切を実弟に譲ります。
自身は議員以外に木造アパート住宅の提供を1935年から行い、1936年には息子の精一郎氏が合資会社の猿楽興行を設立します。1943年に戦時中の米配給制に伴い、精米業を廃業したのち、1944年に虎次郎はは病没します。

<邸内展示パネルより転載>
❏代官山ヒルサイドテラス
朝倉家は邸宅こそ喪うものの、保持していた土地と資産を護り、1967年には建築家の槇文彦氏とともに「代官山集合住宅計画」をスタートさせ、1969年に孫の徳道氏により朝倉建設株式会社を設立させます。
同年、ヒルサイドテラス第一期が完成し、徐々に造成を繰り返し、現在のヒルサイドテラスが形成されました。

Wikipediaより転載
【たてものメモ】
旧朝倉家住宅
●竣功年:1919年
●設計者:棟梁 秋元政太郎
●文化財指定:国指定重要文化財
●入館料:大人500円
●交通アクセス:
・東急東横線〝代官山〟駅より徒歩5分
・JR山手線恵比寿駅より徒歩10分
●写真撮影:可(但しフラッシュ厳禁で、商用使用厳禁)
●参考文献:
・鈴木博之監修「東京の歴史的邸宅散歩」
・大林寛明著:重要文化財 旧朝倉家住宅
・旧朝倉家住宅HP
など
●留意点:
この邸宅においては、様々な意匠があり、理解するのには非常に難易度が高いですので、是非とも事前連絡し、ガイドツアーを受けることを強くお薦めします(開催日については電話などで要確認)
【朝倉家住宅外観について】
❏表門部分
表門は、旧朝倉家住宅時代から使用されていたもので、経済安定所の渋谷会議所を経て、現在まで使用されています。
門の上部の部分には、経済安定所の名残として写真左側の門柱部分に「渋谷会議所」と記載されています。

❏車庫
邸宅の脇に大きな建物が見えますが、車庫として使用され、のちに管理棟に改造されたものになります。
詳細な痕跡調査により、竣工当時からのものと判明。修繕工事を受け、創建当時の姿に戻されました。
竣工当時の代官山は交通の便が悪く、市街地化が進む当時の東京では、自動車は必須アイテムになっていました。

内部を見ると、外観部分は和の設えでありながら、屋根を支えるトラス構造が採用され、コンクリートの土間や両妻の内側の波型鉄板など、竣工当時に普及し始めた材料をふんだんに使用しています。

【土蔵部分】
土蔵は関東大震災で漆喰などが倒壊したため、のちにRC造りで再建されました。現在、土蔵には4段の水切りと74個の折れ釘が付けられ、主屋とは内扉を通じて繋がっています。

【主屋外観について】
❏主屋正面部分
旧朝倉家住宅 主屋は、屋根は瓦葺で、外壁は下見板張り、所々に漆喰を塗られた様式。
近代和風建築の特徴をよくとらえており、第一級品の材木と当時最高峰の職人のスキルが注ぎ込まれた建造物になっています。表玄関は重要な来客時や主人用に使用され、家族は脇にある内玄関から出入りしました。

屋根部分は、大きなアールを描いた傾斜の強いむくり屋根になり、屋根瓦は朝倉虎治郎氏の産まれた三河国(現在の愛知県)で製造された三州瓦を使用しております。
鬼瓦部分は朝倉家の家紋に当たる「丸に木瓜」があしらわれています。

❏庭園側から臨む
邸宅を南面から臨むと、雁行型となり、庭園部分は西渋谷丘陵の地形をうまく生かし、現在も周囲のサラリーマンの目の保養場として人気が高く、四季折々、様々な意匠を愉しむことができます。

❏角の杉の間から邸宅を臨む
過度の杉の間は、徳治郎氏が最も愛した箇所になりますが、この部屋で地域住民と交流を図りつつ陳情を聴きました。
表にはお猪口のような手水鉢が仕掛けられているほか、朝倉家の当初の産業が精米業だったため、飛び石には石臼を使用した箇所があります。

【平面図】
主屋部分は、現在は、東側に玄関部分があり、玄関より北側にに洋間、南側に応接間を持ち、2階部分は西に15畳の座敷、東側に12.5畳の次の間を備えています。
1階第一会議室は、東側から寝室/中の間(居間)/仏間に分かれていましたが、渋谷会議所時代に大きく改変されました。
西側部分は中庭を挟んで北側は居住スペース(現在非公開)になります。
南西側には「杉の間」と呼ばれ主人用の室内が3部屋連なり、西側に茶室と土蔵を配しています。

旧朝倉家住宅 解説パネルより転載
【1階部分について】
❏表玄関部分
朝倉家の正式の玄関部分で、来賓時のみに使用されました。
邸宅との扉部分には、かつては武家建築のみ使用が赦された舞良戸を使用。
天井は格天井になり、柾目の杉板の杢目を交互に組みあわせています。式台部分はクスノキの1枚板が使用されています。

❏内玄関
家族用玄関のため、表玄関に比較して簡素に作られていますが、天井板には柾目板が使用された竿縁天井、靴脱石が置かれた豪華な造りになります。
令孫の徳道氏によると、連日、虎次郎氏のもとには数多くの陳情客が訪問し、内玄関はその靴がびっしり並んでいたそうです。

❏応接室
朝倉家住宅では2番目に格式高い部屋になり、主に家族会議などに使用されました。そのためか、正式な書院造の佇まいで、障子部分は金泥粉がまぶしてあります。
床柱は杉の細目の四方柾(四方どこを見ても柾目になっている、非常に珍しい木)が使用され、天井板には屋久杉を使用され、竿縁天井は角を面取りしています。

書院欄間と襖の縁は黒漆が塗られ、書院欄間にはシュロと水流が描かれています。下部の組子に至ってはさらに細やかな造りになっており、この邸宅に関わった大工さんの高いスキルを垣間見ることができます。
襖には、「馬上貴人の狩り」が描かれています。

応接室は先述のように2番目に格式の高い部屋のため、地袋と違い棚が付けられています。地袋の襖絵には松林と迦陵頻伽が描かれています。迦陵頻伽は、仏教において極楽浄土に住むとされる、上半身が人で下半身が鳥の想像上の生物になります。
床板と違い棚には1枚物の貴重な木材が使用され、筆返しも付けられています。
また、床柱・長押ともにケヤキの四方柾が使用され、木目も細かい大変貴重なものとなります。

❏応接間側のトイレ
右側のガラスは、結霜ガラスになります。
当時のガラスは非常に高価だったのに対し、この部屋のものは、更に手の込んだものになっている点から、朝倉家の財力を伺い知ることができます。奥側の流しには蛇紋岩という高級品が使われています。

❏洋間
朝倉家住宅唯一の洋間になります。当時の資産階級では、応接のための洋間を持つことが一種のステータスで、俗に一間洋間と呼ばれました。
朝倉家では、玄関わきに応接用の部屋として設け、商売に関わる来客対応や執事の事務用の部屋に使用。天井部分は洋間でありながら、和風建築で最上級の折上格天井になります。

中央部分には洋風建築で多用されるアーカンサス(葉アザミ)の装飾が付けられています。これに関しては、西洋のものとは違い日本の職人が作成したもののため、他の邸宅とは違った意匠になります。
現在は蛍光灯が付けられていますが、もともとは、天井飾り部分にはシャンデリアが付けられていました。

窓側を見ると、洋間の窓は西洋式の上げ下げ窓になり、内部には分銅が入り、ちょうどいいところで止まる仕組みで、この部分で使用されるワイヤーは竣工当時のものになります。

洋間に使用されている扉に関しては、一見すると1枚板のようにみえますが、この部分は非常に見逃しやすい部分ですが、職人の超絶技法が用いられており、杢目に併せ、2枚の板が使用されています。

❏事務室
内玄関から見て、通路を隔てて洋間の反対側に位置する部屋は、事務室として使用されました。そのため、造り付けの金庫類が置かれ、室内に関しても、バックヤード部分にあたるので、他の部屋に比較して質素に作られている一方で長押が回る、といった手が掛けられた室内になります。

金庫の反対側は写真隙間の上に棚が置かていますが、棚の下にも金庫が置かれていたことが推測されます。また、写真左側は、こちらが事務室という性格上、電話が置かれて朝倉家の執務に使用されました。

❏第一会議室
こちらの部屋は、朝倉邸時代は西側から仏間/中の間(居間)/寝間が、庭側には廊下が置かれていました。朝倉家の手を離れたのち、改造を受け現在に至ります。
当時の面影を残すものとして、この室内の柱は、各部屋を分けていたものの上に、かぶせて作られたものになります。

❏納戸
第一会議室の一番奥側の部屋は何度として使用されました。ここは納戸としての用途以外、虎治郎氏の帰宅が遅くなった際、居室としても使用されました。
そのためか質素な室内ではあるものの、長押が回っています、

❏中庭
納戸部分から中庭を見ると、手前側に石臼のようなものがありますが、先述のように朝倉家はもともと精米業で財を成した邸宅のため、それを象徴する石臼が庭園の随所に使用されています。
中庭を隔てて反対側にある建物は、食堂などのバックスペースとして使用されました。

❏角の杉の間
一見すると数寄屋風に見えますが、床柱は角材が使用され、長押も回されており、杉の間3部屋の中で一番格式の高い室内となります。木目部分は先述の杉の間(表)同様の浮造りなものの、こちらは柾目材が使用されています。
なお、孫の徳道氏によると、虎治郎氏が最も気に入った部屋とのことです。

平書院の欄間部分には、柏の葉とヒレンジャクが描かれており、これらはめでたいものとされており、特に柏の葉は、古い葉を残して生え変わる事から、施主と子孫の繁栄を意味した非常にめでたいものになっています。

天袋には林檎の花が描かれていますが、「自然との調和」などの意味があります。なお、天袋の底板には屋久杉が使用されるなど、さりげない銘木を使用しています。
地袋部分には「伎楽面カルラと横笛」が描かれています。カルラとはガルーダの別名になります。
これはインドネシアの国旗にも示されている戦いの神で、無病息災の神として非常に人気が高いといます。

違い棚は、筆返しが付けられていますが、これがあることにより、筆などを置いた際に落下を防げるようになっています。海老束部分には、朝倉家の家紋、「丸に横木瓜」がさりげなく描かれていますが、1枚板に彫刻を入れる、少しのミスの赦されない箇所で、個々からも建築に関わった大工の方のスキルを伺い知ることができます。

❏杉の間(表)
この部屋は3部屋のうち縁側に面し、虎治郎氏は、縁側に腰かけ、地域住民の方の陳情を聴き語り合ったことが伝えられています。
釣り床になっており、書院もなく数寄屋風の意匠になっており、虎治郎氏はここでくつろぎながら地元住民の方々と話された事でしょう。
また、治郎用に、すぐに「角の杉の間」へ行けるよう、直通の出入り口が備えられています。

この部屋の床柱や鴨居などは、個性的な木目の板目材が使用されています。
木目を際立たせるため、やすりで木目を浮き立たせる浮造りと呼ばれる技法が用いられていますが、座敷で使用される例は全国的に見て稀有な存在となります。

❏杉の間(奥)
こちらは主に陳情客の方との打ち合わせに使用されました。
(表)の次の間に該当し、数寄屋風にあしらわれており、床柱は杉の絞り丸太、書院部分は、茶室で多く見られる連子窓、床板には2畳大サイズの巨大な松の一枚板を、「踏み込み板」として使用します。

地袋の小襖部分は銀を貼り付け、床板には松の一枚板を使用しています。
松の床板に小襖の溝を直接削ったもので、失敗の赦されない、非常に難易度の高いものになっています。なお、小襖天井部分には見逃しがちですが、網代が組んでいます

❏茶室
四角の窓は「方形隅切り花頭窓」と呼ばれるもので、開放的な茶室になっています。床柱は、釣り床となり数寄屋風の造りになっています。この部屋部分の窓からは庭園が見え、朝や夕暮れ時、通称マジックタイムには庭園の木々のシルエットが映し出され、幻想的な意匠になっています。

❏茶室(次の間)
各窓の部屋に対し、次の間にあたる茶室になります。
こちらは丸窓になっており、踏み床で床柱は自然木を使用した野趣に溢れる部屋になり、茶室の「次の間」などに利用されました。

【2階部分を臨む】
客用階段部分
2階へ向かう階段には、応接室前の大階段と、納戸脇の階段がありますが、来賓者は応接室部分の階段を使用しました。
こちらの階段には、来賓用のため、寺社建築で見られる鵜な意匠が付き、写真右側には入側が設けられ、板戸絵が飾られています(通常非公開)

❏和室(奥)
施主 虎治郎氏が来賓者をもてなすための準備室として使用した部屋。床柱には、どの方向を見ても柾目になる杉材の四方柾になっていますが、炉は切っていない状況です。。
また、床の間部分は一見すると水屋風になっていますが、実際には排水できないようになっています。

❏和室(表)
和室(奥)と壁を隔てて作られた部屋になります。虎治郎氏は、こちらに来賓者を招き、お抹茶を提供しました。
床板は踏み床を使用。床柱には杉材の絞り丸太を使用し、連子窓を採用しています。

❏広間(次の間)
12.5畳の部屋。
広間は2つの和室が連なっていますが、手前側が「次の間」になります。
天井部分は柾目板を交互にはめ込んだ格天井になります。
なお、奥側の座敷と分けて使えるように、こちらにも床の間を設けています。壁部分は、内法長押の上に、更に長押を置くことで、格式の高さと空間の広さを表します。
また、広間全体の襖絵には桜が描かれ、庭園部分に桜がない点を襖絵で賄っています

広間と座敷の間の欄間は機織機をイメージした筬欄間になり、広間で催しを行う際、大人数の場合は、襖を取り払い、1つの部屋に変更することができます。

❏広間(座敷部分)
15畳間となり、旧朝倉家住宅で一番格式高い室内になります。
天井部分の構造、室内の壁などに関しては広間(次の間)と同じですが、平書院と通常の書院、2つ設けるなど、明らかな格式の差を設けています。

床脇を見ると天袋と地袋には扇が描かれていますが、扇は縁起物で末広がりの意味があります。平書院は、寺社仏閣建築で多く使用される火灯窓になり、周りには山の絵が描かれ、竣工当時は火灯窓を空けると富士山を眺めることができました。

❏入側
入側は、広間全体にわたり作られており、数寄屋的意匠になります。軒桁は貴重な1本物のしぼりまるたがしようされており、貴重な木材をふんだんに使用しており、まさに迎賓施設に相応しい意匠になります。

❏入側から庭園部部を臨む
2階から庭園を臨むと、低枠脇には目黒川が通り、西渋谷丘陵を活かした景観になります。現在、首都圏の庭園で、ここまで残された例は稀有な存在であり、在りし日の朝倉家の状況を伺い知ることができます。

【編集後記】
朝倉家住宅は渋谷区…代官山の一等地に保存されていますが、邸内は竣工当時の最高級品の木材と第一級の職人の方々のスキルが融合した、まさに近代建築を代表すると言っても過言ではない建造物になります。
庭園を含め、日本屈指の名所のため、東京に来られた際には、是非とも味わってほしい場所になります。
