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★わが心の近代建築Vol.2 豊門公園(旧和田豊治向島邸宅)/静岡県駿河小山

皆さん、こんにちわ!
今回は第2弾として、先日訪問しました、静岡県駿河小山にある、豊門公園にある2つの建物を中心に記載します。

小山町おやまちょうについて】
小山町こやまちょうは、静岡県東部に位置し、神奈川県 山梨県接し、面積の65%が森林で占められ、富士山の裾野の湧き水も豊富なことから、標高の高さにもかかわらず、棚田による稲作が盛んな地域になります。
明治期には、東海道線(現・御殿場線)の開通や、豊富な水源に着眼され、で、富士紡績が小山工場を進出したことで発展し、駿東地区では比較的早くから町制が敷かれ、現在は富士スピードウェイなどが置かれています

明治期の駿河小山に遭った富士紡績小山工場
(邸内展示パネルより転載)

【施主 和田豊治氏について】
和田豊治わだ とよじ(1861~1924)は中津藩(現 大分県)に生まれ、当初は医師を目指しますが、同郷の|小幡篤次郎«おばた とくじろう»のすすめで慶應義塾に入学し、卒業後に渡米し、甲斐商店などで職工として勤務します。
帰国後に日本郵船神戸支店に入社ののち、三井銀行を経て、鐘淵紡績かねがふちぼうせき(現 カネボウ)東京本店支配人に就任し、欧州の技術を導入し経営を立て直し、1911年に藍綬褒章を受章することになります。
和田豊治わだ とよじはそれ以外にも、富士紡績、理化学研究所などの創設に深くかかわり、その数は数十社を超え、渋沢栄一に続く大正時代の財界世話人として君臨しました。

和田豊治氏
(Wikipediaより転載)

豊門公園ほうもんこうえん設立の経緯】
まず、豊門会館ほうもんかいかんは、1909年に和田豊治氏が東京都墨田区向島に建てた別邸になります。
この邸宅は年老いた母親との生活のために設けられ、室内には母親のために設けられた個所が幾つもありますが、和田豊治わだ とよじ氏は孝行息子としても広く知られました。

和田豊治の家族写真
(邸内展示パネルより転載)

邸宅は明治期の邸宅の特徴である和洋並列式わようへいれつしきがとられ、その当時の上流階級の邸宅事情をよく伝えいます。
邸宅は高橋是清邸などと同様に、総栂普請そうつがぶしんで造られたたほか、庭園が広く設けられたため、関東大震災の大火から難を逃れることができたほか、同じく東京の下町を襲った1945年3月10日の東京大空襲でも、すでに小山町に移築されていたため、難を逃れることができた奇跡的な邸宅になります。

竣工当時の豊門会館
PDF『富士紡と文化遺産』より転載

和田豊治氏亡き後、氏の遺言から、静岡県駿東郡小山町に移築され、町民や町の協力を得て、移築復元しました。
移築された別邸以外、西洋館、噴水などが設けられ、豊門公園として整備されます。
豊門ほうもん」の名の由来は、富士紡績の携わった和田豊治氏の「豊」、富士紡績の3門と謳われた森村市左衛門もりむら いちえもん日比谷平左衛門ひびや きちえもん浜口吉右衛門はまぐち きちえもんの「門」からとられたことが伝えられています。
豊門公園は、富士紡績社員の福利厚生施設のほか、市域住民の慰安の場などに用いられたのち、2004年に小山町に譲渡され、2005年に公園全体が登録有形文化財に選定され、一般公開されています。

【たてものメモ】
豊門会館
●竣工年:1909年(移築:1925年竣工)
●文化財指定:登録有形文化財
●休館日:毎週火・水曜日、年末年始
●入館料:¥300
(他に貸切期間があるので行く前に小山町に確認を)
●交通アクセス:JR御殿場線「駿河小山」駅より徒歩25分
●参考文献など:BS朝日放映「百年名家」など

【豊門公園内の施設について】
❏正門部分

豊門公園開園時からの門で、高さ1.7mのRC造柱を左右に配し、その外側に曲線平面の袖壁を付けています。
笠石には江戸切仕上げの大型の花崗岩が用いられ、モルタル洗出の柱身には、石詰風の目地を等間隔に入れた重厚な造りになっています。

正門を臨む

❏豊門公園和田君遺碑
和田豊治の生前の功績をたたえて作られたもので、高さ3mの花崗岩の石造物になります。角を丸めた1.5m四方の台座に碑紋を刻印した円柱を載せ、さらにその上に宝珠を戴く三層の屋根型を載せた、建築的なモチーフを取り入れた、朝倉文夫案による独特な意匠になっています。

豊門公園和田君遺碑を臨む

❏噴水塔
豊門公園の中央部分に位置し、1925年の開園時に作られ、半径5mの半円形のRC造りになります。両端をモルタル洗い出し仕上げにして、石積風に目地を入れた角材を配しています。

噴水塔

❏西洋館
豊門公園の開園に併せて造られ、富士紡績社員の研修施設などに利用されました。この建物内部は、大きな改変を受けており、階段以外は当時の面影を残していません。現在、1階部分はレストランやクラシックコンサートなどの各種イベントスペースとして活用され、2階部分は富士紡績の展示施設などに使用されています。

西洋館

【豊門会館 外観部分を臨む】
❏正面部分

豊門会館は、竣工当時の上流階級の方の邸宅に多く見られる和洋並列型わようへいれつがたになり、写真左側に和館、右側に洋館を設えた形になります。和館部分は高橋是清邸と同じく、屋根が重なり、2階部分の天井も高く作られています。

全体を玄関部分から臨む

❏表玄関
和館の構造は、先述のように高橋是清邸に似ている部分はありますが、高橋邸と違い、車寄せ部分は無く、玄関は桟唐戸(さんからど)になっています。隅部分は反り返った形状になり、非常に手の込んだ形になります。

表玄関部分を臨む

❏洋館玄関部分
豊門会館は、小規模ながら洋館が設けられ、和館の右側に並列して建てられています。
簡素な造りながら、別に玄関が設けられたほか、窓は西洋風の上げ下げ窓が取り入れられ壁面はモルタル貼り、屋根はスレート葺きになっています。

洋館部分

側面を見ると、ベランダ部分の窓は四角型に張り出したベイウィンドウになり、テラス側からも表に出られる形になります。
こちらの窓も、正面部分同様、西洋式の上げ下げ窓を導入しています。

洋館 側面部分を臨む

❏裏側から臨む:
裏側から臨むと、建物全体が、採光に配慮された雁行型がんこうがたになります。洋館の背後はサンルームになり、この邸宅が竣工した当時のガラスは1枚1枚が手作りになっており、その価値は、非常に高価なものになります。

裏側から臨む

【平面図】
1階部分は各室内以外、バックヤード部分となります。洋館部分はひらやだてとなり、2階部分は、景観のための部屋となります。
建物の配置として、迎賓部分は採光の良い部分となり、プライベート部分は陽が差さない場所に配置されています。

平面図を臨む
(カタログより転載)

【1階部分】
❏玄関の間

玄関の間は、大きな沓脱石くつぬぎいしが目につきます。土間部分はモルタル磨き出しの四半敷き目地切りの土間になります。
天井部分は竿縁天井になり、通常の邸宅に比較し、非常に太い材を使用しているなどしています。天井板は柾目材をふんだんに使用した形になります。

玄関部分

❏広間
玄関前に掲げられているのは、澁澤栄一しぶさわ えいいち翁が書いた書になります。天井部分は、玄関の間同様、柾目板を使用した竿縁天井になり、竿縁部分も、通常の邸宅よりも太い桟が使用されています。
写真右側の扉は、応接間への入り口になりガラス張りとなります。

広間

渋沢栄一翁が91歳の時に著したもので「豊門会館」と記されています。和田豊治と渋沢栄一は古い繋がりがあり、渋沢栄一のまごの敬三氏が結婚する際に媒酌人を務めたこともありました。なお、この額が記された際には、和田豊治は既に鬼籍に入っていました。

澁澤栄一の書
(パンフレットより転載)

❏ギャラリー部分
広間右側の扉を開けると応接間として使用された箇所になり、現在は、和田豊治の足跡をしるしたギャラリースペースに用いられています。
この当時の和風建築では、旧安田楠雄邸庭園、旧朝倉家住宅に満たれるように、和館の中に応接間を設けることが多く、豊門会館もその例に漏れません。

ギャラリー部分(旧応接間)を臨む

❏洋間(1)
洋館の部分になりますが、シンプルな外観からは想像がつかない豪華な室内になっています。
天井が非常に特徴的で、室内全体が、スコットランドの建築家 アダム兄弟が広め、18世紀のスコットランドで流行したアダムスタイルになっています。室内や暖炉ばかりに目が行きますが、床の寄木部分も非常に美しく、竣工当時からのものになっています。

洋間(Ⅰ)を臨む

暖炉からも床材が非常に手の込んだ寄木張りになっていることが分かり、また室内のほかの設えと同様、暖炉部分や家具もアダムスタイルに統一されています。

暖炉部分

扉部分も手の込んだものになり、扉部分は一見すると絵が描かれて老いるようにみえますが、象嵌ぞうがんという扉部分彫刻を彫り込んだ意匠になります。扉の上部にはガラス欄間がはめ込まれた意匠になります。

扉部分

洋間(2)
洋間(1)とつながっている部分で、この先には、サンルームが設えています。家具類も和田豊治邸で使用されたものになり、写真反対側には四角形に切り取られた窓が設えた採光に配された室内となります。

洋間(Ⅱ)

❏サンルーム
先ほどの洋間(2)を抜けるとサンルームになっています。
こちらは竣工年こそ不明ですが、大正12年の園遊会の写真には写されていることから、大正末期には完成されていたことが窺えます。
この当時のガラスは大変貴重で、いかに和田家に財力があったかを伺い知ることができます。入口部分に木の床材が貼られており、タイル部分と大理石で区切られていますが、もともとは、和田豊治の母親が植物を育てるために作られた部屋で、タイル部分に植物を置き板の間でそれを眺める設えになります。

サンルーム部分を臨む

和室(1)
10畳の内向きの部屋になっており、ちょうど豊門会館のヘソの部分に当たります。この部屋は主人居室として利用され、薄縁式うすべりしきの床の間、床脇には違い棚、天袋、地袋が備えられています。床板、落とし掛けには栂(ツガ)材を使用し、床框《とこがまち》はウルシの真塗になります。
床脇はケヤキを用いており、天袋の小襖には、金もみ紙が貼ってあります。
なお、壁は、やや赤みがかった土壁塗りとし、天井高は9.4尺(2.85m)と高く、二重廻縁の竿縁天井になっています。

和室Ⅰを臨む

書院部分は、地袋が設けられた通常の書院で、書院欄間部分にはは、杉の柾目材の一枚板を使用しています。なお、透かし彫りにはに朝顔が描かれたもおになります。

和室(Ⅰ)の書院欄間部分

❏和室Ⅱ
北側に位置する8畳間の室内になります、天井部分は、和室Ⅰ、玄関部分と同じく柾目材の竿縁天井になります。壁部分は土壁塗りとなり、写真左側には、押し入れが設けた、いわばバックヤード的な室内となります。

豊門会館 和室(2)

和室Ⅲ
和室Ⅰとは違い、床の間が設けられているものの、平書院とし、床の間部分も平床とするなど、形を崩したものになりますが、天井部分は各部屋と同様の設えで、天井部分も各部屋同様、高く設けられています。

和室(Ⅲ)

❏1階部分から階段を臨む
階段手すりカーブは、1本の木を用いており、そのことから、相当太い材を用いていることが分かります。また、階段下方に蕨手(わらび‐て)という装飾がされており、個人邸宅、というよりも寺社建築に近いものになっています。

階段部分

【2階部分】
❏和室(Ⅳ)

8畳間の室内で、下の階の和室とは違い、数寄屋とまでは言わないまでも、崩した書院になっており、床板は1枚板を用いたものになってます。
この部屋は特に和田豊治の趣味を反映させており、かつては富士紡績の小山工場を観ることができました。また、壁の書については、幕末時代に活躍した、佐久間象山のものになっています。

袖壁は寺社建築で用いられる八掛(はっかけ)になっており、小襖部分から覗くと、柱部分に材が通っており、塗りで隠した意匠になっています。
また、のちの改造でガスが引かれガスストーブで暖を取ることができるようになっています。

袖壁部分

邸内に飾られた佐久間象山の書画ですが、勝海舟から富士紡績初代会長の富田鉄之助氏に譲られたものだと考えられています。
佐久間象山は土佐藩を代表する兵学者で、弟子には勝海舟や吉田松陰がおり、幕末を牽引した人物の一人となります。

佐久間象山の書

❏次の間Ⅱ
和室Ⅳと和室Ⅴの間には4畳間の次の間が設けられていますが、和室Ⅳと和室Ⅴ以外、階段、入側部分を通じて和室Ⅵにも通じることができる、2階のへそ部分になり、各部屋の通路となるほか、次の間としても使用されました。

次の間Ⅱを臨む

❏和室Ⅴ
10畳間の室内となり独立した部屋としてはもちろんのことですが、和室Ⅵの次の間部分としても活用されました。
各種イベントなどの際には、障子を取り払い、和室(6)と併せて一つの部屋として使用することが可能です。
欄間部分は筬欄間おさらんまとし、非常に細かい設えとなっているほか、和室Ⅵをのぞくことができ、来訪者の興味を誘います。和室Ⅴを臨む

和室Ⅵを臨む

❏和室(Ⅵ)
15畳間の室内になり、豊門会館で最も格式の高い部屋になっています。
設えも、他の室内と一線を画し、本格的な書院造となります。
中央正面部分に床が備えてあり、その両方に床脇が付けられています。
また、幅1間半の薄縁床の床框には黒漆塗りになっています。
天井部分に注目すると、柾目材を支える極太の竿縁には、角を落とした猿頬(さるぼお)という伝統工法が用いられています。
これは建物全体に言えることですが、栂(ツガ)普請ということもあり、柱という柱の木目には不思議な模様になっています。

書院欄間の上に掲げられている書は、勝海舟が著したものになっています。
六合山荘は、富士紡績初代会長の富田鉄之助氏が小山町に構えた住居の称号で、富田氏は、勝海舟の高弟でもあり、その関係から譲り受けた者となります。

書院部分

15畳間からの景観を臨むと、山々が見えますが、かつては府j機能席の工場が点在し、富士紡績の繁栄がこの街を大きく支えていたことを伺い知ることができます。
また、豊富な水源に恵まれた土地ということもあり、特に紡績関係には非常に好立地であったことを伺い知ることができます。


【編集後記】
豊門会館は、元々は向島にありましたが、もともと向島は別荘地として栄え、西園寺公望、岩倉具視らの別邸なども存在していましたが、関東大震災、そして東京大空襲、戦後の宅地開発でその殆どが失われてしまい、かつての姿はほとんど失われてしまいましたが、豊門会館は移築したことが幸いし、そのかつての向島の姿を今日に伝えている、数少ない邸宅となります。
これからも。この邸宅が末永く愛されていくことを願って止みません。

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