わが心の近代建築Vol.87 旧吉田茂邸/神奈川県中郡大磯町
みなさん、こんにちわ。
今回は、何度か記載しましてきました神奈川県大磯町の建造物より、現代史の大物中の超大物、吉田茂氏の邸宅について記載します。
旧吉田茂邸は、2009年の不審火で主屋が全焼しますが、神奈川県と大磯町で復元工事が行われ、2016年に一般公開されます。
キツツキが付けた穴などの経年による部分こそ再現されませんでしたが、吉田家から西武グループに所有が移り、神奈川県に譲渡される際に詳細な記録を残しており、それから再現されました。
≪施主 吉田茂について≫
吉田茂(1878~1967)は高知県に生まれ、東京帝国大学卒業後、28歳で外務省に入省。
外務省時代は各国大使を歴任し、パリ講和会議にも随員同行。各国からは穏健派の外交官として広く知られ、大使時代に各国要人と太いパイプを持ちますが、1939年に外務省を退官ののち、太平洋戦争中は、吉田反戦…
ヨハンセン・グループとして戦争終結に尽力し、近衛文麿、米内光政らの協力を取り付けるも、何度も陸軍から狙われますが、時の陸軍大臣、阿南惟幾大将の配慮で投獄(この投獄は、吉田茂のことを丁重に扱うようにとの阿南大将から直々の指示があり、後々のことを考えての投獄とも言われています)。
戦後は、投獄された経緯からGHQから一切睨まれず、幣原喜重郎内閣では外務大臣に就任、のちに吉田茂内閣を組閣し、サンフランシスコ講和条約などの重責を担い、現在日本の礎を築き、引退後は大磯の邸宅で過ごしますが、1967年…
まるで自らの役割を終えたかのように天逝。
吉田茂の葬儀は戦後初の国葬として行われ、大磯から東京に向かう際には、大磯の町内の方々が暖かく最後の門出を見送りました。

【邸内展示パネルより転載】
≪邸宅設計に関わった建築家たち≫
❏木村得三郎氏について
吉田茂邸に当初関わった建築家の木村得三郎(1890~1958)氏は東京美術学校(現在の東京藝大)を卒業ののち、大林組に所属し、1930年に東京築地に東京劇場を設計したほか|先斗町歌舞練場≪ぽんとちょうかぶれんじょう》、|弥栄会館≪やさかかいかん》などの劇場建築を得意とし、邸宅内にも応接間棟の階段部分などにその建築意匠が遺されています。

【Wikipediaより転載】
❏吉田五十八について
吉田五十八(1894~1974)氏は、以前、静岡県御殿場市にある東山旧岸邸(岸信介邸宅)、東京都世田谷区の旧猪俣庭園などを担当した建築家になり、旧吉田茂邸に関しては、吉田茂の眼鏡にかなう建築家がおらず、様々な方が苦慮し、最後に吉田五十八が駆り出されましたが、当初は吉田茂も口を出すものの、その仕事ぶりをみたのち、次第に何も言わず、全幅の信頼を寄せるようになったといいます。

【成城四丁目 猪俣別邸展示パネルより転載】
≪建物メモ≫
旧吉田茂邸
●竣工年:
邸宅:2016年復元
兜門:1954年
七賢堂:1903年
サンルーム:1963年
●文化財指定:サンルーム、七賢堂と兜門のみ登録有形文化財
●入館料:500円
●写真撮影:可
●交通アクセス:
JR東海道線”大磯駅”よりバス城山公園下車徒歩3分
●参考文献:
・邸内展示パネル
・BS朝日放映”百年名家”
・吉田茂氏についてはWikipediaを参照
≪平面図から≫
この邸宅は、もともとは吉田茂の父・明治17年に養父建造が明治20年に別邸を構え、関東大震災で倒壊後に建設されたものから増築が加えられ、1947年に建てられた迎賓棟を皮切りとし、様々な増改築がなされ、吉田茂の終の住処となります。
なお、復元に際しては、1947年に建てられた応接間棟と食堂、玄関、新館のみが再現されています。

≪兜門部分≫
邸宅を訪問すると檜皮葺きの立派な門が見えますが、こちらも竣工当時の部分となり、有形文化財となります。
茶道裏千家の茶室・今日庵を模してつられた兜門になります。兜門の由来は、軒先の切り欠きが兜に似ていることから命名されました。
1954年のサンフランシスコ講和条約を記念して造られたことから講和条約門ともいわれています。

玄関前の轍に関しては1966年に上皇様と上皇后さまが皇太子夫妻時代に訪問された際、車が邸内に入り、階段下のアプローチまでたどり着けるようにつくられますが、上皇様は兜門の前で車を降りられ、邸内には、邸宅を訪問された写真が残されています。


【邸内展示パネルより転載】
≪七賢堂≫
庭園の正面には七賢堂がありますが、政治において功績のあった7人の賢人を奉ったお堂になります。元々は1903年に滄浪閣に造られたもので、明治維新の元勲のうち、岩倉具視、木戸孝允、三条実美、大久保利通を奉ったもので四賢堂とよばれていました。
そののち伊藤博文が加えられ、1960年に移築した際に、吉田茂が西園寺公望を合祀し、吉田茂の死後に加えられ、現在の七賢堂となります。

≪サンルーム≫
邸宅わきに見えるのは、サンルームとなり、1963年に設計されたもので、こちらも幸いにも焼失を免れ、登録有形文化財に選定されています。
設計は吉田五十八が担い、細身の鉄骨材の骨組み、曲面の軒を持つポリカ―ボネイド性の屋根など、当時としては新素材を繊細な意匠で纏めています。ここでは熱帯植物を育て、吉田茂と愛犬にとって、くつろぎの場となりました。

≪外観について≫
❏階段からのアプローチ
吉田茂邸に向かうまで、傾斜地を抜けますが、一見すると2階建てに見えるものは、傾斜を活かした平屋建てという複雑な構造となっています。

❏竣工当時の応接間棟
応接間棟を当初設計したのは「劇場建築の名手」と謳われた木村得三郎氏で、1947年に造られ、のちに吉田五十八が改修した状態に復元されますが、階段部分などに木村氏が担当した面影が遺されています。

【大磯郷土資料館HPより転載】
❏食堂/新館部分
一方、下側の食堂部分は応接間棟と同じく木村得三郎氏が設計し、吉田五十八氏が改築を行います。
上部の新館部分は吉田五十八氏設計になり、五十八は伝統的な数寄屋建築とモダニズム建築を融合させた人物として高名で、吉田茂とのかかわりは1957年に新館部分を設計したことに始まり、以降、吉田茂の絶大な信頼を勝ち得て、のちの増改築はすべて彼の手によるものとなります。

❏玄関部分
玄関棟を新たに、迎賓棟に接続させたのが吉田五十八。邸宅のタイルなど、柱などを極力表面には出さない構造となります。

玄関外観の下地窓や簾部分には工業製品のアルミニウム材を使用しています。吉田五十八は、伝統建築の簡素化を図ることを自らの使命とし、積極的に新素材を巧みに用いりました。

≪玄関棟≫
❏玄関部分
次に邸内を見ると、玄関内部は大政治家の邸宅としたら極めて小さなもので、壁を塗りまわし、建具の枠を極限まで見せないようになっています。壁部分は大理石を使用し、照明に関して写真から復元され、窓に関しては5線譜を思わせる意匠になり、内部も吉田五十八得意のはっかけという建具を見せない手法が採られています。

❏ホール部分
玄関からホール部分に入ると、ガラス扉は横開きとなり、柱や廻縁の露出を抑え、幾何学的な室内となります。
大きなガラスの中庭を持たせるのも吉田建築の特徴で、小屋裏や細い化粧柱などには鉄骨を埋め込むことで、面積の広い室内を支えています。

ホール部分にある2基の豪華なシャンデリアは過去の写真から復元されたもので、モダンなデザインが目を引きますが、こちらも吉田五十八のデザインとなります。

≪応接間棟1階≫
❏1階 応接資質(欅の間)
1階の応接間は、1947年に木村得三郎の設計によるもので、訪問者が一番最初に通される個所になり、別名欅の間と呼ばれました。吉田茂はこの部屋で「大磯詣で」をする政財界の要人を迎え入れました。
家具類は写真などから忠実に再現され、天井部分は杉の磨き丸太の舟底天井になり、床の間風の意匠の柱と暖炉が向かい合う、和洋折衷の均等が採られた室内となります。

こちらの四角錘の照明は、東京都庭園美術館(旧朝香宮邸)のデザインに酷似していますが、吉田茂は、外務大臣と総理大臣の間に旧朝香宮邸を公邸として使用して大磯と白金を往復。四角錐に蔦が絡まる意匠の照明は、自身が寝室として使用していた部屋に使用されていたデザインに酷似しています。

❏階段ホール部分
余談ですが、吉田茂亡き後の1979年、大平正芳総理と米国大統領ジミー・カーターで日米首脳会議を行った際にも欅の間は使用されました。
応接間奥には階段があり、応接間は階段ホール的にもなり、階段、親柱などは、寺社建築のそれを髣髴したものとなります。

≪応接間棟2階≫
❏浴室部分
階段を上って一番最初に出くわすのが浴室。浴槽は船形となり、実際に船大工の方が作成したものになります。
ガラスを天井に回した総ヒノキ造りの豪華な浴室である一方、シャワーが取り付けられており、トイレなどもあった洋風のユニットバス方式となります。吉田茂は、この部分をシャワールーム的に使用していたと推測されます。

❏広縁
浴室を反対側の出口から抜け、縁側に出ると、天気の良い日だと大磯の海と富士山も望める場所となります。天井部分は網代となっており、吉田茂はこの景色を愉しんだことが伝えられています。

❏寝室
広縁側にある1室は吉田茂の寝室となり、欄間部分に特徴があるほか、優れた天井板となります。
2階部分は、限られた身分の方以外は吉田茂から許可がなければ、立ち入ることができませんでした。

❏書斎
寝室の隣にある、床の間が付いた部屋は、書斎として設けられ、吉田茂が首相としての執務を行った部屋になり、和風の設えちなります。

が、首相としての実際の執務を行ったのは、書斎脇にある小机がある4.5畳の小さな一角で、掘炬燵がつけられ、本棚に並ぶ書籍類は吉田茂が使用したものを保管していたものを展示しています。

この部分で非常に興味深いのはダイヤルのない黒電話。
残念ながら複製されたものになりますが、官邸に直接繋がるようになっており、官邸で何かあった際などには、吉田茂がじかに電話をできるようになっていました。

なお、この邸宅が、首相だった吉田茂の邸宅であったこともあり、有事の際には逃げ出せるよう、書斎脇の縁側には避難口と梯子が設けられていましたが、幸いなことに、この部分は使用されることはありませんでした。

≪食堂部分について≫
次にエントランスに戻り、ガラス扉を付けた部分を開けると、食堂となり、通称ローズルームと呼ばれていました。
腰壁部分のレザーは総計231枚あり、竣工当時は子羊の皮が使用されていましたが、現在は人口合皮で再現されています。
床は伝統的な組子細工が施され、壁や天井部分はヨーロッパ風の和洋折衷型になります。

食堂で一番目を引くのが、幾何学的なデザインの照明で、全焼前のものを再現し、室内に降り注ぐ優しい光は、照明のガラスに反射したものとなります。

≪新館部分について≫
❏食堂と新館を繋ぐ階段
食堂部分と新館は、一見すると繋がっているように見えますが、実際は別棟になっており、階段を廊下にして繋がっています。
こちらの階段は、非常になだらかに作られていますが、これに関しては、新館が造られたとき、吉田茂は既に高齢期に差し掛かり、上り下りしやすいようにとの配慮となっています

❏金の間
金の間は、もともとはアメリカのアイゼンハワー大統領が訪日する際に、大磯に招くために整備された箇所で、晴れた日には富士山を見渡せました。残念ながらアイゼンハワー大統領は、この部屋に訪問することはありませんでしたが、吉田茂が愛用し、吉田茂亡きあとも、数多くの政治の舞台として使用されました。

この室内が金の間と謂われた所以ですが、天井部分の寄棟屋根の筋のスリットに金箔が貼られたり、金色の金具で吊るされた照明などから”金の間”と呼ばれ、こちらの照明の形状は開いた形となります。

❏銀の間
寝室として使用された部屋になり、天井部分には、竣工当時は和紙に銀箔(復元時は経年劣化を防ぐため錫箔を使用)が貼られるほか小襖にアルミ材を使用するなどしており、銀の間と呼ばれます。
こちらは、他の吉田五十八建築とは違い、太い長押など伝統的な設えになりますが、外国の賓客の方日本建築の推を見せる意味合いが強かったためと想像できます。

ベッドに関しても、吉田茂が実際に使用したものを復元しており、吉田茂は、ここからの大磯の海の光景を愉しみ、亡くなる前日、次女の麻生和子さんにせがみ、「大磯の海が見たい」とせがんで椅子に座り、ここから見える大磯の海を長時間愉しんだ…
この発言が、吉田茂の記録に残る最期の発言になり、その翌日、自らの役目を終えるかのように眠るようにして89年の生涯を終えます。

【邸内展示パネルより転載】
≪編集後記≫
旧吉田茂邸については、以前に他SNSサイトで記載しましたが、改めて記載。設計には東山旧岸邸(岸信介邸)を担当した吉田五十八氏が関わり、これで、自身が尊敬する2大政治家…
麻生太郎先生と安倍晋三先生ゆかりの邸宅を記載できたわけですが、吉田茂氏の人生を追いかけ、建物を見て、吉田茂の息遣いを感じて、泣きながらシャッターを押している自分がいました。
