わが心の近代建築Vol.91 旧前田家本邸和館/東京都目黒区
みなさん、こんにちわ‼
今回は、前回の洋館に続いて、旧前田家本邸より和館の方について記載します。
なお、旧前田家本邸和館については、見学に際しては、2階と茶室に関しては、ガイドツアー時。渡り廊下・庭園内については秋の文化財ウィークで公開されています。
≪和館の歴史的背景について≫
❏和館が造られた経緯
和館は1930年に竣工しますが、前田家本邸は1929年に来賓施設と住まいとして洋館を竣工しますが、洋館には和室がなく、前田家自体が戦国時代からの家柄で、能楽や茶道を重要視してきたため、和室が求められたこと。
また、前田家は前田利為公が留学時代を含め、海外生活が非常に長かったため、数多くの外国人が訪問した際に、日本文化を伝えるための迎賓の場としての部屋がなく、日本文化を伝えるための施設として建立しました。
❏設計者について
旧前田家和館は洋館と同じく、ソウル駅旧駅舎などを設計した東京帝国大学工科大学教授 塚本靖(1869~1937)が監督を勤めました。氏は近代建築の祖辰野金吾を支え、1923~24年には建築学会会長を勤め、西洋建築史のみならず、美術・工芸にも明るく、建築・工芸・博覧会など数多くのコンペの審査員を務めました。

【Wikipediaより転載】
一方、実際に設計を行ったのは、帝室技芸員だんた佐々木岩次郎(1858~1936)が担当。
佐々木岩次郎は、16歳のころから木子棟斎門下につき神社仏閣建築を学んだのち、本願寺本堂の再建、京都・奈良を中心とした旧跡調査修理の観衆を行いました。

【邸内展示パネルより転載】
茶室と茶室待合に関しては、3代目木村清兵衛(1871~1955)が担当します。
3代目木村清兵衛は、明治から昭和にかけて活躍した裏千家の棟梁であり、先代の作風に新たな要素を加えて目覚ましい活躍をした大工で、代表作には畠山美術館、東京国立博物館庭園などがあります。
❏戦後からの歴史
前田邸和館は施主 前田利為公のボルネオでの飛行機事故による逝去で中島飛行機に渡り、GHQに接収ののち、洋館とともに改悪され、1951年からは第2代司令官のマシュー・リッジウェイの邸宅として使用され、接収解除ののちは国が買い取り、駒場公園として利用されます。

≪建物メモ≫
旧前田家本邸和館
●竣工年:1930年
●設計者
・監修:塚本靖
・和館部分:佐々木岩三郎
・茶室部分:3代目木村清兵衛
●文化財指定:国指定重要文化財
●入館料:無料
●写真撮影:可
●交通アクセス:
・京王井の頭「駒場東大前」駅 徒歩7分
・東京メトロ千代田線「代々木上原」駅 徒歩15分
●留意点
・2階/茶室に関してはガイドツアー時のみ見学可(団体不可)。
・渡り廊下部分は文化財ウィークのみ限定公開
≪平面図について≫
旧前田家本邸和館は、1階部分を御客間と御次の間を中心に構成した室内になり、茶室が付き、主に迎賓施設として活用されました。
2階部分は来訪者の方の宿泊施設として活用。
竣工当時は、浴室などが設けられていなかったため、急遽、踊り場に付けられました。

≪外観について≫
❏正面部分
木造2階建てとなり、利為公は質素なものをと考えていましたが、派手さこそないものの、材料は厳選されたものを使用しています。
薬医門から邸宅まで石畳を蛇行させていますが、建物に奥行きを与える効果があります

和館の鬼瓦部分には前田家の家紋、加賀梅鉢を設け、屋根部分はそりを持たせるなど、非常に手の込んだ造りとなります。破風の下は格子状となります。

北側部分から邸宅を見ると、屋根上には寺社建築のような装飾が付けられていますが、これは擬宝珠というもので、通常の邸宅では使用されることは大変稀になります。
ここに、寺社建築を長年研究してきた佐々木岩三郎のスキルを垣間見ることができます。

❏南面部分
南面から見ると京都の銀閣寺に似ている部分も非常に多く、2階は、寺社建築で多く見られる宝形造となります。
宝形造は、建築物の屋根形式のひとつで、正方形の平面で寄棟を造ろうとした場合には、大棟ができず、4枚の屋根がすべて三角形になります。
その上に北側から見た擬宝珠が付きます

≪1階部分≫
❏玄関部分
観音開きの扉を開けると、天井は舟底天井となり、舞良戸を設えるなど、伝統的な和風建築となりす。タタキ部分は屋根瓦と同じ石を使用しています。

❏大廊下
大廊下の両端に設けられた杉戸に関しては、接客空間と日常空間を分ける結界としての役割を持ちました。
杉戸には、竣工当時は美しく彩色された四季折々の花鳥図が描かれていました。

大廊下から中廊下部分の杉戸絵を見ると、写真から左は竹、右側には梅が描かれており、松竹梅のうち、竹と梅が描かれています。作者は橋本雅邦(1835~1908)で、本郷の前田邸で使用されていたものを移設しました。

一方、大廊下と茶室を繋ぐ杉戸絵には松が描かれており、こちらも、橋本雅邦が描いたもので、本郷の前田邸から、駒場に移設したものとなります。
なお、杉戸絵の引手には前田家の家紋加賀梅鉢が付けられています。

松の杉戸絵の裏側は、秋の花鳥図として萩と紅葉が描かれており、邸内では、杉戸絵から様々な季節を体感できるようになっています。

❏御客間
御客間は21畳あり、この邸宅でメインになる部屋となります。竣工当時は金砂子の壁紙が入り、材木も派手さこそないものの、厳選したものを使用しています。天井部分は竿縁天井となり、角を削った猿頬という加工が施されています。

棚に関しては、筆返しが付いた3段の違い棚になっており、形状から鳥居棚と呼ばれ、最高級の仕様になります。また、床柱も四方柾と呼ばれる柱のどこから見ても柾目にみえる、大変貴重な材を使用しています。また、筆返しなども面取りがしてあり、これが几帳面の語源となります

書院は黒漆塗りの縁が付けられた火灯窓になります。
書院には、天板部分にはケヤキ製の2.27m、奥行き95㎝、高さ5㎝の1枚板を使用、天井部分も大きな1枚板を使用した、大変貴重な材木を使用しています。
書院に関しては南側に位置していますが、本来は、修行中のお坊さんが勉強する際、机にしたことから始まり、当時は光がなかったことから、太陽の光を取り入れるため、日当たりのよい南側に設けました。

❏御次の間
1階は御客間と御次の間をメインに構成しており、御次の間は17畳あります。天井のすぐ下に壁を設けることにより、天井を高く見せる効果があります。また、長押なども1本の長い材木から作られた大変貴重なものとなります。

また、欄間部分を見ると細い桟を連続させた形状になります。
機織りに称する筬に形が似ていることから筬欄間と呼ばれています
筬欄間を囲むように花の形を飾るものとなります。

竣工当時には橋本雅邦の四季の襖絵のなかでの、夏景が描かれており、こちらも本郷の邸宅より持参したものになります。
なお、前田邸では、雛祭りなどの大きなイベントなどでは襖を取り払い、御居間と1つの部屋として使用しました。

【邸内展示写真より転載】
また、竣工当時の中廊下側の写真を見ると、襖絵には橋本雅邦が描いた春景図が描かれています。
弧の襖絵も本郷の前田邸から持ってきたものになり季節によって、付け替えていました。

【邸内展示写真より転載】
❏中廊下
中廊下部分に関しては、邸宅全体に通し柱がないため、来るべき首都直下地震に備え、重要文化財に選定されたのち、邸宅の目につかない箇所を中心に補強材を入れていますが、中廊下部分にも何本も鉄柱を入れています。

中廊下の杉戸絵も橋本雅邦の描いたもので水紋が見え、燕子花とツバメを描いたものになり本郷の前田邸から移設したものとなります。

❏小座敷
次の間から、中廊下を経た小座敷は10畳間で、詳細は不明ではあるものの、違い棚と天袋、地袋を備えた室内で、襖には橋本雅邦の四季山水図が描かれており、特別な部屋として使われたことが推測されます。現在は炉が切ってあり茶会などに使用可能です。

❏入側
書院造になり、濡れ縁と座敷の間の1っ間半の通路となります。畳敷きとなり、邸宅の来訪者の方は、ここから目の前の日本庭園を愉しみました。

入側の奥には、中心部分と窓側に火灯窓を設けています。火灯窓元々、中国から鎌倉時代に禅宗建築と共に伝来し、寺院で用いられましたが、後に城郭建築や住宅建築などにも広まりました。

入側から庭園部分を見ると、現在は水が貼られ鯉が放流されていますが、これは旧前田家本邸が都立駒場公園になってからで、もともとは来客時に池に水を張る仕組みでした。
中心部分の灯篭もそうですが、多くの灯篭は、本郷にあった前田邸から移築したものとなります。

≪茶室について≫
❏茶室外観
前田家は古くより茶道を大切にしており裏千家を保護していましたが、千利休の孫、千宗旦が建てた又隠を模して作っており、4畳半の茶室となります。
又隠とは違い、通常は躙り口が設けられていますが、外国人来訪者の方が体をかがめることが苦手なため、体をかがめずにはいることができる貴人口が設けられています。

❏茶室入口部分
茶室入口に関しては、舟底天井になり、入り口部分の杉戸絵に関しては牡丹が描かれています。

❏水屋部分
茶室前には水屋がありますが、通常、こちらは来訪者の方が室内に入ることがなく、茶会の主催者の方が、こちらで茶の湯の用意をしました。奥側の天井は市松状の網代天井になり、天井部分は舟底天井となります。

❏茶室部
茶室部分は、京都の裏千家の又隠を模したものとなり室内の広さは4.5畳あり、左側が網代天井、右側が落ち天井になるほか、正面奥の出入り口は、和館が外国人迎賓施設のため、体を曲げずに入れる、尊い人が通る出入口、貴人口となります。

十の間の木材に関しては、床柱(左側)はアカマツ、床框は杉、相手柱(左側)はアテという木でアスナロ材を使用しています。

茶室へは、渡り廊下から露地を通じ、手水鉢で手を洗い、室内に入る仕組みになっていますが、正面に見える木は、前田邸の代名詞的なハゼの木となります。
秋になると実がなり、一番のハイライトシーンとなります

≪階段踊り場≫
❏階段踊り場の使用について
和館は、もともとは厠や浴室などの水場は作られていませんでしたが、迎賓施設のため最終建築の段階になり、急遽作成する事になりましたが、場所がなかったため、踊り場部分に設える事となしました。扉部分には柾目の1枚板を採用しています。

❏厠部分
左側部分は厠となり、和館ながら、外国人の方のための迎賓施設という事もあり、洋式トイレを竣工当時より設けており、腰壁と床には白タイルを設えています。
95年前には既に水洗トイレを使用していた証左になります。

トイレを見渡すと東洋陶器(現在のTOTO)製のエンブレムが残されています。このエンブレムは、昭和3〜7年まで使用されたもので、このトイレが竣工当時のものであることが判ります。

❏洗面台部分
右側は、洗面台と、奥に浴室を構えていますが、洗面台部分も竣工当時の東洋陶器(現在のTOTO社)製になります。
なお、こちらの部分も腰板部分に白タイルを設えています。

❏浴室部分
右奥の浴室部分は、壁部分は厠、洗面台と同じく白タイルが設えてあり、天井部分は、空気を抜くため、折上げ天井になります。
また、浴槽は洋風のものとなり、その当時の日本製の浴槽よりも大きいものとなります。

浴室のボイラーはドイツにあるのHOUBEN WERKE(ホーベン ヴェルケ)製になります。同社は1970年代に日本でも製品が販売されていましたが、すでに日本市場からは撤退しています。

≪2階部分≫
❏階段部分
階段は吹き抜け構造となり、階段の手すり部分は、寺社建築にみられる意匠を加えています。
天井部分は、2本の竿縁を重ねた吹き寄せ竿縁天井になっており、迎賓施設として、大変凝った意匠となります。

❏2階御書斎前の廊下
こちらの天井も、猿頬加工が施された竿縁天井となります。なお、墨絵の描かれた杉戸絵に関しては1階部分同様、本郷にあった前田邸から移築された、橋本雅邦の作品となります。

なお、杉戸絵の引手に関しては、前田家の家紋、加賀梅鉢があしらわれています。
余談になりますが、前田家は菅原道真を祖としており、徳川家からは葵の御紋の使用許可が出ていましたが、加賀梅鉢を大切に使用しました。

2階から屋根を見下ろすと、窓の桟と屋根部分が並行になるように設えてあり、こうした面にも配慮がされています。

❏御書斎
実際に書斎として使用された部屋で、天井部分は柾目い板を使用し、竿縁が配されており、材も厳選されたものを使用し、襖を開けると、棚が出てきます

❏御居間前の廊下
御居間前の廊下の押し入れを開けると洗面所が設けてあり、現在から見ると大変低く設定されています。
また、洗面器に関しては竣工当時のものとなります。

❏御居間
2階部分の御居間は1階に比較して数寄屋風に作られ、15畳からなります。戦後、GHQに接収された際に、照明がシャンデリアに変更されましたが、今年の8月に現在の照明に変更されました。
天井は変形の格天井となります。

左側の違い棚部分の、金に雲を描いたような柄は、金砂子と呼ばれており、金箔や銀箔を細かく砕いた粉末を、壁紙に装飾としてまき散らす日本独自の伝統技法です。GHQ接収時に塗り込まれ、前田邸で残るのはこの部分のみです。
また、右側の床の間はスペース的に暖炉を置くスペースに活用されました。

丸窓部分からは、かつて前田邸本館にあった、中国式庭園と煎茶室の三華亭を臨むことができました。
なお、南側部分には当時は貴重だったガラス窓をふんだんに使用し、庭園を愉しめるようになっています。

≪三華亭≫…庭園部分は文化財ウィークに公開
丸窓からは、かつては中国式の煎茶室、三華亭を臨むことができました。
三華亭は加賀藩主13代前田|斎泰が建てたものとなります。
そののち、利為公の父親、前田利嗣が日暮里に別邸を購入した際、根岸に移築。
利為公が駒場に本邸を建てたのを機に、駒場に移築されました。

なお1945年の終戦後、前田邸がGHQに接収されるに伴い、三華亭は解体保存され1949年に石川県金沢市の兼六園に隣接する成巽閣に移築されました。
移築の際に旧館を損なうことなく、根太やどだいを新材に変え、屋根は豪雪地帯という事もあり、銅板葺きに変更されました。

≪渡り廊下/庭園全景について≫【文化財公開ウィークのみ公開】和館と洋館を繋ぐ廊下は30mあり、和館は木造の和風的意匠、洋館側はスクラッチタイル・大華石を使用した洋風の意匠になります。
和館側が設計者・佐々木岩次郎氏、洋館側が高橋貞太郎氏。あずま屋部分で和と洋が切り替わるポイントとなり、利為公は心を切り替えていました。


≪編集後記≫
前田邸和館については、何度か記載しようとしては挫折の繰り返し。そうこうしているうち、病気になって記載できずじまいでしたが、やっと掲載に至りました。
前田邸は、かつての華族邸宅で。ほぼ完ぺきに残る数少ない邸宅…
これからも大切にされていくことを願ってやみません。
