わが心の近代建築Vol.107 神戸風見鶏の館(旧トーマス住宅)/兵庫県神戸市中央区
みなさん、こんにちわ。
今回は、大阪神戸旅行時に訪問した箇所から、神戸風見鶏の館を記載します。この邸宅に関しては、以前訪問したものの、写真が使い物にならず、再訪問しようにも機会が合わず、再記載できませんでしたが、やっと記載することが出来ました。
≺北野町の歴史≫
❏明治期まで
俗説に平清盛が、福原京(現在の神戸市中央区から兵庫区)遷都の際に北野天満宮を勧進したこと美始まり、以降、この界隈を北野と呼ぶようになり、中世より交通の要衝として栄え、戦国時代にはしばしば戦禍にさらされるものの、江戸期になると、北野天満神社は北野村の鎮守にされ、本殿や拝殿、神饌所が建築されました。

【Wikipediaより転載】
❏開国以降
江戸幕府は、1858年にアメリカと結んだ日米修好通商条約などの安政の五ヶ国を締結し、函館・新潟・神奈川・兵庫・長崎の5カ所を開港するとなり、開港地には外国人居留地を設ける事となりました。
神戸の状況は、遅れに遅れ、1868年の開港まで間に合わず、居留地より先に、日本人との共生地域の外国人雑居地が定められますが、北野町はそのなかの1つとなります。居留地は1868年8月14日に完成し、9月に競売が始まりました。
居留地は横浜に比べて1/10と小さく、すべての外国人を入れるのは不可能であったため、雑居地はそのまま使用していきました。その状況は播州神戸山手取開図に掲載されています。

【店内展示パネルより転載】
❏居留地返還後の神戸について
設けられた居留地は商館などが多く設けられ、1899年の返還後のベイサイドエリアは、商館などに建て替えられ、竣工当時のものは旧居留地15番館のみになります。

【Wikipediaより転載】
その他の地区は神戸大空襲の被害を受け、焼失したものが多かったですが、北野町界隈は空襲を免れることができました。垂水区のジェームス山界隈と同じくその当時の神戸の姿を残す貴重な街並みとなりました。

【Wikipediaより転載】
≪邸宅について≫
風見鶏の館も、北野町を代表するシンボル的な場所のひとつで、1909年頃にドイツ人貿易商のゴットフリート・トーマス氏の邸宅として建てられ、設計は同じくドイツ人建築家のゲオルグ・デ・ラランデ氏が担当します。(竣工年には、1904年頃の説と1909年頃の説がありますが、神戸市文化財課の見解を取ります)

【邸内展示パネルより転載】
1914年、一人娘のエルザ氏が上級学校に入学するに際し、トーマス一家は休暇を兼ね、ドイツに一時帰国しますが、時は第一次世界大戦のさなか。日本とドイツがそのまま戦争状態に陥り、トーマス一家はこの邸宅に帰還できなくなり、邸宅は敵性資産と見なされ没収されます。その後、実業家で政治家の山縣勝見(1902~1976)に自身の会社である新日本汽船名義で購入し、後に山縣記念財団所有となり、1968年に神戸中華同文学校が購入し、学生寮として使用しました。1977年のNHKテレビ連続ドラマ小説「風見鶏」で北野町界隈の異人館が注目され、特に「風見鶏の館」はシンボル的な建物になります。1978年1月に国の重要文化財に指定され、神戸市が買い上げたのち、同年12月より一般公開されます。
が…
1995年1月17日…
阪神淡路地区を襲った阪神大震災の被害は、大の近代建築にダメージを与えますが、この邸宅も例外なく受け、外壁の煉瓦154カ所に亀裂を発生します。1年8カ月の修復工事が行われ再公開されますが、2023年10月からの耐震工事で休館し、2025年7月より再公開されます。(後述)

【Wikipediaより転載】
≪設計者 ゲオルグ・デ・ラランデについて≫
設計者のゲオルグ・デ・ラランデ(1872~1914)はドイツで生まれ、シャルロッテンブルク工科大学(現ベルリン工科大学)を卒業を卒業ののち、ウィーン・ベルリンなどで働いたのち、1901年から2年間、上海。天津などで勤務したのち、横浜に渡り建築事務所を開き、日本各地を回り、ユーゲント・シュティール建築様式を広めました。
神戸でユダヤ系ドイツ人エディと1905年に結婚したものの、ソウルへ出張中に肺炎で倒れ、1914年に東京で亡くなります。

【風見鶏の館HPより転載】
妻エディ(1887~1967)は、その後、ドイツに帰国した後、5人の子どもを連れて、太平洋戦争時に外務大臣を務めた 東郷茂徳と結婚しますが、子どもたちはドイツに残り、長男の方は、父親と同じく建築家を目指しますが、精神障害があったため断念し大工に就きますが、1930年代に精神疾患で入院。1943年に亡くなりますが、その死はナチが行った忌まわしきT4政策のためであったと推測されています。

【Wikipediaより転載】
≪平面図≫
風見鶏の館は、1階と2階はほぼ、垂直の邸宅になりなす。
3階は屋根裏部分になり、塔屋からは神戸港を臨むことができ、この館最大のビュースポットとなります

【風見鶏の館 HPより転載】
≪たてものメモ≫
風見鶏の館
●竣工年:1909年ごろ
●設計者:ゲオルグ・デ・ラランデ
●文化財指定:重要文化財
●入館料:¥500
●写真撮影:可
●定休日:毎週第3火曜日
(定休日が祝日の際は翌日)
●交通アクセス:
・JR神戸線「三宮」駅
・阪神本線、阪急 神戸本線/神戸高速線「神戸三ノ宮駅」
・神戸市交通局「三宮」駅
…いずれも徒歩15分
●参考文献:
・風見鶏の館HP
・神戸の歴史はWikipediaを参照
≪建物外観≫
❏正門部分
門扉にはラテン語で『Rhenaia』と記載されていますが、意味としては「私の生まれ故郷 ドイツの“ライン市域”」を表します。
実際に、この館はトーマス邸時代には“ラインの館”と呼ばれていました。

❏正門前通路から臨む
建物はドイツのアールヌーボーともいうべきユーゲント・シュティールを基調としており、地階及び塔屋付きの2階建てとなります。
屋根は寄棟造でスレート葺きとなり、地階部分は御影石積、1階はレンガ造り、2階は木造ハーフティンバー造りにするなど、各階ごと形式を変えています。ベランダや木組みなどの、外観木部塗装色については、1978年に重要文化財に指定されたときは、灰色でしたが、その後、神戸市によって、茶褐色に塗り替えられました。

❏風見鶏について
屋根の一番高い部分には「風見鶏」が付けられていますが、これは竣工当時では最高級の技術が持強いられており、頂点までの高さは約23mと、現在のイルでいう所御5階部分までの高さとなります。
風見鶏は鳥を模った風向計になりますが、それ以外に、聖ペテロの標識であること、また雄鶏が悪魔を追い払うという意味合いがあります

❏半地下部分
玄関ポーチ部分の下に窓がありますが、半地下の明かり窓になり、使用人が生活する附属屋の機能を持たせた部屋になります。
当時の異人館は主屋と別棟で使用人室を建てて廊下などで繋いでいましたが、風見鶏の館では使用人部屋で洗濯・調理などのバックヤードとして活用しました。

≪1階部分について≫
❏玄関~ホール部分
玄関ポーチの石段を上ると玄関になりますが中央部分にはアイアンワークでで幾何学的模様がデザインさえれていますが、一説にはクリスチャンだったトーマス氏にちなみ、十字架を表しています。
また、ヨーロッパでは入り口などのに紋章を掲げますが、その意味合いもあったのではないかと推測されています。

ホール部分は、1階部分は食堂や応接間などのパブリックな個所であるため、天井部分は格天井にするなど、設えを豪華にしており、この部分が邸宅のへそとなり、各場所への通路となります。

ホールには階段部分があり、螺旋階段となり上には寝室などのプライベート・ルームへの通路となり、下部分へ行ける通路となりますが、下部分は使用人の方の居住スペースやキッチン、洗濯場なのの邸宅におけるバックヤードにまります

❏応接間
トーマス夫人のサロンとして使用されました。
豪華な算段カーテンは、光の調節などにも利用され暖炉は居間部分と背中合わせになっており、煙突を1つで済むように工夫されていました。

天井を見ると、シャンデリア・照明部分のの緩やかなラインの囲まれた部分にアーカンサス(葉アザミ)のレリーフが掲げられています。
アーカンサスは、古代ギリシア建築でも多く使用されていますが、政庁録や生命力のシンボルとされています。

【Wikipediaより転載】
❏居間
居間部分は18畳部分と6畳のスキップフロア合わせ24畳の広さになります。
天井部分はユーゲントシュティールの幾何学的模様となります。
天井照明に関しては、竣工当時の照明は40ワット程度しかなく、夜はかなり暗い状況でした。
読書のためなど、手元を明るくするため、上げ下げを怒んばいるようにしていました。

ステップフロアは、天井部分がボールド(かまぼこ型)天井となり、天井部分には梁が付けられています。この部分は主に談話室として家族団らんなどに使用されました。

❏食堂
室内は、食堂という事もあり、この邸宅内でも最も重厚なデザインとなり、天井部分には太い梁が張られ、腰壁は非常に高く設けられるなど、格調高いものとなります。
シャンデリア上部は王冠をイメージしています。左側奥部分隣の扉は藩士化部分に行くことのできる階段となり、調理などを運んでいました。

断路天井は、ボールド天井(かまぼこ型)にし、マントルピースは黄土色の尻張りとしています。なお、両サイドのステンドグラスは幾何学的模様となり、ユーゲントシュティールのデザインになります。

食堂部分は全般的に中世の城郭をイメーいして作ったものと言われ、施主トーマス氏の故郷ドイツのコブレンツに近いシュトルツェンフェルス城をイメージしたものと言われています。
この城は13世紀中ごろに建てられ、17世紀にフランス軍により破壊され廃城になりましたが、19世紀中ごろに再建され、トーマス氏もコブレンツに住んでおり、このシュトルツェンフェルス城を実際に眺めていたと言われています。

【Wikipediaより転載】
❏ベランダ部分
ベランダ部分は建物内にもかかわらず、室外をイメージした造りになり、外壁の続きとしてレンガの壁にしています。床部分はたいるばりびしています。
謂わばサンルーム的に使用され、夏の短いドイツ人の方々は、サンルームには植物を多く置きました。
竣工当時の写真を見ると…
・モンステラ:原産国アフリカ
・ドラセナ:原産国アフリカ
・ストレチア:原産国アフリカ
・テンドロビウム:原産国アフリカ
など、当時の日本は珍しい植物を育てていました。

❏書斎
玄関隣に位置し、1階の中でも最も小さい部屋になり、ステップフロア―が付けられ、中央奥のベイウィンドウは5面になり、どこからでも光が入れるようになっています。

ステップフロア―手すり部分には、アールヌーボー調の風刺画が張られており、全体的に遊び心のある室内となっています。

奥側アルコープ部分を見ると室内天井は、8角形のコウモリ傘を広げたデザインとなり、室内に置いてあるイスとテーブルに関しては、竣工当時のこの邸宅で使用されたもので、一人娘のエズレ・カルボー夫人から寄贈されたものとなります。

≪2階部分≫
❏ホール部分
2階部分もこの部屋から各部屋に行くことができます。
2階部分は1階がパブリックスペースだったのに対し、ぷらーべーとルームに充てられ、1階よりも全体的に質素に作られています
なお、竣工当時はこの部分でビリヤードが行え、照明もビリヤード専用の低いものでした。

この部分から踊り場の窓ガラスを見ると、窓ガラスは竣工当時は邸内の明るさが足りなかったため、明り取り用物のとなるほか、エッジングガラスになり植物が描かれていました。

❏朝食の間
1階応接間の上にあたる室内。
風見鶏の館に宿泊した来訪者とトーマス一家が朝食をとるために使用されました。邸内でも日当たりがが良好で、冬は特に暖かく窓からは遠く大阪まで見渡せる景観の良い邸宅でした。
そのことから、冬には家族居間としても使用されました。

❏客用寝室
2階部分はトーマス一家のプライベート・スペースであったため全体的に簡素化されていましたが、この部屋は来訪者が宿泊するため、壁紙とカーテンをコーディネートするなど、おもてなしの心が取り入れられています。

この室内の三面鏡に関しては、大正時代に制作されたもので、鏡に関してはドイツから輸入し、日本に到着時にカットを施して完成させたものとなります。

❏子ども部屋
トーマス氏の一人娘 エルゼさんの部屋になります。
南面の日当たりが用意部屋となり、24畳の広さを持ちます。トーマス邸時代は、洋服ダンスに整理ダンス、テーブルと椅子、洗面台m、勉強机、裁縫台、人形コーナーを持ち合わせていました。

❏寝室
食堂上にある夫妻の寝室で、20畳の広さがありました。写真から見える扉部分の室内は婦人のクローゼットで、写真からは臨めませんが空調が置かれている部分は主人の洋服ダンスとなっていました。
現在、この室内はお土産屋が置かれており、写真撮影禁止のため、風見鶏の館HPより転載しました。

❏ベランダ部分
1階サンルームの2階になる室内で、竣工当時の跡から、かつては吊皮などが置かれた金具の跡があり、運動場にも用いられました。。
こちらでは、植物などが育てられましたが吊革にぶら下がり、運動場などにも使用されました
≪編集後記≫
風見泥の館の施主 トーマス氏は、この邸宅に永住するつもりだったそうですが、第一次世界大戦での日本再訪問が不可能になった点、日本に全財産を置いていたため敵性財産としてすべて没収…
一方ラランデ氏の長男に関しても禍々しいT4計画で暗殺され、エディ夫人もそののちの、いわゆる東京裁判以降、非常に厳しい生活を強いられるなど、改めて戦争がいかに危険で最低最悪の外交手段であることを、この邸宅を見て痛感するとともに、永遠の平和を願って止みません。
