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わが心の近代建築Vol.65 陸奥宗光邸跡 旧古河大磯別邸/神奈川県中郡大磯町

みなさん、こんにちわ。
今回は、昨年の11月にオープンした明治記念大磯邸園より、陸奥宗光邸跡 旧古河別邸について記載しますが、大磯に関しては、明治初期、ドイツ人医師のベルツ博士により、海水浴の有効性が説かれ、日本初の海水浴場が大磯に開かれると、明治期の御政財界の要人の別荘が幾つもつくられたことに始まります。(詳細は後日記載)
明治記念大磯邸園は、2008年に明治150周年を記念し、大磯海岸沿いにある明治の要人の邸宅、4カ所を公園化し、一般公開したものですが、現在、古河電工が所有していた邸宅2つが先だって公開されだものですが、陸奥宗光別邸跡 旧古河別邸はその中の一つになります。

≪陸奥宗光邸跡 旧古河大磯別邸≫の歴史
①陸奥宗光別邸として

この邸宅のあらましを記載すると、1893年に病気療養中の陸奥宗光が大磯の旅館・招仙閣で伊藤博文が開催した観月会に招待された縁で。1894年から大磯の旅館・群鶴楼で療養。
1895年に別邸が建てられ、ここで日露戦争の回顧録を記載しますが、1897年に宗光が亡くなったのち、妻・亮子から長男・廣吉、、次男で古河家に養子に入った潤吉へと所有が移ります。

陸奥宗光(右)と妻 亮子(左)、長男 廣吉(右下)【Wikipediaより転載】

②陸奥宗光別邸から古河別邸について
宗光から邸宅を譲り受けた古河潤吉も、病気療養のため、別邸で療養し、1905年に亡くなります。
以降、古河虎之助が邸宅を受け継ぎ、主に母・セイの避暑・避寒のために用いられますが、この時期、古河財閥は隣にあった大隈重信別邸も買い足し、広大な屋敷地が造られるも、1923年の関東大震災で陸奥宗光別邸は倒壊。
邸宅は1929年、古河電工が経営していた足尾銅山がある栃木県足尾町(現・日光市)の柏木平に移築し、豊潤洞として従業員に開放。
その後は旅館として経営されましたが、残念ながら現存はしていません。

栃木県日光市に移築された陸奥宗光邸(豊潤洞)

③戦後の流れについて
そののち、1930年、古河電工により今回の建物が建てられ、のちに2階建ての倉庫や渡り廊下などが増築。なお、1959年あたりには主屋以外の居宅などの附属室は撤去されました。
そののち民間事業者の手に渡り、迎賓施設として利用ののち、国へ所有が移り、部分的な修理があった以外は大きな変化はなく、創建した当時の間取りは保たれており、修繕/復元工事がなされた上で、公開に至りました。

≪設計者について≫
今回の明治記念大磯別邸公園開園の改修工事で発見された棟札から、設計は葛西萬司(1863~1942)と、田中實(1885〜1949)の担当と判明します。
葛西萬司は盛岡出身の建築家で、東京帝国大学卒業ののち、日本銀行技師として勤務。
そののち、日本近代建築の父と謳われた辰野金吾と連名で辰野葛西建築事務所を設立。東京駅など、辰野金吾とともに数多くの建築を手がけ、代表作には辰野金吾と連名で建てた岩手銀行旧本店本館(現・盛岡赤レンガ館)などがあります。

設計者 葛西萬司

一方、田中實は東京生まれの建築家。
容共帝国大学で辰野金吾の指導を受け、卒業後に清水組(現・清水建設)に入社。
1920〜1927まで清水組技師長を勤め、辰野金吾の死後、1928年か葛西萬司とともに設計事務所を共宰。
代表作には旧唐津銀行本店などがあります。

設計者 田中實

≪たてものメモ≫
陸奥宗光別邸跡 旧古河別邸
●竣工年:1930年
●設計者:葛西萬司/田中實
●文化財指定:大磯町有形文化財
●入館料:現在は無料
●写真撮影:可
●交通アクセス:JR東海道線 「大磯駅」徒歩15分
●参考文献:
 ・明治記念大磯邸園 展示パネル
 ・BS朝日放映「百年名家」

≪平面図において≫
平面図を見ると邸宅は雁行型に構えられており、保存状態は竣工当時の姿が部分がよく残る場所、増築部分と一体型になった個所、新たに作られた部分の3カ所から成立。邸宅の特徴として数寄屋風意匠をベースに、海浜別荘としての機能性を備えたものになります。

平面図【邸内展示パネルより転載】

≪外観部分を臨む≫
①玄関部分

外観の最大の特徴として、銅板で軒部分が深く出たものになり、屋根部分は瓦葺になっていますが、竣工当時はこけら葺きになっていました。
屋根の先端にはハツリが付けられ、見事に反り返っております。

陸奥宗光邸跡 旧古河別邸

玄関部分を見ると、左側の腰壁は、割竹をナグリ材で止め、戸袋部分は網代を組んだものを用いるなどの数寄屋風意匠を見る事ができます。なお、玄関部分の額縁には「聴漁荘」と記載されています。

玄関入り口部分

軒裏部分を見ると、角材を軸にし、吹き寄せにした皮つき丸太の垂木を用いる、という、こちらも数寄屋風の上品な設えになっています。

軒裏部分

②海側から邸宅を臨む
次に南面の大磯海岸方面から居間部分を見ると、窓が広くとられており、外観を臨む以外にも、こちら側から海側に降りることもできました。

居間側から臨む

また、茶の間外観から居間抜分を見ると、邸宅は雁行型に並んでいます。
雁行型にすることにより、多くの部屋部分が角部屋になることにより、採光と通風、展望に優れた意匠になります。

茶の間から居間部分を臨む

≪邸内において≫
①玄関部分
玄関部分の天井を臨むと、ナグリ材の竿縁が付けられています。
また、取次の間部分との欄間はには縦割りにした竹材を使用。
土間部分は那智黒石の洗い出しになり、式台は面付きの角材を使用するなど、数寄屋風の簡素ながら非常に手の込んだ造りになっています。

玄関の間

取次の間は、4畳間になっており、正面に見えるフックには、来訪者の方の帽子などをかけました

取次の間

②居間部分
居間部分は次の間が8畳、居間10畳からなる、この邸宅唯一の続き間になります。
次の間から居間部分を見ると、欄間部分は櫛形欄間になり、次の間部分にはコタツが掘られた跡が残されるなど、古河虎之助の母、セイの住まいだった頃の様子がうかがえます。

居間 次の間部分

次に居間部分をみると、天井は竿縁天井。
付書院は、細やかな組子細工になっており、床柱は杉材の絞り丸太、床框は漆塗りとなり、落とし掛けには竹材を使用しています。

居間部分

床の間部分を見ると、斜めに構えた地袋を洞床風に組み込んでいて、右側の棚脇にはコブシ材の皮つき丸太を使うなど、貴重な銘木を使用しています。

居間 床の間部分

入側は、3方向から庭園を眺められるようになっており、景観と採光、風通しの良い、海浜別荘らしい造りになっています。
軒桁には太い丸太材を使用するという、素朴ながら贅沢な造りになります。

入側抜分

また、この部分から邸園を臨むと、竣工当時は木々も高くなく、大磯の海を一面に臨むことができました。

入側から邸園を臨む

③茶の間部分
茶の間部分は、一番奥側に位置する部屋になり、6畳間となります。
ここは各部屋や女中室、台所にも近い部分になり、主人家族は南側の部屋を使用し、この部屋にたどり着くことができますした。
なお、茶の間から北側は裏方の部屋になっています。
床の間には、流しの跡もみられ、ここは様々な用途に使用されていた部屋にもなります

茶の間部分

入側奥の扉は、主人家族用の厠があり、その反対には使用人用のトイレが付けられています。
厠は背中合わせに主人用と従者用のものが備えられていますが、明確に仕切られていました。

茶の間 入側部分

茶の間に続く縁側と廊下(裏方用動線)との境目には「竹の節欄間」ではないものの、変わった意匠のデザインの欄間が付けられ、用途の違う部分ということを知らせています。
なお、天井には耐震補強のためにつけられたバンパーを見ることができます。

縁側の廊下部分

④台所部分
台所部分は北側に位置していますが、採光に配慮された非常に明るい部屋になります。
中央部分の大きな木製のセンターテーブルや右側に見える流し台は創建時のもの。台所は古河別邸時代から民間事業者時代(迎賓施設)にかけて活躍したことが伺えます。

台所部分

勝手口側から臨むと、壁には棚が多く設けられ、センターテーブル部分にも収納が付けられています。
また、床下にも収納が付けられており、現在でいう所のシステムキッチンの様相を呈しています。

台所(勝手口側から臨む)

⑤洗面所
洗面所は実用的な空間でありながら、多くの銘木を使用。流しの右に見える柱は、エゴノキの皮つき丸太。流し上部の壁留部分には竹材を使用するなえど、多数の銘木を使用。
通常だと、水回り部分は邸宅で最も痛みが激しくなる場所になりますが、この邸宅の保存状態は非常に良く残されており、古河別邸時代の様子を伺い知ることができます。

洗面台部分

流し部分の天井は萩を敷き詰めたものになり、流しの下は網代を組んだもの。右側は棚が設けられる数寄屋風の意匠になっています。

流し部分

⑥化粧室
化粧室は、脱衣室的な役割を果たしており、当時の様子をよく伝えている部分になります。
天井部分は網代になっており、左側には茶室の水屋に見立てた足洗い場が付けられ、柱部分は面皮柱、丸窓をつけるなど、数寄屋風意匠に遊び心を持たせた造りになります。

化粧室

また、海浜別荘という事もあり、玄関を通らずとも濡れ縁から丸窓の隣の障子部分に繋がり、そのまま脱衣所に入ることができる造り。
流しで足を洗い、そのまま湯殿で体を洗うことができる造りになっています。

濡れ縁部分

⑦湯殿部分
天井部分は化粧垂木を吹き寄せにして、4方に勾配を付け、上記に湯気が行くような仕組みになっています。
腰壁部分に竹材を使用するなど、数寄屋風の意匠になっています。
その一方、左側扉部分は外部から直接、湯殿に出入りでき、ここにも海浜別荘らしい配慮がなされています。

湯殿部分

シャワー部分は建設当初からのもの。
タイル部分も、人造研ぎ出し石を使用した、竣工当時のものになり、かつての古河別邸時代の様子をよく伝えております。

シャワー部分

⑧厠部分
浴室近くの厠は、数寄屋風意匠が付けられたものになり、来客用・主人家族用のものになります。
厠部分には和便器/洋便器/小便器を備えており、場所柄、通風と換気に配慮されており、採光もよい状態になっています。
洋便器部分の扉は一枚板を使用し、丈夫には花をあしらったデザインの風穴がつけられております。
こちらの窓枠は、非常に変わった形になっており、中央部分には結霜硝子を使用した造りになっています。

洋便器部分

和便器部分は、地袋が設けられており。天井は網代に。窓ガラス上部には花をあしらったデザインがつけられています。

和便器部分

小便器部分の腰壁にはデザイン的な側面以外にも、水撥ね防止のための竹材が敷かれ、右側には手洗いのための手水鉢が置かれています。

小便器部分

⑨廊下部分
最後になりますが、廊下b抜分について、他の建造物と同じく家族/来賓が使用する廊下には畳敷きになっており、従者用部分は板敷にするなど、用途により区別化がされています。

居間部分の内側廊下

≪編集後記≫
明治記念大磯邸園については、その情報を知っていたものの、なかなか足が伸びず、病状も安定してきたことで訪問。
現在、伊藤博文別邸と西園寺公望別邸が工事中で3年のうちにはオープンすることになり、完全な開園が待ち遠しいところ。
葛西萬司が関わっていることから、洋風邸宅と思いきや、優れた数寄屋風の邸宅になり、使用される材木も国内第一級の木材をふんだんに使用した大変美しい邸宅になります。
なお、大磯海岸の歴史においては、改めて別の機会で記載したいと思います。

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