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【第12回(最終回)】大和との別れ、千年の都へ〜なぜ古代国家は「まほろば」を離れたのか〜

「やまとは国のまほろばたたなづく青垣山ごもれるやまとしうるはし」
『古事記』に残された、ヤマトタケルの望郷の歌。
幾重にも連なる山々が青い垣根のように盆地を囲み、その内側に人々の暮らしと祈りが息づく大和。
この地で、古代の人々は水を治め、稲を育て、山を神として敬い、豪族同士の争いを乗り越えながら、日本という国の原型を築いてきました。
神武天皇の建国神話。三輪山を中心とした祭祀。ニギハヤヒと物部氏の伝承。巨大古墳の時代。飛鳥の宮、藤原京、そして平城京。
大和は、長い時間をかけて日本の政治、信仰、文化を育てた「国のまほろば」でした。

しかし784年、桓武天皇は平城京を離れ、都を山背国の長岡京へ移します。
さらに794年には、長岡京から平安京へと都を移しました。
なぜ、古代国家は、自らを育てた大和を離れなければならなかったのでしょうか。その理由を複雑に絡み合い、一つに絞ることはできません。
自然・環境への負荷、物流の限界、巨大寺院との政治的緊張、皇統の転換、そして新しい国家体制を築こうとする桓武天皇の意志。
それらが重なったとき、大和を政治の中心とする時代は、大きな転換点を迎えたのです。
 
繁栄の頂点に立った平城京
710年に造営された平城京は、古代日本が初めて築いた本格的な巨大都市でした。唐の都・長安を手本に、碁盤の目のような道路が走り、その北端には天皇の宮殿と国家の役所が置かれました。
都には貴族、役人、僧侶、職人、商人、農民など、多くの人々が集まりました。正確な人口は分かっていませんが、最盛期には数万人から十万人規模の人々が暮らしていたと考えられています。

平城京

全国から税として米や布、特産品が運ばれ、大陸や朝鮮半島からは仏教、建築、医薬、音楽、工芸、天文学などの新しい文化がもたらされました。
平城京は、政治と宗教、経済と国際交流のすべてが集中する、日本最大の都市となったのです。
その繁栄を象徴したのが、東大寺の大仏でした。
聖武天皇は、疫病や飢饉、反乱によって揺れる国を、仏教の力で一つにまとめようとしました。
大仏建立には、全国から銅、金、木材、労働力、技術が集められました。
それは、古代国家が持つ力のすべてを結集した、壮大な国家プロジェクトでした。
平城京と東大寺大仏は、古代日本が到達した繁栄の頂点だったのです。
しかし、繁栄が大きければ大きいほど、それを支える負担もまた大きくなります。
 
第一の限界――巨大都市を支える資源
平城京には、毎日大量の食料、燃料、水、建築資材が必要でした。
宮殿や寺院、貴族の邸宅を建てるには、多くの木材が要ります。
建物を維持し、修理するためにも木材は欠かせません。
さらに、都に暮らす人々が煮炊きをし、湯を沸かし、冬に暖を取るためには、膨大な量の薪が必要でした。
電気もガスも石油もない古代において、木材は建築資材であると同時に、最も重要なエネルギー源だったのです。
平城京の成立によって、大和盆地周辺の山林には、これまでにない強い伐採圧がかかったと考えられます。
木材や燃料は、盆地の外からも運ばれていたでしょう。

環境悪化、疫病が流行る平城京

しかし、数万人が生活する巨大都市が、周辺の森林、農地、水資源に大きな負担を与えたことは間違いありません。
森の伐採が進めば、土壌が流出しやすくなり、水源の環境にも影響が及びます。
ただし、それだけが平城京の衰退や遷都を決めたわけではありません。
環境への負荷は、古代都市が抱えた複数の課題の一つでした。
重要なのは、平城京が初めて経験する巨大都市であったということです。
古代の人々は、国家を大きくする方法は学びました。
しかし、大きくなりすぎた都市を、長く持続させる方法までは、まだ十分に持っていなかったのです。
 
第二の限界――盆地国家の物流
大和盆地は、日本国家が生まれる場所としては、極めて優れた地形でした。
周囲を山に囲まれているため外敵から守りやすく、盆地の内部には農地と水がありました。
山の辺の道をはじめ、山麓には古くから人々の生活と祭祀の拠点が築かれていました。
しかし、国家の規模が全国へと拡大すると、大和盆地の閉鎖性は次第に弱点となります。
律令国家は、全国各地から税を集めることで成り立っていました。
米、布、塩、海産物、木材、鉱物、地方の特産品。
それらを都へ運び、役所や貴族、寺院に分配しなければなりません。
大量の物資を運ぶには、陸路よりも水運の方がはるかに効率的です。
しかし、平城京は瀬戸内海や淀川水系に直接つながる場所ではありませんでした。
大和川などの水路はありましたが、全国から集まる膨大な物資を安定して運び込むには、必ずしも十分な条件ではありません。
都が巨大化するほど、食料や資材の調達範囲は遠方へ広がります。
遠くから物を運べば、輸送には時間も費用もかかります。
それは物価の上昇や財政負担にもつながります。

物流の要・大和川

初期の国家に適していた大和盆地は、全国規模の物流国家を動かすには、次第に窮屈な場所になっていったのです。
 
第三の限界――仏教勢力と政治の緊張
奈良時代、仏教は国家を守る重要な力と考えられていました。
聖武天皇は全国に国分寺と国分尼寺を置き、東大寺を中心とする仏教国家を築こうとしました。
寺院は祈りの場であるだけではありません。
学問、医療、福祉、建築、芸術、国際交流を支える、当時最大の文化組織でもありました。
しかし、国家の保護を受けて成長した寺院は、次第に大きな経済力と政治的影響力を持つようになります。
広い土地を所有し、多くの僧侶や労働者を抱え、朝廷の政策や皇位継承にも影響を与えるようになりました。
奈良時代後半、称徳天皇の信任を得た僧・道鏡が、皇位に近づき、自らが天皇になろうとした野心を抱いたとされる事件は、朝廷に大きな衝撃を与えます。それほど、仏教勢力は朝廷の国家運営に深く影響を与えていました。

道鏡事件と南都仏教勢力

また、南都六宗の寺院は国家と社会を支えた重要な存在でした。
問題だったのは、政治と宗教が近づきすぎたことにあります。
国家を守るために育てた宗教組織が、やがて国家の運営や意思決定を左右するほど大きくなっていったこと。
のちに大和からの遷都を実行した桓武天皇にとって、平城京は、奈良の大寺院、旧来の貴族、既存の政治秩序が深く結びついた都だと深く憂いていました。
 天武系から天智系へ
のちに桓武天皇が遷都を考えるうえで、もう一つ重要なのが皇統の転換ですした。
奈良時代の皇位は、主に天武天皇の子孫によって受け継がれてきました。
しかし、称徳天皇が後継者を残さずに亡くなると、皇位は天智天皇の孫にあたる光仁天皇へ移ります。その光仁天皇の子が、桓武天皇でした。
桓武天皇は、長く続いた天武系の政治秩序とは異なる系統から即位した天皇です。
そのため、彼には新しい皇統の正統性を示し、自らの政治基盤を築く必要がありました。
平城京は、天武・持統天皇以来の国家体制と深く結びついた都でした。
そこには古い人脈、古い制度、古い記憶が残っています。
桓武天皇にとって遷都は、都市を移すだけの事業ではありませんでした。
古い時代のしがらみとの距離を取り、新しい王朝の始まりを示す、政治的な宣言でもあったのです。 

天武系と天智系


784年、大和を離れる
父・光仁天皇から皇位を受け継いだ桓武天皇は、784年平城京から長岡京へ遷都を決意しました。
新しい都が選ばれた山背国の長岡は、桂川、宇治川、木津川、淀川へとつながる水上交通の要衝でした。
淀川を下れば大阪湾へ出ることができ、瀬戸内海を通じて西日本各地とも結ばれます。河川は古代の高速道路でした。
船を使えば、米、木材、石材、瓦、塩などの重い物資を、一度に大量に運ぶことができます。
長岡京への遷都は、奈良の寺院勢力から距離を置く政治改革であると同時に、国家の物流網を組み替える都市計画でもありました。
それは、桓武天皇による冷静で現実的な国家経営の決断でした。
しかし、大和を離れることは、簡単な選択ではなかったはずです。
大和には歴代天皇の宮殿があり、祖先の陵墓があり、国家を守る寺院がありました。三輪山、石上神宮、飛鳥、藤原京、平城京。
そこには、日本国家の記憶が幾重にも積み重なっていました。
桓武天皇は大和の文化や信仰を捨てようとしたのではなく、政治の中心としての大和に、一つの区切りをつけることを考えたのです。
国家が生き延びるために、自らを生んだ場所から離れる。
それは、古代史における最大級の決断だったのです。

大和王権の終焉ではなく、大和中心時代の終幕
長岡京への遷都によって、王朝も律令国家も、そのまま受け継がれていきます。この長岡京遷都、続いて平安京遷都は「ヤマト王権そのものの終焉」ではありません。
大和を恒常的な政治の中心とする時代が、このとき大きな区切りを迎えたとうことです。
神武天皇の伝承、崇神天皇の王権、三輪山の祭祀、山の辺の道、巨大古墳、飛鳥の宮、藤原京、平城京。
日本という国は、長い時間をかけて大和の地から成長してきました。

大和と王朝の歩み

ところが、国家が巨大化し、人口と組織と宗教施設が集中すると、大和盆地だけでは、その発展を支えることが難しくなっていきます。
物資をより効率よく運べる場所へ。古い政治勢力から距離を置ける場所へ。
新しい国家の仕組みを築ける場所へ。
都は大和を離れ、山背の地へ移っていきました。これは、大和が失敗したから捨てられたという単純には見ていません。
大和で育った国家が、あまりにも大きく成長したために、より広い世界へ出ていかざるを得なくなったのです。

「まほろば」が残したもの
平城京の繁栄は、大和の自然や地方社会に大きな負担をかけました。
しかし、その繁栄があったからこそ、日本は律令、仏教、建築、工芸、国際交流など、多くの文化を成熟させることができました。
東大寺の大仏も、単なる権力者の巨大建造物ではありません。
疫病や飢饉に苦しむ時代に、国を一つにまとめようとした人々の祈りが形になったものです。

一方で、どれほど高い理想を掲げた事業であっても、自然資源、財政、物流、労働力を無視すれば、社会は長く持続できません。
平城京の歴史は、現代に生きる私たちにも問いかけています。
都市の繁栄とは何か。国家の成長とは何か。巨大な建築物や経済発展は、本当に人々を幸せにするのか。そして、その豊かさの代償を、誰が支払っているのか。
日本人が今も「大和」という言葉に、懐かしさや心の安らぎを感じるのは、そこが単なる古代国家の中心地だったからではないと思っています。

大和とは、人と自然、神と人、豪族と王が、完全ではないながらも互いに折り合いをつけ、共に生きようとした原点です。
巨大都市・平城京は、その大和が到達した繁栄の頂点でした。
そして同時に、自然と人間の均衡が崩れ始めた転換点でもありました。

ヤマトは日本文明の心の故郷

「やまとは国のまほろば」この言葉が美しく、どこか切なく響くのは、大和が永遠に変わらない理想郷ではなかったからかもしれません。人々が繁栄を求めた結果、少しずつ失われていった風景。それでも私たちの心の中に残り続ける、帰るべき国の原風景。大和とは、失われた過去ではありません。自然と共に生きるとは何かを、今なお私たちに問い続ける、日本文明の心の故郷なのです。  

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