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『La Haine』——憎しみが生まれるまでの時間

前々から観たかった『La Haine』——ようやく観た。何かの縁があればと思い生き永らえていたところ、今月よりAmazon Prime Videoで配信されているではないか。

直近で『オーシャンズ』シリーズを観ていたのでヴァンサン・カッセルにもすっかり見覚えがあり、本作に登場するあの有名な鏡のシーンも、映画を観る以前から何度も目にしていた。

スラムや貧困を扱った映画というと、これまでアメリカ映画に触れることが多かった。そのため、フランスのバンリューを舞台に、そこで生きる若者たちを描く本作は私にとって新鮮だった。けれど、観終わって最も強く残ったのは、社会的・政治的な主題以上に、映像、音楽、身体、時間といった映画を構成する諸要素が、ほとんど隙間なく一つの方向へ収束していく、その造形的な強度だった。

モノクローム、都市、若者の身体、HIPHOP、時刻の提示、そして最後の数秒。一見すると別々の要素に見えるものが、画面の構成、時間の設計、人物の身体性を通じて一本の線に繋がっている。『La Haine』は、スタイルと主題が別々に存在している映画ではない。スタイルそのものが主題を語っている。

モノクロームと若者たち

本作は、とにかく画面が強い。構図、ショット、カメラワークが明確に設計され、人物だけではなく、建築、路地、広場、壁面といった都市空間まで画面構成の一部として組み込まれている。人物と背景を切り離さず、一つのフレームのなかに都市と身体を同居させることで、バンリューは単なる舞台ではなく、人物の生を規定する構造として画面に現れる。そこへモノクロームが加わることで光、影、輪郭、質感が際立ち、現実の都市がそのまま記録されるのではなく、明暗によって映画的に再構成される。

これまで観た白黒映画のなかでも、とりわけ印象に残った。白と黒という極端に限定された色彩設計が、むしろ画面の情報量を増幅しているとも感じた。

しかも、これをカソヴィッツが撮ったのは26歳。かくいう私も最近26歳になった。これは何とも複雑な気持ちになる。日本で何をしているんだ……。

というのは置いといて、カソヴィッツが描く本作の「若者」がひどく良い。『La Haine』を社会的・政治的な文脈から読むなら、貧困、人種、階級、移民、警察との対立といった問題は当然重要になる。しかし三人は、それらを背負った「社会問題の象徴」としてだけ存在しているわけではない。歩く。喋る。揉める。Ladiesの話をする。イケてる音楽を聴く。ゴチャゴチャして暇を潰す。常に怒っている。常に退屈している。社会への不満を抱えながら、くだらないことで笑っている。今週の頭に観た『青い春』もそうだった。

滅茶苦茶に若者なのである。

彼らを「貧困層」「移民」「マイノリティ」といった社会的カテゴリへ回収すれば、社会構造についてはいくらでも説明することができるだろう。しかし、その瞬間に彼らが持っている具体的な「時間」と「身体」は失われる。『La Haine』はそこを失わない。社会に規定された存在でありながら、社会とは直接関係のないくだらない時間も描く。その二重性によって、三人は「社会問題」から「人間」へ戻されるのではないか。モノクロームの画面を通して観ているこちら側も、社会的属性ではなく、その属性を抱えたまま歩き、喋り、笑い、退屈する「人間」を観ることになる。社会的属性と個人の時間を同時に画面へ置くことで、人物が抽象的な記号になることを拒んでいる。

彼らはまさに「若者SwagVibes」としか言いようがない。
こういう(若者SwagVibes)映画に、私はめっぽう弱い。

「何も起きていない時間」

観ているあいだ、「この映画、この先どう動いていくんだ」とずっと思わされていた。大きな事件が次々に起こるわけではなく、若者三人が街を歩き、会話をし、場所を移動し、また歩く。その反復によって一日の時間が少しずつ消費されていく。それでも画面から緊張が抜けない。警察との対立、暴力、貧困、怒り、退屈、友情、屈辱。そうしたものが事件として前景化されるのではなく、会話や仕草、都市の空気の奥へ沈殿していくからだ。「何も起きていない時間」が、実際には最も多くのものを蓄積している。

ふと、ヨアキム・トリアーの『オスロ、8月31日』を思い出した。内容は異なる。だが、時刻の提示によって、その日一日を生きることそのものを意識させ、人物が作品のなかである終点へ向かっていることを観客に絶えず認識させる構造には、確かな共通性がある。『Trainspotting』にも似たものを感じる。あちらはスコットランドの若者を描いたイギリス映画で、もちろん内容は異なるが、疾走、怠惰、悶々とした焦燥といったものが若者の身体に宿り、その身体そのものが映画を駆動している。先述した『青い春』もそうだ。ね。若者SwagVibes映画に、めっぽう弱いって言ったでしょ。

そして、タイトルが『La Haine』、つまり「憎しみ」であることを考えれば、この時間構造はさらに明確になる。憎しみは突然生まれるものではない。退屈、屈辱、怒り、無力感、友情、若さ。そうしたものが社会的環境のなかで時間をかけて堆積し、ある瞬間に暴力として噴出する。『La Haine』が撮っているのは、憎しみそのものではない。憎しみが形成されるまでの時間なのだ。 だからこそ、三人が「生活しているだけ」に見える時間が、この映画の大部分を占めているのだろう。何かが起こるまでの時間ではなく、何も起きていないように見える時間そのものが、すでに終点へ向かっている。

ただ、歩いているだけ。
でも、もう終点が見えている。

HIPHOP、身体、そしてフランス語

…これはもうHIPHOPを書かないわけにはいかないだろう。私の敬愛するラッパー、C.O.S.A.が『Girl Queen - EP』で「La Haine pt.2」という楽曲を出している。

約10年前から聴いていた曲であったが、本編を観た後では、これまで意識していなかった曲の背景まで立ち上がってくる。観る前と観た後で、まるで違って聴こえる。これがdigg=HIPHOPならではのサンプリングの楽しみだ。こんなふうに、一つの映画が別の音楽へ接続される瞬間が、たまらなく好きなのだ。

話が逸れているが、ふだん遊び程度でDJやダンスも齧っている身としては、DJシーンもダンスシーンも劇中に登場するので興奮冷めやらない。

『La Haine』を観たHIPHOPヘッズなら絶対に触れるだろう、「Sound of da Police」と「Non, je ne regrette rien」のmix…Vinyl DJ、かっけ〜〜〜〜〜。 直近でB2Bをした友人と「Vinyl DJ格好良すぎる」とインスタのDMで興奮トークを繰り広げたばかりだ。まさにタイミングが良すぎる。DDJ-FLX4で雑魚DJを練習していて惨めな気持ちになるよ…精進します。🥋

ただ、ここは単なる音楽の話では終わらない。都市、階級、若者、社会的排除、自己表現、身体、そしてストリート。『La Haine』とHIPHOPは同じものを描いているわけではない。それでも、周縁化された若者たちが音楽、言葉、身体によって自己の存在を外部化していくという点で、両者には明確な共振がある。だから本作を「貧困や差別を扱ったフランス映画」とだけ括るのは少し足りない。都市空間、若者の身体、音楽、階級、自己表現が一つの映画的言語として接続されているからこそ、『La Haine』は社会派映画という枠組みからも少しはみ出してくるのではないか。

そして、思いがけずフランス語にも喰らった。これまで観てきたフランス映画では、フランス語ってゆっくりで美しい…綺麗なことばだ…とばかり思っていた。だが、『La Haine』ではじめて、とても激しいフランス語を聴いた。私がこれまで持っていた「美しいフランス語」のイメージからは明らかに異なる発話の速度、語気、声量。そこには言葉の意味以前に、人物の社会的位置や身体性まで滲み出ている。怒りや苛立ち、威嚇や挑発が、台詞の内容だけではなく、発話そのものの物質性として立ち上がってくる。

単純な私は、『La Haine』をきっかけにDuolingoを始めました。🇫🇷(そんなやついない。)「Ça va」とかさ。ちょっと齧っただけなのに、劇中でしっかり理解できる言葉が出てくる度、「わかる…! わかるぞ…!」と恍惚を覚えましたよ。

話が逸れすぎている。

少し本編に戻すと、カソヴィッツ本人がスキンヘッド役で出演しているのもたいへんおもしろい。しかも自らが監督した映画に出演し、「スキンヘッドは世界最低の奴だ」なんて台詞を他の役者に言わせている。

自分で出て、自虐させるんかい。
しかも、こんな名画で。私もいつかやるぞ。

そんな彼は後年、『アメリ』でニノを演じている。同じフランス映画なのに『La Haine』とはまるで違う作品だ。それでも、社会的・政治的な主題を扱う作品の内部に、こうした遊戯性や自己言及的な軽やかさを残しているところが、たいへん好ましい。映画を社会について語るための器に閉じず、音楽や身体、言葉、そして作り手自身の遊びまで含めて映画そのものを躍動させている。そこまで含めて、『La Haine』はやはりイケている。

AM6:00からAM6:01へ

そして、やはりラストシーン——。冒頭から「落下」のモチーフが提示され、画面には時刻が現れる。一日の時間が進んでいく。それは明確なカウントダウンではない。それでも、映画全体がある終点へ向かっていることだけは、冒頭から最後まで、時間構成そのものによって感じさせられる。

AM6:00からAM6:01。

それまでの98分が、最後の数秒によって一気に反転する。冒頭で提示された落下が現実のものになることで、それまで何気なく観ていた会話、退屈、笑い、友情、怒り、音楽までが、すべて最後の一瞬へ向かって積み重ねられていたのではないか…!

私はこういう終わり方に弱い。ドッタンバッタンと激しい起承転結が起き、ラストにはジャジャーン!とすべてを回収するハリウッド映画もとても好きだ。よく映画館に観に行くくらいはね。だが、本作のように時間を淡々と積み重ね、その最後の一瞬によって、それまでの時間そのものの意味を反転させる映画の方が、やはり好みなのだ…。この次のnoteにあげようと思っている『ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』なんて、まさにね。

本作のラストが強烈なのは、「衝撃的な結末」だからではない。それまでの淡々とした生活、その蓄積として費やされた98分があるからこそ、最後の一分が成立する。ああ、美しい。何て素晴らしい時間の使い方なんだ。映画は最後に意味を付け足すのではなく、観客がすでに経験した時間そのものを遡及的に書き換える。 それまで見てきたものが、最後の数秒を経た瞬間、別の意味を帯びて立ち上がる。ラスト数秒が、それまでの98分を喰らう

実際に観ていた私も、呆然としてしまった。
こりゃカンヌもスタンディングオベーションしちまうわ。私もした。

1995年から2026年へ

本作が公開されたのは1995年。それから2026年の今、30年以上が経った。1995年のフランスと2026年の日本では社会状況も歴史的背景も異なるため、人種、移民、階級、警察、都市構造をそのまま重ね合わせることは無論できない。それでもなお、30年以上前のフランスを描いたこの映画を今観て、最後に残ったのは社会問題についての答えではなかった。白と黒の画面、ヴァンリューを歩く三人の身体、音楽、言葉、そしてAM6:00からAM6:01へ移る最後の一分。

三人は社会の犠牲者として固定されない。怒ったり、笑ったり、くだらないことをしたり、音楽を聴いたり、街を歩いたりする。そのどうでもいい時間の内部に社会的な緊張が入り込み、少しずつ濃度を増していく。だからこそ、社会的な背景と彼らの生活は切り離せないし、同時に、彼らの生活を社会的な背景だけで説明することもできない。この映画が今も古びて見えないのは、社会問題を「説明」しているからではなく、その社会のなかで人間が時間を費やしている、その具体的な時間を撮っているからではないだろうか。

観る前から感じていた「イケている」という感覚も、単なるスタイルへの感嘆ではなかったのだろう。モノクローム、HIPHOP、若者の身体、都市、時間。どれも単体で格好良いのではなく、それらが一つの映画的構造のなかで相互に作用しているからこそ、あの画面にはあれほどの強度がある。そして、その強度の奥まで入っていくと、最後に残るのはやはり「憎しみ」そのものではなく、そこへ至るまでに蓄積された時間なのだ。

『La Haine』が撮っているのは、憎しみが爆発する瞬間だけではない。そこへ至るまでの、何も起きていないように見える一日。その一日を歩き、喋り、笑い、怒り、退屈する三人の時間が積み重なった先に、最後の一分がある。だから、30年を経た今観ても、あの一分間は重い。

そして何より、カソヴィッツ、この名作を26歳で撮っているのって…。


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