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私が距離を置くとき

ブラウザを開けば、自分の興味が反映された記事が並ぶ。

スマホのアプリからは、使いなさいとばかりに通知が主張する。

必要に迫られ登録したメールアドレスには、山のようにたまった未読メール。

色んな言葉が私を誘う。

始めは必要だったかもしれない言葉たちが、煩わしい言葉へと変わっていく。


朝起きた瞬間から急かさせるように動かなければならない生活のなかで、必要な情報を取捨選択するエネルギーは残されていないのかもしれない。

広告と分かった時点で、私の頭はそれを理解することを止めてしまう。

そうなるとそこにある情報はただの雑音でしかない。

雑音が大きすぎる場所は居心地が悪いように、あまりに欲を刺激しようとする言葉に触れ続けていると居心地が悪くなる。

「なんか、もう見たくないかも」

途端に今まで見ていたものが薄気味悪く感じるようになる。


おすすめしてくれるのは便利だし、ありがたいと思う。

でも、便利なだけでは豊かさを感じられないような気がしている。

いくら周りが便利になって効率的に動こうとも、私は効率的に動けるわけではない。

ちょっとずつズレた歯車が私の動きを止めていく。

もしかしたら便利になるほど私は居心地の悪さを感じるようになるのかもしれない。


効率を追い求めるとするならば、人はロボットになるしかない。

感情を捨て、数値だけで物事を判断し、損得を基準に人生を生きる。

書いていて「そんな人、嫌だな」と思ってしまった。

でも、こうなることを求められてるような気がしてならない。

辛いとき、『こんな感情捨ててしまえば楽になるのに』と思うことがある。

きっと、私はこの先も同じことを思うに違いない。

時間を気にして生きることの窮屈さを感じつつも、日々を効率的に生きようと時間を気にする。

私はきっと心地よい立ち位置を探しているのだ。


再びnoteを始めるにあたって、アプリの通知をオフにした。

通知が私を疲弊させるからだ。

それは、反応を気にする私が存在するということでもある。

私はそうやってバランスをとっている。



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クルエルカ 最後まで読んでいただきありがとうございました。

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