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受け継がれていくものは、言葉じゃない

仕事が終わって、家に帰ると、キッチンに小さなお皿が二つ置いてあった。
息子が、近所に住むシッターさんと一緒にお菓子を食べたときに使ったものらしく、特別な柄でもない、うちで普段から使っている、ごく普通の皿だった。

帰宅した直後は、それを見ても特別な感情が動いたわけではなくて、「ああ、何か食べたんだな」くらいの感覚のまま、手を洗って、次に何しなきゃいけないかなとか考えていたと思う。

ただ、何となく視線が戻って、もう一度キッチンを見たときに、空になったお皿の横に、開いたお菓子の袋がきちんと畳まれて置かれているのが目に入った。
息子は、お菓子を袋から直接食べるのではなく、きちんと入れ物に移してから食べていたようだった。

それは、妻が生前、当たり前のようにしていた習慣だった。

誰かに教えるためにしていたわけでも、躾として意識していたわけでもなかったと思う。「そうしなさい」と言っているのを聞いた記憶もないし、理由を説明していた場面も思い出せない。
ただ、彼女はいつもそうしていたし、それが彼女にとっては特別でも何でもない、生活の一部だったのだと思う。

息子は、ママと過ごした6年間という時間の中で、その所作を自然と身につけていたのだと思う。
教えられたという感覚というよりも、横にいて、同じ空間で、同じ時間を過ごしていた中で、知らないうちに体に染み込んでいったものなのだろう。

思い返してみると、妻は「教える人」というよりも、「やって見せる人」だった気がする。
あまり多くを語るタイプではなかったけれど、日々の選択や動きの中に、その人らしさがあって、家の中には自然と彼女のリズムが流れていた。

人は、言葉よりも、行動の方をよく覚えているのかもしれない。
記憶としては薄れていっても、体の感覚として残るものがあって、そういうものの方が、時間が経っても形を変えずに続いていくのだと思う。

息子の中にも、そうやって残っているものが、きっといくつもあるのだろうね。本人が意識することもなく、思い出として語ることもなく、ただ生活の中で、当たり前のように繰り返されていくものとして。

行動として受け継がれていく、「魂を引き継ぐ」というのは、たぶん、こういうことなのかもしれない。

キッチンに置かれた二つの皿を見ながら、僕はそんなことを、しばらく考えていた。

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