映画『オデュッセイア』を観て、AIとの向き合い方を考え直した
どうも、現役デザイナーのくらけんです。
都内のデザインスクールで講師もやってます。
先日、クリストファー・ノーラン監督の『オデュッセイア』を観てきました。

この映画は史上初めて全編をIMAXフィルムカメラで撮影した作品。
そのカメラの重さは約136キロにも達するモンスター級の機材で、撮影可能な時間は一度につき約2分半から3分しか撮れない。撮影のアングルも限られてくる。さらに撮影時の騒音も凄いらしい。
時代と逆行する撮影スタイルに、主演のマット・デイモンは「100年前の撮影現場のようだった。」と振り返っています。
それらの弱点をもってしてまでノーラン監督がIMAXをチョイスする理由は、
「映像のクオリティが凄まじい」
の一点。
ビルのように巨大な映画館のスクリーンで観ても映像はまったくぼやけず、精密に映像を描写し、観客に没入感を与え、究極の「映画体験」を提供するためです。

普通に考えれば、デジタルで撮った方が圧倒的に軽くて速くて安いはずです。今の時代、iPhoneで撮った作品すらある。
それでもノーランは、重さ100キロを超えるカメラを、わずか数分しか回せない制約ごと受け入れて、全編フィルムで撮り切った。
でも、だからこそ惹かれるものがありました。
大迫力の没頭感に、観終わったあとはしばらくその余韻が抜けなかった。
これは、AIとどう向き合うかの話でもある
今の時代、AIで誰でも高品質な絵やデザインを作ることができる。
でもそれって、本当にハッピーなことなのか?今回は考えたいと思います。
前回、次回予告としてこう書きました。
次回は、クライアントやディレクターがAIで作った「もう完成に見えるデザイン指示書」が送られてきたら、デザイナーはどうしたらいいの?を書きます。
というのも先日、SNS上でこんな話題が盛り上がっていました。
「あくまで参考です」の完成度
ディレクターがAIで参考画像を作ってデザイナーに渡したら、その完成度の高さに、デザイナー側が「ここからどうデザインしろと?」と手が止まってしまった——そんな声です。

(↑パット見でクオリティが高いパンフレット。この「参考」を渡されてデザイナーならどう対応する?)
同じようなことが、僕の周りでも起きています。
とある案件で、ディレクターから「あくまで参考です」と、AIで作られたビジュアル案を渡されたことがありました。見た瞬間、驚きました。想定される用途を踏まえた、理にかなった構成・デザインになっていたからです。
そのビジュアルをベースに細かい調整をして、デザインを提出。すると、こう言われました。
「参考と似すぎているので、変えてください」
正直迷いました。
レイアウトなど機能的には、理にかなっている。それを「似すぎているから」という理由だけで手放していいのか。
「AIに似ている=悪い」は、本当か
AIが作ったものに似ているからNG、という感覚には昨今の生成AIへの嫌悪感も透けて見えます。でも機能的な正しさと、装飾など見た目の出自は、本来別の軸のはずです。ここが混同されている。
もう一つ、ねじれがあります。
「AIで参考を作ったから、細かく指示してあげないと」という配慮。
これは一見、優しさに見えます。
でも、指示を細かくすればするほど、デザイナーは「言われた通りに手を動かす人(オペレーター)」に近づいていきます。
AIがどれだけ精巧な参考を出しても、そこに人間の判断が入り込む余地を残しておかないと、デザイナーを雇う意味自体が薄れてしまう。良かれと思っての配慮が、皮肉にも存在意義を削ってしまいかねない。
そもそも、AI生成物の高い完成度自体、過去に無数のデザイナーが積み重ねてきた判断やレイアウトの型を吸収した結果です。
「無からAIがあっという間に作った」ように見えて、実際はそうじゃない。
オデュッセイアに、戻る
ここで、映画の話に戻ります。
ノーランが、効率的で安価なデジタル撮影ではなく、あえて不便で金のかかるフィルムとIMAXに拘ったのはなぜか。
それは、
妥協しない基準を持つこと自体が、作品の価値そのものになると確信していたから。
同じような感覚を、最近よく知り合いのデザイナーと話すようになりました。ある人はこう言っていました。
「個人的にはデザインをAIに作らせるというより、深く考え続け、頭に浮かんだデザインをAIに再現してもらう、が近い」
作らせるのと、再現してもらうのは、似ているようで違います。
前者は判断をAIに委ねていますが、後者は判断がすでに自分の中にあって、AIは実装の手でしかありません。
もう一つ、印象的な言葉もありました。
「正しいデザインが溢れかえった未来で、イカれた案を出せるように頑張ろうと思っています」
AIが「無難で理にかなった正解」を、誰でも簡単に大量生産できるようになるほど、逆に「あえて手間をかける」「あえて外す」という判断の価値は上がっていきます。オデュッセイアが、便利な時代にあえて不便を選んだのと根っこは同じです。
まとめ
今回言いたかったことは、イラストやデザインなどクリエイティブの分野においては特に、
「楽をするためになんでもAIを使う」という認識でいるなら、それは危険な発想かもしれない
という当たり前の気付きでした。
AIから渡された「理にかなった案」を、そのまま受け入れるか。それとも、自分の中に、別の基準を持っているか。
AIの参考画像を渡されたときに、自分に問いかけてみてください。
この案の、どこが「良い」とされているのか
その良さは、自分がこだわりたい部分と一致しているか
もし言葉で説明するなら、なんと言うか
便利さに逆行してでも守りたい基準があるかどうか。それが、AI時代の「センス」なのかもしれません。
ちなみに、「あえて外すデザイン」は定期的に話題にはなるなぁと実感してます。例えばこれとか↓
藤井風さん 秋に東京でピアノリサイタルhttps://t.co/92VmXjmwyJ pic.twitter.com/JdjSYDLP2J
— Fujii Kaze Staff (@fujiikazestaff) September 9, 2026
(会場が東京ドームなのに、Wordで作ったようなデザイン)
これは売れてるアーティストがやるから面白いのであって、高度すぎる技ですが。。
次回予告
さて、今回ははここまでとして、実はもう一つ、別のシリーズも動いています。
架空のスクールのLPを、企画からAIと一つずつ作っていく実況「THE MAKING」。
ちょうど今、ファーストビューが出来上がったところです。
AIに出してもらった案をそのまま使うのではなく、判断を重ねながら形にしていく過程を、次はそちらで公開します。
自分でも意外な方向性になったので、お楽しみに。
僕のnoteでは、
THE SENSE→「センスの正体」を探る
THE MAKING→「AIを使ってデザインする過程」を実況する
という2つの企画を順不同で投稿しています。
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