見出し画像

「listudeのひらく森」vol.10  ──韓国で出会った、90年前の巨大スピーカーが奏でる本物の音楽

listudeが配信するポッドキャスト「No Sound, No Music.」で収録した内容をもとに、山梨県・北杜市の森の中に新たな拠点をつくるプロジェクトの記録を、あらためてテキストとして綴っていきます。ポッドキャストでは語りきれなかったことも、この場所では少しずつ補いながら書いていければと思っています。


ソウルから1時間半、ヘイリ芸術村へ

ソウル中心部から電車とバスを乗り継いで、およそ1時間半。
坡州(パジュ)にある「ヘイリ芸術村」へ行ってきました。

芸術家や作り手が集まり、デザイン、工芸、ものづくりにまつわる店や空間が点在している場所です。
クラフト村のようでもあり、かといって手作り感一辺倒でもなく、洗練された“いいもの”が自然に集まっているような印象でした。

その中にあるのが、「Music Space Camerata」という空間。
私たちは以前から Instagram などで見かけていて、ソウルへ行くならぜひ訪ねたいと思っていた場所でした。

なぜそんなに気になっていたのかというと、そこには Western Electric の巨大なヴィンテージスピーカーが鎮座しているからです。


建物の一部になっている、巨大なスピーカー

Western Electric は、スピーカーの歴史を語るうえで避けて通れない存在です。
トーキー映画が普及していった時代、映画館の音響を担っていた、まさに“音の黎明期”を支えたようなシステム。

いまの感覚で言えば、現代の最先端半導体開発は、国家レベルの投資が必要です。数兆円単位の設備投資が行われます。1930年代の映画産業も同じくらい巨大産業だったので、Western Electric の音響開発は当時の最先端技術が国家的な規模で注ぎ込まれていたようなものだったのだと思います。
そうして作られたものが、いまではヴィンテージ・オーディオの中でも特別な存在として扱われている。

実際にその場所へ行ってみると、想像以上でした。

巨大なスピーカーが「置かれている」というより、もう建物の壁そのものとして組み込まれている。
まさに建築の一部です。

その正面に向かって、50席ほどの椅子が整然と並んでいて、入場料を払うとドリンクが1杯ついてくる。
好きな席に座って、音楽を聴きながら静かに過ごす。
カフェというより、むしろ“聴くための場”でした。

おしゃべりをする場所ではなく、みんなそれぞれ本を読んだり、一人でじっと聴いていたりしながら、ただ音楽と時間を味わっている。
若い人も多くて、その光景自体にも少し感動しました。


「いい音・悪い音」を超越する説得力

正直、最初は少し侮っていたところもありました。
1930年代のスピーカーです。ほとんど100年前のもの。
どこか“物好きのための世界”というか、古き良き味わいはあるけれど、現代的な意味でまともな音楽再生は難しいのでは、と勝手に思っていたんです。

でも、全然違いました。

たしかに高域は今のスピーカーのようには伸びません。
足りないと言えば足りない。
それなのに、不思議と物足りなさがないんです。

最初に書き留めた感想は、「音がきめ細かく泡立っている」でした。

クリーミーなんです。
なめらかで、口当たりがよくて、でも輪郭が曖昧ということではない。
ただ情報量を出しているのではなく、音楽がふわっと立ち上がってくる感じがある。

それは、私がライブのPAをするときにずっと出したいと思っている、ヴォーカルの“クリーミーさ”にも少し通じる感覚でした。
狙ってもなかなか出せない質感が、そこにはすでにあった。


ものすごい音圧なのに、うるさくない

音量はかなり出ていたと思います。
重い扉の外にいる時点で、すでに音が漏れ聞こえていて、期待が高まるほどでした。

それなのに、いざ中に入って最前列に座っても、全然うるさくない。
これは本当に意外でした。

ホーン型のシステムなので、もっとメガホンのように音が飛んでくるイメージを持っていたんです。
でも実際にはむしろ柔らかくて、建物全体が鳴っているような感覚がありました。

コンクリートの箱のような空間なので響きすぎるように思うのですが、上部には細かな木のリブが組まれていて、その建築的な処理も含めて音がとても自然に響いている。
余韻が“作り物”っぽくないんです。
本当にホールで鳴っているような、リアルな余韻をしていました。

建物と音響のバランスが、見事に取れている空間でした。


音を再生しているのではなく、演奏していた

ここで一番印象的だったのは、性能の話では語れない、ということでした。

高音がどこまで伸びるとか、細かい音がどれだけ聞こえるとか、そういう尺度では捉えきれない。
もちろん定位感もあるし、ピアノの一音一音に頑丈なピアノの骨格に張られた金属の弦が鳴る胴鳴りの気配がちゃんと宿っている。
オーケストラが大きく鳴るときのダイナミックレンジも、生っぽくて圧倒的でした。

でもそれ以上に思ったのは、
このスピーカーは、音を再生しているんじゃなくて、演奏している。
ということでした。

スピーカーが単なる装置としてソフトを鳴らしているのではなく、自分なりのミュージシャンシップを持って、「音楽」しているように感じたんです。

だから「この音が出ていない」とか「帯域がこうだ」とか、そういう話が急に小さく見えてくる。
もちろん向き不向きはあります。テンポの速い曲では少ししんどい場面もあった。
でも、声や弦、そして大きな音の充実感には、このシステムでしか得られない生々しい説得力がありました。


巨大なスピーカー群が一体となって鳴っていた

この複雑なスピーカー群を統率感を保って音楽を再生させるのは至難の技のはずです。
しかし見事に音が雑に重なって濁っている感じは全然ない。

スピーカー毎にそれぞれが役割を持ちながら、きちんと統率されて、ひとつの演奏になっている。
まるでオーケストラのようでした。

“このスピーカーで聴いたらどう鳴るだろう”という、オーディオマニアの気持ちが少しわかった気もしました。
ソフトそのものを隅々まで検聴するように聴きたいのではなく、
このシステムが、どうその音楽を解釈し、どう演奏するのかを味わいたい。
そういう楽しみ方なんだと。


古い劇場の“念”のようなもの

また、強く感じていたのは、音そのものだけではなく、そのスピーカーがまとっている時間の厚みでした。

見た目からして、もう圧倒的に古い。
塗装の剥がれ方、木材の質感、その存在そのものに歴史が滲み出ています。

そこで『ウエスト・サイド・ストーリー』のような音楽が鳴ったとき、まるで古い劇場にいるような気持ちになりました。

長い時間、たくさんの人に愛され、使われ続けてきた劇場。
そこで幾度となく舞台が上演され、人が感動し、拍手し、人生のどこかにその記憶を刻んでいった――。
そんな堆積された記憶のようなものが、あのスピーカーから立ち上ってくる。

“音がいいか悪いか”という評価をするより先に、ただ「大切にされるべきものだ」と感じてしまう。
音以上の何か、歴史や物語や、ある種のオーラが確かにありました。


窓の外は“いま”なのに、こちら側では別の時間が流れている

さらに忘れられないのが、
建物の上部に細いスリット窓が切られていて、そこから外の景色が見えました。
木々が揺れていて、蝉の声も聞こえる。
外には、いまこの瞬間の韓国の夏がある。

なのに、こちら側で音楽を聴いていると、まるで外の景色がなんだか嘘っぽく見える。
中の時間と外の現在の景色が、別々にそこにあるようなすごく不思議な時間感覚でした。

そして思いました。
この先、レコードでもCDでも、過去に残された名演奏と呼ばれる音源は無数にある。そしてこれからもそんな音源が生まれ続ける。この場でそれらが再生される意義も無限に広がっていく。
それって、なんだかよくわからないが、すごいことだなと…。


私たちも、こういう場をやりたい

入場料は、日本円で1600円くらいだったと思います。
ドリンク付きとはいえ、コーヒー1杯として見れば高く感じるかもしれません。
でも、あの場所で過ごせる時間の価値を考えると、むしろ安すすぎると思いました。

しかもそれが、ある種パブリックな文化施設として開かれている。
若い人もたくさん訪れていて、静かに音楽を聴いている。それは文化への本当に大きな貢献だと思いました。

自分たちの次の場所――山梨でつくろうとしている空間――は、規模としてはそこまで大きくないかもしれません。
でも、天井の高さもあるし、まったく遠い話ではないとも感じました。

ああいうふうに、音楽を“ちゃんと聴ける場”をつくること。
あんな場所を見てしまったら、自分たちもやりたくなってしまいます。

空間の扱い方、場のあり方、文化への開き方。
いろんな意味で、強く背中を押される体験でした。


いいなと思ったら応援しよう!