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【マイソングス】~ボッサ・でっさ・ナイト①

今回のマイソングスは、暑い夏にとっておきの音楽聴いていただこうということでボッサ・でっさ。
そんな日の夕涼みに最適なボッサなナイトでございますん。

先日一時帰国の時に、ファンの皆さまのご期待にお応えし密やかにやらせて頂きましたイベントの『ボッサ・でっさ・ナイト』note版でっす。
(約5000字)

お楽しみください😍


            🌅🌅🌅🌅🌅



悲しみのないサンバを演奏することは、ただ美しい女性を愛することだ。

ヴィニシウス・デ・モラエス


深い。深すぎるぜ、兄貴。

これぞ!ボサノバ界のドン、偉大なる詩人にして稀代の大酒豪。
見よ、この映像。片時もウイスキーは手放さねぇ。
しかも講談師の如きテーブルに座りながら
「ヴァイ!ヴァイ!ヴァイヴァイ!」(Go!Go!GoGo!って意味ね)
とリズムに乗りながら歌う様はどこかの教祖か、いや正にコレがボサノバじゃ、と言った体。


そしてこの中でも共演の、ボサノバ界の貴公子アントニオ・カルロス・ジョビン。
ま、この二人がリオのバーで意気投合してできたんが、
『イパネマの娘』(1962)ってのは容易に想像がつく。
だって歌いながらつぶやいてますし。

「夕方アペリティフ飲んでるときだったか、すんげぇキレイですんげぇイカすオネエちゃんが通ったんだわ!」

は、やっぱり。
そして今では世界中でたくさんのカバーが。

しかし最初の録音されたボサノバソングといえば、もちろん二人で作ったこちら。
ジョアン・ジルベルトが歌った『想いあふれて』(1959)。



原題は『シェガ・ジ・サウダージ』。
シェガシェガしたボサノバのリズムがこのムシムシした時期には心地良い。
このアルバムには他にも、『ロボ・ボボ』、『オバ・ララ』、『ビン・ボン』など耳障りの良いシェガシェガリズムが満載。

これでボサノバ創始者の重要三人勢揃い。
ちなみに2016年のオリンピック、リオ大会でのマスコットの名前が「ヴィニシウスとトム」だったらしいですから、かなりな慕われっぷり。


ヴィニシウスは詩人として、その後すぐに今まで構想を練っていた『黒いオルフェ』の案を映画として1959年に発表。
その主題歌『カーニバルの朝』はギタリストのルイス・ボンファが演奏して有名になった。




ああ見えてもヴィニシウスは、一応元外交官でしてねぇ。1960年代にはパリに赴任しておりまして、どうやらその頃に有名な映画『男と女』の音楽担当フランシス・レイや、おフレンチ・ボサの第一人者ピエール・バルーなんかとも♪酒場でダバダバダしちゃってたらしいんですよ。


そしてこちらがシングルB面の『男と女のサンバ』。


歌の中にも名前ぶっこんじゃってます。
ジョアン・ジルベルト、カルロス・リラ、ドリヴァル・カイミ、アントニオ・カルロス・ジョビン、ヴィニシウス・ジ・モラエス、バーデン・パウエル。
今ここでピエール・バルーが「お友達」と言いながら♪サラヴァしてるのがバーデン・パウエルで、一曲目のヴィニシウスの『ヴァイ!ヴァイ!ヴァイヴァイ!』の曲を作った人。
正式曲名は『オサーニャの歌』と申します。
しかも基本ここに出でいるお名前マスターしておけば、ボサノバはほぼ制覇したようなもの...!?

だがしかし、ヴィニシウスは、実は1969年に外務省クビになってるんですよ。
名目はあららの「アルコール依存症」。
え、それだけでクビ!?
と思われるでしょ。いやね、ちと公私混同しちゃったのね。なんでも不祥事起こしちゃってるんで。
ヴィニシウスったらパリ赴任中、酒好きが高じて大好物だったスコッチウイスキーのヘイグを、箱詰で20ダース(240本っすね)無断で自宅に送っちゃっいました。もちろん免税。いわゆる外交特権の乱用っす。1962年の出来事。
で、それだけならまだしもその20ダースでウハウハしながら、バーデン・パウエルと共に自宅に籠り、吞みながら書きました。って三ヶ月。
どんな愛の結晶ができたかと思いきや…

『ヴァイ!ヴァイ!ヴァイヴァイ!』を含む全25曲。
さすがドン!!
すごいわ~、やること違うわ~。

ま、ここらで堅苦しい外交官なんてこっちからお断りでぃ。
といったか言わなかったか、それはそれで丸く収まったわけで。
そんで翌年1963年に発表したヴィニシウス/ジョビンの傑作が
『おいしい水』。



アンタの『おいしい水』ってヘイグやったんかい!
天才とは逆境をも盾にできる、と。

そんでもってかのマイルス・デイビス曰く、ここで「新聞読むみたい」に鼻歌っちゃってるのがアストラッド・ジルベルト。当時のジョアン・ジルベルト夫人。
アストラッドはボサノバ界の女神ナラ・レオンとお友達。



ヴィニシウス/バーデンのこの曲『ビリンバウ』はまさしくブラジルの民族楽器を歌った一曲。1964年録音。


ナラと一緒にリオのバーへ出入りするうちジョアン・ジルベルトに出会い1959年に結婚します。そりゃあ家に腕のいいギタリストがいたら思わず鼻歌交じりに歌っちゃいますよ!
しかしそう鼻歌ばかりの日々は長く続かず。

超有名盤1963年のVerve『ゲッツ/ジルベルト』。



ジョアン、アストラッド、ジョビンはウエストコーストで、スタン・ゲッツに出会いこの歴史的アルバムを発表。
ビルボードにてアルバムチャート2位、アストラッドが歌った『イパネマの娘』がシングルチャート5位。
その代わりアストラッドはスタン・ゲッツの元へお家替え。二人は1964年に離婚。
アメリカでの成功を夢見て、映画『クレイジー・ジャンボリー』(Get Yourself a College Girl1964) にも出演。



ほ~、ゲッツさんエラいうれしそうでんな~。
顔がニヤけてまっせ。
そんでもって、もしかして後ろでヴィブラフォン叩いてんのって若き日のゲイリー・バートンちゃうん!?

そんでもってさらに、姐さんのお気に入りジミー・スミスも。
他にデイヴ・クラーク5にアニマルズ。


ま、内容的には典型的な若者向けおバカ映画の典型ですが、その後の『グリース』や『バック・トゥ・ザ・フューチャー』さえ予感させるコメディ映画ですん。
ってな感じでちと横道にそれました。


でもいいんです。その後ジョアン・ジルベルトは陽気なミウシャと再婚したんで。
で、一曲目『ヴァイヴァイ!』では彼女も歌ってますから。
更に1976年に再び顔合わせした『The Best of Two Worlds』ではミウシャも歌ってますから。
なんやねん。わだかまりとかないんかい!?



そしてこの新しい嫁のミウシャの兄も偉大な詩人で歌手のシコ・ブアルキ。
ヴィニシウスと一緒に作った『サンバ・ジ・オルリー』。



思った通りパリのオルリー空港のことを歌っているようです。

そしてさらにジョアン・ジルベルトとミウシャが一緒になってできた娘が、ベベル・ジルベルト。笑顔が母にそっくりです。
こりゃまたとんでもない血のつながりになってるんですな。



ここは先ほども聞いたバーデン・パウエルの曲で「祝福のサンバ」(Samba Da Benção)。ピエール・バルーと一緒に歌っていた『男と女のサンバ』(Saravah)の原曲ですね。


では、この辺でちと歴史のお勉強。

まずイヨークニ(1492年)!と言いながらアメリカ大陸を発見したしゃかりきコロンブス。彼は何人?

正解、彼はイタリア人。しかし彼の乗った船はスペインの船だった。
この時の隣国ポルトガルのガッカリ度は計りしれない。
サッカーの欧州杯に負けたような気分だろう。
しかし!ポルトガルにはヴァスコ・ダ・ガマがいた。
今だに国民は誇りに思い街に彼の名の付く通りも実在する。

そのガマは1497年にポルトガルを出発→西アフリカ→喜望峰→モザンビーク→インド西岸ゴアへと到着している。

ヴァスコ・ダ・ガマ航路


この航路の目的は東へのコンキスタと香辛料の調達。そのため今でもインドのゴアにはキリスト教とポルトガル人の名字を持つインド人がいる。更に1970年代ヨーロッパのヒッピーたちはゴアを目指した。そしてその後もポルトガル人はインド→マカオ→種子島へと1543年に辿り着いた模様。

そしてそれとは別の航路で、探検家のペドロ・アルヴァレス・カブラルが1500年にブラジルを発見。
ここでもポルトガル人が欲しがったものは、ブラジル原住民が身に着けていた服の色。そう、染料だった。後にブラジリンと呼ばれるこの赤い染料はキリスト教の最高位のみが身に着ける色だった。
そうしてもう一つはパウ・ブラジルと呼ばれる赤い木。これは硬質で丈夫なためチェロやバイオリンを作るときに使われ大変貴重だった。
欲しいものが手に入ると、次に事業を拡大しようと植民地化が始まる。人が必要になる。

じゃあ、アフリカから連れて来るっぺ!
と連れて来たのは、ガマ航路でサトウキビの栽培に利用していたアンゴラとモザンビークから。ついでにカーボ・ヴェルデもね。
ま、アンゴラとモザンビークに寄ったのもそのうち横つながりにしちゃるでぇ~、そしたらその後南下しちゃるでぇ~、これでアフリカ大陸南半球はげっちんやで~、って下心見え見え。

そんで結局1822年にブラジル帝国ってのができて一応独立。
たくさん連れてこられたアフリカの人々は、1888年の奴隷廃止で自由になるんですが。

その植民地から連れていかれた人々が自然と持って行ったのがやっぱり音楽。大変だったんやろねえ。
でも音楽史的にはそれがなければボサノバってありえなかったのよね。

ということでまずは最初の中継地カーボ・ヴェルデに寄ってみましょう。
カーボ・ヴェルデといえばこの「裸足の歌姫」ことセザリア・エヴォラ。
1992年リリースのこの曲『ソダーデ』がパリで大ヒットして以来おなじみに。



彼女はカーボ・ヴェルデの音楽「モルナ」の歌い手でもあります。
哀しげだけどリズミカルで自然に体が動きます。


そして季節風に乗って南下していくとアンゴラへ到着。
1972年にデビューして以来アンゴラ、ポルトガル両国で人気のボンガ。
彼は間違いなくアンゴラで最も成功したアーティスト。
サオ・サルバドルはアンゴラにある町の名前。
彼は前述のセザリアともデュエットしています。



こちらのパウロ・フロレスも心地よ~い。
このアンゴラの伝統音楽「センバ」っていうのがもうずっと聞いていたいんですよねぇ~。
「幸せな泣き方」(Jeito Alegre de Chorar)という意味のタイトルも郷愁をそそります。


そして喜望峰をぐるっと回って東岸へ来るとモザンビークへ。
ここではこの人がめちゃスキ。


70Sのレトロ・ポップスですが、当時イギリスを皮切りにフランス、ドイツ、東欧でも大ヒット。コミカルでハッピーな曲が耳に残りやすいんです。

こんな音楽を連れてやって来たブラジルの地。
そこにあったのはポルトガルからの哀愁のメロディーと楽器たち。
そこでできたのが「ショーロ」。ポルトガル語のChorar(ショラール)という言葉からついた名前。

ルイス・アメリカーノはジャズクラブやラジオで活躍し有名になりました。


「ウン・ア・ゼロ」なんて言うこんな陽気な曲もあります。
ショーロ界の第一人者ピシンギーニャは1897年生まれのフルート・サクソフォニスト。


次の曲は「カリニョーゾ」。ブラジル人の第2の国歌ともいわれるほどの超有名曲。熱い恋の歌詞がついています。



そして次のジャコ・ド・バンドリンの「ヴィブラサォ」を聞くとやっぱりこれはポルトガルのファドの要素が濃いわ~と感じます。


なぜそれほどにまでポルトガルの要素が強いのかと言えば。
元々お役人レベルではポルトガルからたくさんの要員が移住していましたが、そこに拍車をかけたのは18世紀のブラジル・ゴールドラッシュ✨
ブラジル国内でも北から南へと移動がありましたがポルトガル本国からもかなりの人が移住しております。

「ブラジルの爆弾娘」の異名を持つカルメン・ミランダもポルトガル生まれの移民。ブラジルで頭角を現すと上手くアメリカへ進出し有名になりました。


かつて帽子屋さんで働いていたという彼女はセンス光るお帽子がトレードマーク。曲はやっぱり『ティコ・ティコ』で。
映画『コパカバーナ』(1947)より。



さ~てこれでいかがでしょう?
戦前までのブラジルボッサの流れをご紹介してみました。

長い記事にお付き合いありがとうございましたん。
だけどまだまだ続く・・・予定。


あはん


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