私たちは、『進撃の巨人』のエンドロールに生きている
「この世界は残酷だ」
進撃の巨人では、“誰かの生”が“誰かの死”のもとに成り立っている世界を、こう表現する場面がある。
かなりのめり込んでアニメを観ていた自分も、このセリフをどこか他人事のように眺めていたように思う。
それが、一気に現実味を持って、自分のなかに入り込んできたのが、『進撃の巨人』完結編 THE LAST ATTACKのエンドロールだった。
私たちは、エンドロールに生きている
本編では、これから何千年、何万年と続いていくであろう人類の未来を思い、自由と平和を信じて心臓を捧げてきた者たちの物語が描かれてきた。
そして、エンドロールが描くのは、物語のその先である。
彼らが命と平和を託した世界。
しかし、そんな夢描いた未来で、圧倒的な脅威であった巨人が消え去っても、いくら文明が発達しても、戦争は続いている。
エレンたちのあの丘の木のことなんて誰も相手にしない。
ミカサが守り続けたエレンの墓標は、ただの石ころと化し、そこに平気で銃弾が飛んでくる。
救われたはずの世界が、救われたはずの者たちの手によって再び壊れていく━━。
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もちろん、巨人が存在する世界はフィクションだ。
けれど、あれを“人類史の惨劇的な寓話”として捉えるなら、私たちは今、まさに彼らの託した未来を生きている。
エンドロールは、鏡のように、今を生きる私たちに問いかける。
「歴史はなぜ繰り返されてしまうのか?」
「なぜ世界から争いはなくならないのか?」
巨人がいなくなっても、世界は残酷だ
時代が変わっても、課題の根本は変わらない。
そして、人間は過去の惨劇を簡単に無碍にできてしまう。
託された未来を生きる人たちが、計り知れない苦しみを味わったエレンたちの存在を思い出すことすらないのだとしたら。
私はそこに、強い恐怖を覚える。
巨人がいた世界は残酷だった。
しかし、その残酷な歴史から何も学ばず、過去を平気で無碍にしてしまう世界もまた、残酷である。
ドイツ哲学者・ヘーゲルの言葉が頭をよぎる。
「人類と政府は、歴史から何も学ばなかったし、そこから導かれる原則に従って行動したこともなかった」
つまり、「人間は歴史から何も学ばないということが、歴史からは学べる」らしい。
『進撃の巨人』は、改めてそれを突きつけている。
理解することをあきらめない
では、なぜ歴史は繰り返されてしまうのか。
普遍的な課題の根本はどこにあるのか。
それは、「“悪の凡庸さ”に気づけないまま、思考すること、理解すること、そして対話することをあきらめてしまう人間の在り方」にあると私は考える。
ここでいう“悪の凡庸さ”とは、ハンナ・アーレントが指摘したように、「悪は悪人によって生み出されるものではなく、ごく普通の人間が思考を停止することで、無自覚に加担してしまうものだ」という概念である。
だからこそ、作中の調査兵団団長に求められる資質は、“理解することをあきらめない姿勢”にあるのだと思う。
考えることをやめないように、
理解することをあきらめないように、
まずは、このエンドロールが描く“問い”を文字に残しておきたいと思った。
