「豆を煮る」という美学
私の人生のルールのひとつに、「豆を煮る」というものがある。
とくにレッドキドニーとひよこ豆は、乾燥を買ってきて煮ることにしている。
その理由をひとことで言えば「美味しいから」だけれど、ほかに言うのならば、これはある種の美学でもある。
「豆を煮る所作が好き」
そういう動機にも、うごかされている。
お正月に黒豆を煮る習慣が、私の上の世代まではあるように思う。
あれは、やりはじめたら鍋に付ききりでいないといけない、たいへんな作業だ。
「見る鍋は煮えぬ」と言うのに、何時間も見ている。
(豆が水面から出て皺になるのを防ぐためだけど、見る鍋が煮えないのは真実だといつも思っている)
そうして手間と長い時間をかけた結果の、ふっくらつやつやの美しさ。
食べる前に伝わる美味しさ、嬉しさ。
あれは間違いなく、美学の賜物だと思う。
誰にもこんな経験があるとは思わないので書いておくと、皺だらけのなあなあ手作り黒豆を前にすると、ヒトは感情が無になる。
ちょっとヒト科ぐるみで大げさに言ったけれど、少なくとも私はそうなる。
見た目と味の相関関係の話ではなく、なあなあで作るくらいなら買うほうがいい。
あれは、姿勢であり精神の問題なのだ。
それが美学ってことだと、私は思っている。
おなじ昭和でも、ファミコン以降の私の世代は "ニュー昭和" とでも言いたくなるような、どこか変わり目の雰囲気があるように思う。
とても個人的な見解だけれど、私のまわりに黒豆を煮る同年代が存在しないのは事実だ。
私がレッドキドニーやひよこ豆を煮るのは、チリビーンズやひよこ豆の炒め物なんかを美味しく食べたいという食いしんぼうな欲求によるものだ。
それでも、ひと晩かけて水で戻した乾燥豆をいざ火に掛けるとき、そこには自然と "黒豆の美学" が舞い降りてくる。
台所に立つ、割烹着やエプロンを着た大人の背中。
その影を、目の前の鍋の煮えるのと重ねて見ていると、ただ豆を煮るというこの行為がとくべつなことのように感じられる。
どこからか、古ぼけた匂いのする感慨が、湿度をともなってやってくる。
昭和の、私より上の世代のキッチンの匂い。
木のまな板、出刃包丁、花の模様のホーローの鍋、幼い私と家族の残像。
それはありありと湯気のなかに重なって、私自身もまたいつのまにか、あのときの母や祖母の影に重なってしまっている。
作るものがチリビーンズだとしても、"黒豆の美学" の良いエッセンスは受け継がれて、私の料理に注がれているように思う。
それは願いでもあり、そういうつながりを継承と呼べるのなら、たしかにそこには味として証されたものがある。
つまり、私の作るチリビーンズは、とても美味しい。
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