痕跡を探す気持ち
メッセージを送ったのに、既読にならない。
それだけで、思考が止まってしまうことがある。
届いていないのか。
届いているけど、見ていないのか。
見たけれど、あえて既読をつけていないのか。
そもそも、何も考えていないのか――
そんな風に、想像だけが膨らんでいく。
スマートフォンと共に暮らすようになって、
「誰かに無視されているかもしれない」という感情が、ずいぶん明確になった。
既読、未読、通知のオン/オフ。
目に見える痕跡がある分、目に見えない感情のほうが不確かになる。
でもこの気持ちは、本当に現代だけのものなのだろうか。
たとえば、ずいぶん前に送った手紙の返事が、何週間経っても届かないとき。
たとえば、駅で何十分も待っても、相手が現れないとき。
たとえば、家に電話をかけても、誰も出ない日が何日も続くとき。
相手のことを思いながら、どこかに漂っている“何か”を探してしまう。
玄関の靴、ポストの封筒、ちいさな紙片、机の上に置かれたままのマグカップ。
そういうものに、気配のようなものを感じてしまう。
そこに“まだつながっている”という証を探してしまう。
きっと昔の人も、「返事がこない」という不在に、沈黙の重さを感じていたはずだ。
だからこそ、人は「痕跡」を大事にしてきたのだと思う。
残された文字や、足音や、紙ににじんだインクの跡。
そういったものに、想像の余地を残していた。
既読にならない、というこの感情も、
本質的には「何も返ってこない静けさ」と向き合っているだけなのかもしれない。
そして、人は昔からずっと、
この“静けさ”に耐えきれなくて、物語を書きはじめたのかもしれない。
