アン、今日もフラれたな🍙第1話 堺の夜明けと赤いバンダナの相棒
あらすじ
どもども、柴犬アンやで。
『アン、今日もフラれたな🍙』は、ブラック企業から逃げた風太郎と、赤いバンダナの柴犬アンが、ボロ自転車で日本を巡る令和の人情ロードドラマやねん。
毎話、ご当地おにぎり、単発仕事、訳ありマドンナ、そして必ず失恋。せやけど、去った町には小さな灯りが残る。
食、旅、地方、疲れた大人の心に効く。テレビ東京さんの深夜にぴったりやと思うなぁ。
夜のオフィスは、海の底みたいに息苦しかった。
エアコンは動いているのに、空気はぬるい。
机の上には、営業資料が山になっていた。
赤いペンで直された見積書。
飲み残しの缶コーヒー。
開いたままのノートパソコン。
画面の右下では、時計が23時48分を示している。
大和風太郎は、椅子に浅く座ったまま、数字の並んだ表を見ていた。
目の奥が熱い。
でも、眠いのとは少し違った。
頭の中で、上司の声がまだ鳴っていた。
「この数字で帰るつもりか」
「やる気あるんか」
「お前の代わりなんか、いくらでもおるぞ」
風太郎のスマホが震えた。
ブブッ。
画面を見る。
上司からだった。
明日の朝までに修正版送れ。
その下にも、通知が並んでいる。
顧客からの催促。
社内チャット。
未読のメール。
どれも、風太郎の体を少しずつ削る音に聞こえた。
「はいはい。風太郎くんは便利な犬ちゃいますよ」
小さく言ってみた。
誰も笑わなかった。
オフィスには、もう数人しか残っていない。
みんな目を合わせない。
キーボードの音だけが、カタカタ、カタカタと続いている。
風太郎は立ち上がった。
足元が少しふらついた。
トイレへ行く。
蛍光灯が白すぎた。
鏡の中の自分は、34歳には見えなかった。
もっと古い。
もっと乾いている。
ネクタイはゆるみ、髪はぺたんとして、目の下には黒い線ができていた。
「まだいける。大丈夫や」
口に出した。
その言葉を、風太郎は何度も使ってきた。
大丈夫です。
できます。
間に合わせます。
すみません。
もう一度やります。
その言葉だけで、ここまで来た。
でも、鏡の中の男は、もううなずかなかった。
胃の奥がぎゅっと縮んだ。
床が斜めになった気がした。
「え」
次の瞬間、風太郎はトイレの冷たい床に倒れていた。
目を覚ましたとき、頬にタイルの冷たさがあった。
どれくらい時間がたったのかわからなかった。
スマホが床で光っている。

風太郎は手を伸ばした。
通知が27件。
心配の言葉は、1つもなかった。
修正まだ?
先方待ってます。
起きてますか。
既読つけてください。
明日の朝イチで出せますよね。
風太郎は、床に寝たまま笑った。
笑ったというより、のどの奥から変な空気が出た。
「もう無理や」
その声は、トイレの壁に当たって、すぐ消えた。
数日後。
風太郎は会社の受付に、社員証と会社のスマホを置いた。
手が震えていた。
上司は眉をひそめた。
「今辞めるとか、社会人としてどうなんや」
風太郎は頭を下げた。
言い返す言葉は、いくらでもあった。
でも、どれも口から出なかった。
ただ、手の震えが止まらなかった。
「すみません」
その言葉だけが出た。
会社のビルを出ると、朝の光がまぶしかった。
通勤の人たちが駅へ流れていく。
革靴の音。
スーツのにおい。
コンビニのコーヒーの湯気。
風太郎は、その流れの横に立っていた。
自分だけが、道路の端に置き忘れられた空き缶みたいだった。
逃げた。
その言葉が、胸に残った。
逃げたんや、わしは。
でも、あのままいたら、ほんまに壊れていた。
そう思っても、胸の中に小さな石みたいなものが残った。
堺の商店街は、朝の準備を始めていた。
シャッターがガラガラと上がる。
魚屋の前には、氷の入った箱が並び始める。
刃物屋の店先では、年配の店主が包丁を布で拭いていた。
鉄の匂い。
雨上がりの路地の匂い。
パン屋から出てくる甘い匂い。
風太郎は、目的もなく歩いていた。
スーツではなく、古いデニムシャツを着ている。
リュックには、着替えと、退職の書類と、使い道のない名刺入れが入っていた。
その名刺入れが、やけに重かった。
商店街の端に、小さな自転車屋があった。
看板には、かすれた字で「源サイクル」と書かれている。
店の前には、子ども用の自転車、ママチャリ、古いロードバイクが並んでいた。
その奥に、変な自転車があった。
泥よけは傷だらけ。
荷台は大きい。
ハンドルには古いライト。
フレームは少し錆びている。
でも、どこか頼もしかった。
「それ、見る目あるやん」
店の奥から声がした。
白髪まじりの年配の男が、油のついた手を布で拭きながら出てきた。
源さんだった。
「売り物ですか」
風太郎が聞くと、源さんは鼻で笑った。
「処分するつもりやった。旅用に組んだけど、前の持ち主が腰いわしてな。ずっと奥で寝とった」
「旅用」
その言葉だけが、風太郎の耳に残った。
源さんは風太郎の顔をじっと見た。
「兄ちゃん、仕事辞めた顔してんな」
「なんでわかるんですか」
「自転車と人間は、だいたいタイヤ見たらわかる。あんた、空気抜けとる」
「人間に空気圧あります?」
「ある。だいぶ低い」
風太郎は苦笑いした。
源さんは古い旅用自転車のサドルを叩いた。
「乗ってみるか」
「いや、買うお金が」
「試し乗りはタダや。人生もたまには試し乗りしたらええ」
風太郎は自転車にまたがった。

ペダルを踏む。
ぎこちない。
でも、少し進んだ。
風が顔に当たった。
ほんの数メートルなのに、胸の奥に残っていた石が、少しだけ動いた気がした。
源さんが言った。
「兄ちゃん、逃げるんやったら、ちゃんと遠くまで逃げなあかん。中途半端に逃げたら、追いかけてくるで」
風太郎は止まった。
「追いかけてくるって、会社がですか」
「ちゃう。自分を責める声や」
源さんは、店の奥から古い犬用キャリーを出してきた。
「これもつけたろか。昔、犬連れて旅した客が置いてったんや」
「犬、いませんけど」
「今はな」
そのとき、商店街の裏から、小さな声が聞こえた。
クウ。
犬の声だった。
雨上がりの路地には、まだ水たまりが残っていた。
風太郎は声の方へ歩いた。
空き箱の横に、赤柴が座っていた。
赤いバンダナを巻いている。
濡れた毛は少しだけふくらみ、丸い目が風太郎を見上げていた。
黒い鼻の先に、水滴がついていた。
「おい。どないしたんや」
赤柴は逃げなかった。
首を少しだけかしげた。
近くの八百屋のおばちゃんが、店先から顔を出した。
「ああ、その子な。昨日からおるねん。たぶん近くの一時預かりさんとこから逃げたんやと思う。電話したけど、今日は迎えが夕方になるらしいわ」
「ほな、それまで」
「誰か見といてくれたら助かるんやけどなあ」
おばちゃんの目が、風太郎と源さんの方を行ったり来たりした。
源さんが言った。
「兄ちゃん、今は犬おらん言うたな」
風太郎は赤柴を見た。
赤柴は風太郎を見た。
「お前も居場所探してるんか。ほな、似たもん同士やな」
赤柴は、口を開いた。
「似たもん同士にすな。アンの方が毛並みは整ってる」
風太郎は固まった。
源さんも固まった。
八百屋のおばちゃんは、白菜を持ったまま目を丸くした。

「犬が」
風太郎が言うと、赤柴は鼻を鳴らした。
「犬や。見たらわかるやろ」
「しゃべった」
「そっちもしゃべってるやん。お互いさまや」
源さんは、しばらく黙ってから言った。
「まあ、堺はいろいろある町や。しゃべる犬くらいおってもええやろ」
おばちゃんもうなずいた。
「せやな。アンちゃん、昨日も魚屋のおっちゃんに説教してたしな」
風太郎はアンを見た。
「昨日からしゃべってたんか」
アンは前足で耳の後ろをかいた。
「必要な時だけな。人間は、黙ってると勝手にかわいいだけの存在にするから困る」
「なるほど。口の立つ犬やな」
「口だけやなくて、鼻も立つで」
風太郎は笑ってしまった。
何日ぶりか、自分でもわからないくらい自然に笑った。
その腹が、グウと鳴った。
アンがすぐに言った。
「風太郎、かっこつける前に腹鳴らすな」
「まだ名乗ってないやろ」
「おばちゃんがさっき言うてた」
八百屋のおばちゃんが笑った。
「風太郎くん、ちょうどええわ。子ども食堂に野菜持って行く人、足らんねん。アンちゃん連れて手伝ってくれへん?」
「え、今からですか」
「今からや。犬もしゃべるし、あんたも暇そうやし」
「暇そうって」
アンが立ち上がった。
「行くで。腹減ってるんやろ」
「犬に仕事を決められた」
「人間より判断早いやろ」
子ども食堂は、商店街の奥にある元文具店を使っていた。
入口には手書きの紙が貼ってある。
今日のごはん
野菜たっぷりカレー
おかわりできます
中へ入ると、だしとカレー粉のにおいが混ざっていた。
大きな鍋から湯気が立つ。
古いテーブルが4つ。
そろいではない椅子。
壁には、子どもが描いた絵。
寄付の箱。
その横に、米びつが置かれている。
米びつの中身は、半分より少なかった。
子どもたちがアンを見つけて集まってきた。
「犬や!」
「バンダナしてる!」
「かわいい!」
アンは胸を張った。
「かわいいだけやないで。礼儀も見てるで」
子どもたちは一瞬だけ固まり、それから大笑いした。
「しゃべった!」
「大阪の犬や!」
「アンちゃん、好きな食べ物なに?」
「塩なしの白ごはん。あと、風太郎の反省」
「反省って食べられるん?」
「風太郎は毎日出してるけど、味は薄い」
風太郎は野菜の箱を抱えたまま言った。
「おい、初日から営業妨害やめろ」
その声に、台所の奥から女性が顔を出した。
「すみません、そこに置いてもらえますか」
石原ミナミだった。
32歳。
髪を後ろで結び、エプロンをしている。
声は明るい。
動きも早い。
けれど、手は赤く荒れていた。
爪の横に小さな傷がある。
目の下には、薄い影があった。
「助かります。今日は人が足りなくて」
「人が足りないのは、どこも一緒ですね」
風太郎が箱を置くと、ミナミは笑った。
「でも大丈夫です。なんとかします」
アンの耳が動いた。
「その言い方する人、だいたい大丈夫ちゃう」

ミナミの手が止まった。
「犬がしゃべった」
風太郎は申し訳なさそうに言った。
「すんません。仕様です」
アンがミナミを見上げた。
「手、荒れてる。寝てへん顔してる。大丈夫の顔ちゃう」
ミナミは笑おうとした。
「大丈夫ですよ。本当に」
アンはすました顔で言った。
「2回言う人は、さらに怪しい」
子どもたちが笑う。
ミナミも少しだけ笑った。
でも、その笑い方は、薄い紙みたいだった。
風太郎は、台所で野菜を洗った。
じゃがいもの土を落とす。
にんじんを運ぶ。
玉ねぎの皮をむく。
目にしみた。
「玉ねぎで泣いてるんです」
ミナミが言った。
「いや、これは過去の営業成績を思い出して」
「どっちもつらそうですね」
「玉ねぎの方が優しいです。切ったら理由がありますから」
ミナミは少し笑った。
風太郎は、その笑顔を見て、胸の奥が小さく鳴るのを感じた。
恋と呼ぶには早すぎる。
でも、風太郎は恋に弱い男だった。
鍋のカレーができあがるころ、子どもたちがテーブルについた。
小学2年くらいの男の子が、ごはんを見て言った。
「今日、おかわりある?」
ミナミはすぐに笑顔になった。
「あるよ。ちゃんと食べてね」
別の子が小さな声で言った。
「お母さん、今日も遅いねん」
ミナミはしゃがんだ。
「そっか。ここで食べて、少し待ってよか」
その声はやさしかった。
でも、立ち上がるとき、ミナミの体が少しよろけた。
風太郎は手を伸ばしかけた。
ミナミはすぐに体勢を戻した。
「大丈夫です」
アンが風太郎の足を前足で踏んだ。
「今の聞いたか」
風太郎は小さくうなずいた。

食堂が終わるころには、外は暗くなっていた。
子どもたちが帰り、テーブルの上には米粒とカレーのにおいが残っていた。
風太郎は皿を洗った。
ミナミは寄付の箱を開けて、中の小銭を数えていた。
その指先が、少し震えている。
「足りますか」
風太郎が聞くと、ミナミは顔を上げた。
「なんとかします」
またその言葉だった。
風太郎の胸の奥で、会社のトイレの冷たい床がよみがえった。
大丈夫です。
できます。
間に合わせます。
なんとかします。
その言葉で、自分は倒れた。
風太郎は、つい言ってしまった。
「善意で回ってる場所ほど、善意の人から先に倒れるんちゃいますか」
ミナミの顔から笑いが消えた。
「何も知らない人が、簡単に言わないで」
台所がしんとした。
水道の水だけが、細く流れている。
風太郎は口を開きかけた。
言い訳が出そうになった。
自分も倒れたんです。
だからわかるんです。
そう言いたかった。
でも、言ったところで、ミナミのしんどさが軽くなるわけではない。
アンが風太郎を見上げた。
「ええこと言うた顔すな。自分も会社で倒れるまで黙ってたくせに」
風太郎は何も言えなかった。
アンは続けた。
「人に言う言葉は、まず自分の傷に塗ってから出せ」
ミナミは、驚いたようにアンを見た。
風太郎は頭を下げた。
「すみません。言い方、間違えました」
ミナミはしばらく黙っていた。
それから、小さく息を吐いた。
「私も、言いすぎました」
夜の商店街は、昼とは別の顔をしていた。
シャッターの下りた店が並び、古い看板がオレンジ色の街灯に照らされている。
子ども食堂の片付けが終わったあと、ミナミは店の前の丸椅子に座った。
アンはその足元に座る。
風太郎は、少し離れて立っていた。
ミナミが言った。
「私、前は看護師だったんです」
風太郎は黙って聞いた。
「人のためになる仕事だと思ってました。でも、夜勤が続いて、休みの日にも電話が来て、ある日、病院の廊下で倒れました」
風太郎の胸が痛んだ。
「辞めたあと、ここを手伝い始めたんです。子どもたちがごはん食べてる顔を見ると、よかったって思うんです。でも」
ミナミは手を見た。
洗剤で荒れた手。
野菜を切った小さな傷。
「人が足りない。お米も足りない。利用する家庭のことを悪く言う人もいます。無料でごはんもらえてええなって。違うのに。みんな、いろいろ抱えてるのに」
風太郎は、口を挟まなかった。
風が商店街を抜けた。
紙の貼り紙がカサリと鳴った。
ミナミは続けた。
「助けてほしいって言うと、甘えてるみたいで。私がちゃんとしなきゃって思ってしまって」
風太郎は、ようやく言った。
「助けてって言える場所を作る人が、助けてって言えへんのは、しんどすぎますわ」
アンがミナミを見上げた。
「ごはん出す場所に、助けてって言えへん大人がおったらあかん。子どもは、それ見て我慢を覚えてまう」
ミナミの目に、涙がたまった。
でも、こぼさなかった。
「犬に泣かされるとは思わなかった」
アンは言った。
「アンは小さく刺すの得意や」
「小さくないです」

風太郎が言うと、アンは風太郎を見た。
「風太郎は大きく外すの得意や」
「そこは言わんでええ」
ミナミが笑った。
今度の笑い方は、少しだけ本物に見えた。
翌朝。
風太郎は、商店街を走り回った。
まず魚屋へ行った。
「月1回だけでええんです。だし用のあら、子ども食堂に分けてもらえませんか」
魚屋のおっちゃんは腕を組んだ。
「なんでわしが」
アンが店先で座った。
「昨日、売れ残り捨てる時、もったいない顔してたやん」
おっちゃんは目を丸くした。
「犬に見られてたんか」
「犬は見てるで。人間が思ってるより、だいぶ見てる」
おっちゃんは頭をかいた。
「月1回やぞ」
「ありがとうございます!」
次は八百屋。
傷ものの野菜を少し分けてもらえることになった。
米屋では、古米を安く出してもらえることになった。
源サイクルでは、源さんが配達用の古いカゴを自転車に取りつけてくれた。
「兄ちゃん、旅用の自転車やのに、いきなり町内配達か」
「旅の前に町内一周です」
「ええ練習や」
源さんは犬用キャリーも取りつけた。
アンはキャリーに乗って、満足そうに前足をそろえた。
「悪くない」
「女王みたいやな」
「風太郎より格上やからな」
昼すぎ、近所のおばちゃんたちが子ども食堂に集まった。
「月1回なら皿洗い行けるわ」
「うちは漬物ちょっと出せる」
「うちの孫も来てええん?」
ミナミは驚いていた。
「みなさん、無理しなくて大丈夫です」
アンが言った。
「また大丈夫言うてる」
おばちゃんたちが笑った。
八百屋のおばちゃんがミナミの肩を軽く叩いた。
「無理は分けたらええねん。1人で持つから重いんや」
その日の子ども食堂は、いつもよりにぎやかだった。
魚のあらで取っただしの味噌汁。
傷もの野菜の炒めもの。
大鍋のごはん。
子どもたちはアンのまわりに集まり、アンは礼儀にうるさい先生みたいに座っていた。
「いただきます言うてから食べるんやで」
「アンちゃんも食べる?」
「アンは塩分に厳しい犬や。気持ちだけもらう」
風太郎は、米袋を運びながらミナミを見た。
ミナミは笑っていた。
疲れが消えたわけではない。
問題が全部なくなったわけでもない。
でも、台所に立つ背中が、昨日より少し軽く見えた。
その背中に、風太郎は恋をした。

子どもにごはんをよそう手。
「熱いから気をつけて」と声をかける口元。
誰かの居場所を守ろうとしている横顔。
風太郎の胸がまた鳴った。
今度は腹ではなかった。
アンがすぐ気づいた。
「風太郎、また変な顔してる」
「してへん」
「恋の顔や。わかりやすい。スーパーの半額シールくらい目立つ」
「やめろ。ミナミさんに聞こえる」
ミナミが振り返った。
「何か言いました?」
風太郎は米袋を抱えたまま固まった。
「いえ。米の重みについて考えてました」
アンが言った。
「恋の重みやろ」
「アン」
夕方、子どもたちが帰ったあと、ミナミが風太郎にお茶を出した。
「本当にありがとうございました」
「いや、わしは走り回っただけです」
「それが助かるんです」
ミナミは、少し迷ってから言った。
「実は、今度、恋人が堺に戻ってくるんです」
風太郎の中で、何かがコロンと落ちた。
「恋人」
「遠距離だったんです。福祉関係の仕事をしていて。私がここで無理してるって知って、近くで一緒に考えたいって」
風太郎は笑った。
笑うしかなかった。
「そら勝てませんわ。わし、まだ住所もない男ですし」

アンが横から言った。
「住所だけの問題やと思ってる時点で負けてる」
「刺すなあ」
「失恋はええ。相手の幸せにケチつけたら、ただの負け犬やで。犬はアンだけで足りてる」
ミナミは口元を押さえて笑った。
風太郎も笑った。
胸は少し痛い。
でも、不思議と嫌な痛みではなかった。
ミナミが前を向けるなら、それでええ。
そう思えた自分に、風太郎は少し驚いた。
出発の朝。
商店街は、まだ半分眠っていた。
シャッターが1枚、また1枚と上がる。
刃物屋の店先から、鉄を拭く音がする。
パン屋から甘い匂いが流れる。
魚屋では氷の音がした。
源サイクルの前には、旅用自転車が置かれていた。
荷台には寝袋。
小さな鍋。
釣り竿。
着替えの入った袋。
そして、犬用キャリー。
アンは赤いバンダナを巻き直してもらい、キャリーの中で座っていた。
「似合うか」
「はいはい。世界一似合ってます」
「心がこもってへん」
「犬に身だしなみチェックされる朝、人生で初めてや」
ミナミがやって来た。
手には、竹皮で包んだおにぎりがあった。
「これ、道中で食べてください」
風太郎は受け取った。
あたたかかった。
「中身は、泉州水なすの浅漬けと塩昆布です。水なすは細かく刻んで、水気をしぼってあります」
「うわ」
風太郎は、包みを両手で持ったまま固まった。
「なんですか」
「おにぎりって、なんでこんなに人を弱くするんやろな」
アンにも、小さな包みが差し出された。
「アンちゃんには、塩なしの白ごはんです」
アンは鼻を近づけた。
「わかってる人や」
ミナミは笑った。
風太郎の目の奥が熱くなった。
会社のトイレの冷たい床とは、まったく違う熱だった。
アンが言った。
「おにぎりはな、米やない。誰かの手のぬくもりや」
風太郎はうなずいた。
「ほんまやな」
ミナミは、子ども食堂の入口へ案内した。
「昨日の色紙、ここに貼っていいですか」
風太郎は照れた。
「字、下手ですよ」
「読めればいいです」
風太郎は筆ペンを持った。
手は少し震えた。
でも、会社を辞めた日の震えとは違った。
色紙に、ゆっくり書いた。
堺の朝は
鉄の匂いと
水なすの音がする
泣きたい子には
あったかい飯を
アンが色紙をじっと見た。
「字は下手やけど、心は読める」
「褒めてるんか、それ」
「7割褒めてる」
「残り3割は」
「字や」
源さんが笑った。

八百屋のおばちゃんも、魚屋のおっちゃんも、米屋のおばさんも、店の前に出てきていた。
子どもたちも何人か来ていた。
「アンちゃん、また来てな」
「風太郎さんも」
「ついでみたいに言われた」
アンが胸を張った。
「人気の差や。受け入れろ」
風太郎は自転車にまたがった。
ペダルに足を乗せる。
心臓が少し速く鳴っている。
怖くないわけではない。
この先、どうやって生きるのかもわからない。
金もない。
泊まる場所もない。
でも、自転車には荷物がある。
キャリーにはアンがいる。
手元には、おにぎりがある。
子ども食堂の壁には、下手な色紙が残った。
それだけで、昨日より少しだけ前へ進める気がした。

風太郎は自転車のベルを鳴らした。
チリン。
朝の商店街に、小さな音が広がった。
風太郎は『大阪で生まれた女』を鼻歌で口ずさんだ。
大阪で生まれた 女やさかい〜♫
大阪の街 よう捨てん〜♬
大阪で生まれた 女やさかい〜♪
東京へは ようついていかん〜♩
少し外れたメロディだけが、朝の空気にまざる。
アンはキャリーの中で耳をぴくりと動かした。
「風太郎、音程が迷子や」
「旅人らしいやろ」
「迷子と旅人は違う」
風太郎は笑った。
「アン、行こか。逃げた先にも、道はあるみたいや」
アンは前を向いた。
「せやな。せやけど、まずは昼飯の道を探せ。感動だけでは腹ふくれへん」
商店街の出口に、朝の光が差していた。
雨上がりの道が、うっすら光っている。
赤いバンダナが、風でふくらんだ。
風太郎はペダルを踏む。
1回。
もう1回。
自転車は、堺の町を抜けていく。
背中には、子どもたちの声。
荷台には、寝袋と小さな鍋。
キャリーには、よくしゃべる柴犬。
胸には、少しの失恋。
手元には、泉州水なすと塩昆布のおにぎり。
逃げた男は、まだ立派な旅人ではなかった。
でも、道は前に続いていた。
アンが言った。
「風太郎」
「なんや」
「次の町でも、泣きたいのに笑ってる人がおるかもしれんで」
風太郎は、少しだけ黙った。
それから、笑った。
「ほな、寄ってこか」
自転車のベルが、もう一度鳴った。
チリン。
堺の朝が、後ろへ流れていった。
そして、風太郎とアンの旅が始まった。
つづく
設定資料




