オーシャンドッグス5🧜♀️ 第4話 こちら遠い島の赤柴管制官アンやで
シバ・ワンの機内には、まだ夜明けの冷たさが残っていた。
外は、日本の空だった。
けれど、窓の向こうの海は、もう北太平洋へつながっている。
シバ・ワンは、神戸港沖の臨時発進水域へ出ていた。
格納庫の中で眠っていた大きな救難飛行艇は、整備員たちに送り出され、今は海の上で朝を待っていた。
海面は、ただ光っているだけではなかった。
夜明けの細い光を受けて、波の先が鋭くちらついている。
まるで、研がれた小さな刃がいくつも浮いているようだった。
その刃の上を、これからシバ・ワンは走る。
あんこは、窓から海を見た。
きれいだとは思わなかった。
広いとも、まだ思わなかった。
ただ、冷たいと思った。

海は、何でも飲みこむ。
声も。
名前も。
ログも。
一度沈んだものは、簡単には戻ってこない。
あんこは、端末を抱え直した。
シバ・ワン。
US-2救難飛行艇をもとにした、オーシャンドッグス仕様機。
救難飛行艇とは、海の上に降りて、助けを待つ人や命を救うための大きな飛行機だ。
海に降りられる。
海から飛び立てる。
空を飛ぶだけではなく、海そのものを道にできる。
翼は広く、胴体はどっしりしている。
白い機体には、深い海から氷を切り出したような青い線が走っていた。
機体の横には、丸い柴犬マーク。
その下に、SHIBA-ONEの文字。
あんこは、その文字をじっと見た。
「シバ・ワン。機体名、確認」

ルナは医療バッグを背負い直した。
「名前を呼ぶところから始めるんだね」
あんこは、ほんの少しだけうなずいた。
「うん。機体も、名前で呼ぶ。大事な相棒だから」
ルナは、シバ・ワンの壁にそっと前足を当てた。
「よろしくね。シバ・ワン」
機内灯が、ふっと少しだけ明るくなった。
ただの電気の変化かもしれない。
けれど、あんこは一瞬だけ、その光を見た。
「機体に返事はないよ」
ルナが言った。
「あるかも」
「ないと思う」
「でも、名前があるから」
あんこは、少しだけ口元をゆるめた。
「その理屈、ルナらしいね」
機内には、ぎっしりと荷物が積まれていた。
医療バッグ。
通信機材。
救助カプセル。
毛布。
補給食。
水。
予備バッテリー。
小さな海鳥を包むための保護布。
冷えた体を温めるための保温シート。
子ども用の薬。
そして、あんこの解析端末。
どれも軽くはない。
でも、どれか1つ欠けても、海の上では命取りになる。
毛布は、寒さで震える子のためにある。
水は、長く海に流された子のためにある。
小さな酸素マスクは、息が浅くなった子のためにある。
海鳥用の保護布は、羽を傷つけた海の命を包むためにある。
補給食は、空腹を我慢していた子に、少しずつ力を戻すためにある。
荷物ではなかった。
どれも、まだ見ぬ誰かへ渡すための手だった。
ルナは救急セットを開いた。

包帯を指先で押さえる。
消毒液のふたを確かめる。
体温計を取り出して、すぐ使える向きに直す。
小さな酸素マスクを、子どもの顔に当てる時の角度で置く。
濡れた体を包む毛布を、いちばん上へ移す。
「包帯」
「酸素」
「保温パック」
「海鳥用の布」
「子ども用の薬」
声は小さかった。
点呼というより、祈りに近かった。
あんこは、横目でそれを見ていた。
ルナは、ひとつひとつの道具を、ただ確認しているのではない。
まだ見つかっていない命を、もう迎えるつもりでいる。
あんこは端末に目を戻した。
航路が表示されている。
神戸。
硫黄島方面。
南鳥島。
その先、幻島海域。
中ノ鳥島跡。
青鏡の潮目。
モアナ・アトラ反応、推定。
正確な門座標、不明。
あんこの前足が、画面の燃料計算の上で止まった。
「神戸から幻島海域へ、まっすぐ行くだけなら届く」
ルナが顔を上げた。
「じゃあ、まっすぐ行けるの?」
あんこは首を振った。
「行くだけなら、ね。でも今回は違う」

あんこの画面に、次々と文字が出た。
捜索。
着水。
救助。
待機。
悪天候。
帰還。
あんこは、ひとつずつ読み上げた。
「捜索する。海に降りる。助ける。待つ。天気が悪くなるかもしれない。帰らないといけない」
ルナは、画面を見つめた。
「行くだけじゃ、救助じゃないんだね」
「うん」
あんこは静かに続けた。
「そこまで入れたら、足りないよ」
ルナは、医療バッグのふたを閉じた。
「だから南鳥島で補給するんだね」
補給。
それは、途中で燃料や水や必要なものを足すことだ。
海の上では、根性だけでは進めない。
勇気だけでは機体は飛ばない。
どれだけ強い気持ちがあっても、燃料がなければ帰れない。
どれだけ助けたいと思っても、水や毛布がなければ、助けたあとの命を守れない。
あんこはうなずいた。
「うん。片道の計算なんて、してないよ」
その言葉は、ルナに向けたものでもあった。
けれど、半分は自分に向けたものだった。
あんこは以前、研究船の壊れたデータの中で、1つだけ妙なログを見つけたことがあった。
たった1行。
名前のようで、名前ではない文字列。
位置情報のようで、位置情報になりきれなかった数字。
あんこはそれを追った。

でも、途中で途切れた。
復元できなかった。
そのあと、何度探しても、同じログは出てこなかった。
消えたのか。
消されたのか。
もともと助けを待つ声だったのか。
あんこには、今でも分からない。
ログは泣かない。
壊れたデータは、助けてとは言えない。
だから、あんこは見る。
目をそらすと、本当に消えてしまう気がするから。
ルナは、あんこの横に座った。
「戻るまでが救助だもんね」
「うん。助けた命を連れて帰るまで」

その時、通信画面が光った。
トリスタンダクーニャ島近くのシバ・ツゥーからだった。
画面にアンの顔が映る。
赤いバンダナ。
少し眠そうな目。
それでも、声はいつものアンだった。
「こちら、遠い島の赤柴管制官アンやで。白柴あんこ隊員、ルナ隊員、聞こえとるか」
あんこは端末を見ながら返した。
「聞こえてるよ。赤柴管制官って、正式な役職?」
アンは胸を張った。
「いま作った。作った瞬間から伝統や」
ルナが笑った。
「アンらしいね」
「肩書きは早い者勝ちや。犬界のスピード出世、見せたったで」

アンの後ろで、ギブリが顔を出した。
「気をつけてね。北太平洋は広いから」
ドンの低い声が聞こえた。
「ドン、待つ」
モモが続けた。
「モモ、支える。帰ったら」
ハヤテが短く言った。
「ハヤテ、知らせる。風、変なら」
あんこは、少しだけ目を伏せた。
そして、ちゃんと顔を上げた。
「うん。必ず戻る」

アンは画面越しに、あんこをじっと見た。
「無理してかっこつけんでええで。怖い時は怖いでええ。大事なんは、怖くても燃料計算を間違えへんことや」
あんこは、ほんの少し笑った。
「そこは間違えないよ」
「せやろな。白柴SE、そこは信用してる。うちやったらジャーキー残量も燃料に入れてまうからな」
ルナが言った。
「それは危ないね」
「危ない。しかも途中で食べるから、さらに危ない。計算上は満タン、胃袋だけ満タンという悲劇が起きる」
あんこは、画面を見た。
「アン」
「なんや」
「島の子たち、まだ眠ってる?」
アンは少し振り返った。

画面の奥に、トリスタンダクーニャ島の朝の光がうっすら映った。
「眠ってる。ようやく、ちゃんと眠ってる」
あんこは、小さくうなずいた。
「じゃあ、その眠りを守るために行く」
アンの目が、少しだけやわらかくなった。
「行っといで。こっちは、帰る場所を守っとく」
通信が切れる前に、アンは言った。
「シバ・ワン、頼んだで。白柴とルナを、海に落とすんやなくて、海へ連れて行くんや」
シバ・ワンの機内灯が、もう一度ふっと明るくなった。

まるで返事をしたようだった。
アンが目を細めた。
「見たか。シバ・ワン、分かっとる。これはもう賢い飛行艇や。ジャーキーは食べへんけど」
あんこは小さく返した。
「機体は食べないよ」
「分かっとる。そこが惜しい」
通信が切れた。
つづく
