見出し画像

オーシャンドッグス5🧜‍♀️ 第5話 救助任務中の方はこちらでは隊員として扱います

ゴウン。

エンジンが深く鳴った。

機体の中に、低い震えが走る。

床が、かすかに震えた。

その音は、ただの機械音ではなかった。

あんこの腹の奥を、ズシンと叩くような重さがあった。

出発する。

もう、戻れない。

いや、戻るために出発する。

あんこは、端末を固定した。

ルナもシートベルトを締めた。

整備員の声が、通信で入った。

「シバ・ワン、発進準備完了」

外の海面が、朝の光を受けて細かく跳ねている。

シバ・ワンは、水の上を走り出した。

ザザザザザッ。

機体の腹が、波を切る。

白い水しぶきが窓の外を走る。

ゴウン。

ゴウン。

エンジンの音が大きくなる。

シバ・ワンは、海を走る。

海を道にして、風をつかむ。

ルナは窓の外を見た。

「すごい。海から飛ぶんだ」

あんこは画面を見ながら言った。

「救難飛行艇だからね。海に降りて、海から上がる」

「海を滑走路にするんだ」

「うん。今日の私たちには、それが必要」

機体が、ふわりと軽くなった。

水しぶきが下へ遠ざかる。

シバ・ワンは、朝の空へ上がった。

日本の海岸線が、少しずつ小さくなっていく。

港。

道路。

建物。

山。

人の暮らす場所。

全部が、雲の下へ下がっていく。

あんこは、航路を確認した。

「第一航路、安定。燃料、予定値内。通信、良好」

ルナは、医療バッグを膝の上に置いたまま、外を見ていた。

「行っちゃったね」

あんこは画面から目を離さずに言った。

「まだ出発しただけだよ」

「うん。でも、出発したね」

あんこは、少しだけ黙った。

「うん」

その声は、小さかった。

けれど、ちゃんと聞こえた。

しばらくは、陸が見えていた。

島も見えた。

雲の切れ間から、海に浮かぶ緑が見えた。

けれど、時間がたつにつれて、島影は少しずつ消えていった。

窓の外は、空と海だけになった。

上は青。

下も青。

どこまでも青。

けれど同じ青ではなかった。

空の青は、軽い。

海の青は、深い。

その2つの青に挟まれて、シバ・ワンは細い針のように進んでいた。

地図では、細い線でつながっているだけの距離だった。

けれど、実際の海は違った。

地図の1センチは、シバ・ワンの窓から見ると、果てしない時間になる。

画面の上ではすぐ隣に見える場所が、空の中ではなかなか近づかない。

人が住む島は、次第に点になり、やがて記憶の中へ入っていく。

ルナは、窓の外を見たまま言った。

「海って、広いね」

あんこは端末を見ていた。

「うん。広い」

「この広さの中から、名前を探すんだね」

あんこの前足が、ほんの少し止まった。

「うん。だから、見落とせない」

あんこは、画面を見続けた。

燃料。

風向き。

雲の高さ。

気圧。

波の高さ。

南鳥島までの残り距離。

青色ノイズの変化。

消失通信のかけら。

全部を同時に見ている。

ルナは、そんなあんこを横から見ていた。

「あんこ」

「なに?」

「まばたき少ないよ」

あんこは、画面から目を離さなかった。

「見落としたくない」

「分かるよ」

「ノイズが薄くなってる。少しずつ消えてる。私が見てない間に、消えたら困る」

ルナは、医療バッグの上に前足を置いた。

「あんこが倒れたら、もっと困るよ」

あんこの前足が、少し止まった。

ルナは続けた。

「見つける子が倒れたら、見つけられないよ」

あんこは、すぐには返事をしなかった。

端末には、青いノイズが点滅していた。

細い光。

消えそうな光。

あんこには、それがただのデータには見えなかった。

助けてと言えない名前。

声になれない記録。

消されたまま沈んでいく何か。

あんこは、静かに言った。

「消えたログは、泣けない」

ルナは、何も急かさなかった。

あんこは続けた。

「壊されたデータは、助けてって言えない」

ルナは、そっと相づちを打った。

「うん」

「だから、私が気づかないと、本当に消える」

ルナは、少しだけ近づいた。

「あんこ」

「なに?」

「それは、あんこ1人で背負うことじゃないよ」

あんこは画面を見つめたままだった。

ルナは、やさしく言った。

「あんこが見つける。私は、あんこを見てる。役割は違うけど、同じ救助だよ」

あんこは、ようやく画面から目を離した。

「私を見るのも救助?」

「そうだよ。救助する子を守るのも、救助」

ルナは、あんこの前足にそっと自分の前足を近づけた。

触れるか触れないかの距離だった。

「あんこが倒れないようにする。あんこが自分を責めすぎないようにする。あんこが見つけた名前を、ちゃんと帰せるようにする。それも、私の仕事だよ」

あんこは少し考えた。

「その考え方、悪くないね」

ルナが笑った。

「よかった」

「でも、5分だけ」

「なにが?」

「目を休めるのは、5分だけ」

ルナは少しあきれたように笑った。

「じゃあ、5分。ちゃんと休む」

「ちゃんと休む。5分だけ」

「そこ、2回言うくらい大事なんだね」

あんこは端末のアラームを5分に設定した。

ピッ。

あんこは、目を閉じた。

ルナは、その横で静かに外を見た。

あんこは、目を閉じたまま音を聞いた。

風がある。

雲がある。

遠くで波が白く砕ける。

シバ・ワンのエンジン音が、一定のリズムで続いている。

ゴウン。

ゴウン。

ゴウン。

それは、心臓の音に少し似ていた。

ルナが、ぽつりと言った。

「シバ・ワンも、がんばってるね」

あんこは目を閉じたまま答えた。

「機体にがんばるはないよ」

「あるよ。たぶん」

「ないと思う」

「でも、名前があるから」

あんこは、少しだけ口元をゆるめた。

「名前があると、そう見えるのかな」

「うん。シバ・ワンも、私たちを運んでくれてる」

あんこは目を閉じたまま、小さく言った。

「じゃあ、帰ったら点検をちゃんとしないとね」

「それ、あんこらしい」

5分後。

ピピッ。

アラームが鳴った。

あんこはすぐに目を開けた。

「休憩終了」

ルナは少し困った顔で言った。

「きっちりしてるね」

「休むって決めたから、休んだ」

「えらい」

「褒めるところ?」

「かなり褒めるところ」

あんこは、また端末を見た。

画面の数値は安定していた。

しかし、空は少しずつ変わっていた。

雲が厚くなっている。

風向きが、わずかにずれている。

シバ・ワンが、小さく揺れた。

グラッ。

ルナが医療バッグを押さえた。

「揺れたね」

あんこは画面を確認した。

「気流が乱れてる。空気の流れが少し荒れてるってこと。南鳥島周辺、雲が増えてる」

「予定より天気が悪い?」

「少し。まだ危険ではない。でも、燃料消費が予定より増える」

ルナは、窓の外を見た。

雲の間から、海が見えたり隠れたりしている。

あんこは、すぐに南鳥島航空派遣隊へ通信を入れた。

「こちらシバ・ワン。南鳥島航空派遣隊、応答できますか」

少しノイズが入った。

ザザッ。

それから、若い声が聞こえた。

「こちら南鳥島航空派遣隊、通信員の宮里です。シバ・ワン、受信しています」

あんこは画面に顔を近づけた。

「こちら、あんこ。燃料消費が予定より増えてる。南鳥島到着時の補給量を再計算したい」

宮里通信員の声は、少し驚いたようだった。

それでも、返事は早かった。

「了解しました。あんこ隊員、最新の天気のデータを送ります」

あんこが一瞬だけ目を上げた。

「隊員?」

通信の向こうで、少し間があった。

「救助任務中の方は、こちらでは隊員として扱います」

ルナが、にっこりした。

「あんこ、また隊員だって」

あんこは小さく言った。

「責任、増えたね」

ルナが続けた。

「でも?」

あんこは端末を見ながら言った。

「悪くない」

宮里通信員が、通信の向こうで少し笑ったようだった。

「南鳥島でお待ちしています。今日は風が強いです。海ではなく、滑走路に降りてください」

あんこはうなずいた。

「了解。シバ・ワン、南鳥島航空基地へ向かうよ」


つづく