観測記録 #11|呼ばれた場所には“時間”がなかった。—Why The Last Supper Called Me Back
実は、もともと訪れる予定ではなかった場所だった。
2025年6月、イタリア・ミラノ。
目的は、ミラノを今後の拠点のひとつとして感じていて、
その下見を兼ねて現地の周波数を感じること。
友人からのアドバイスもあり、気分としては観光ではなく、
「フィールドワーク」に近かった。
万物には周波数がある。
都市にも、建物にも、土地にもその場にしかないエネルギーや重さがある。
だからこそ私は、ミラノという場所を実際に身体で感じてみたかった。
そして思いがけず、私は再び、
レオナルド・ダ・ヴィンチの《最後の晩餐》の前に立つことになった。
(*この作品は、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の食堂に描かれたもので、公式にも、キリストが「あなたがたのうち一人が私を裏切る」と告げた直後の瞬間を表した作品と説明されている)
10年くらい前に一度訪れた場所。
「もう知っている」という理由で外していた選択だった。
でも、ふと立ち止まる。
“すでに経験した”という理由で、
「今このとき」から始まるまだ見ぬ可能性を閉じてはいないだろうか。
行かない理由は不足ではなく、「もう知っている」という思い込みにある。
私はその選択を変え、周りの勧めもあり、
「今の自分」として、もう一度そこへ向かった。
現地に着いた瞬間、身体が反応した。
強い、というより、深い。
地場からの重さを感じるエネルギー。
全身に走る鳥肌。特に下半身に集中する感覚。
足元から、その場に蓄積された時間の層が立ち上がってくるようだった。
「ここには情報が折り重なっている」と身体が先に受け取った、
そんな感覚だった。
「ここには、何かがある。」
時間は直線ではなく、層として存在する。
そして特定の場所では、その層にアクセスしやすくなると考えられる。
歴史、感情、選択、祈り、裏切り、沈黙。
無数の人間の意識が場の記憶として蓄積された「情報場」。
興味深いのは、隣のサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会に入ると、
その反応がすーっと消えたことだ。これにも驚いた。
同じ場所でも、触れている周波数はまったく異なる。
やがて修道院の食堂に入り、《最後の晩餐》の前に立った。
その瞬間、再び強い反応が下半身に走った。
地場からのエネルギーが足をつたってきたのだ。
「外の地下層と繋がっている。」そう思った。
と、同時に、、ここには『時間がない』。
我々人間は3次元世界に生きている。
その場所にも観光客はいたし、物質としての空間は存在している。
しかし、あの空間で感じたことは、3次元の“今”がないということだった。
ここには、
時空を超えたすべてが同時に存在するパラレルワールドの世界があると。
意識のレイヤーでは、過去も未来も同時に存在しているような感覚だった。
帰国までに、3度の鼻血が出た。
下半身だけ起こる鳥肌、理由のない涙。
鼻血って大人になるとほとんど出ないのに。
しかも、かなりの量で自分でも驚いた。笑
これは単なる体調ではなく、
情報過多に対する身体の調整反応だったのだと思う。
場の情報と自分の状態が一致したとき、
情報処理と放出反応が同時に起きることがある。
後からあらためて知った。
《最後の晩餐》のテーマは「裏切りと未来の選択」。
私はあの瞬間、未来の自分からの“選択の波動”を受け取っていたのだと、後になって気づくことになった。
帰国後、夜空を見上げ、ふと浮かんだ言葉があった。
「追いかけるのを、もうやめよう。」
それまでの私は、外側を追うことで未来を動かしていた。
でもそれは同時に、選択の基準を外部に置くことでもあった。
振り返ると、ひとつの問いが残る。
同じ場所に訪れている人はたくさんいる。
しかし、何も感じない人と、強く反応する人がいるのはなぜか?
その違いは、
受け取る側の準備や人生のテーマ、
いま立っている位相の違いにあるのかもしれない。
場所は“きっかけ”にすぎない。
場には場の固有性がある。
しかし共通しているのは、
その体験を通して、認識が変わり、選択が更新されること。
どこに行ったかではなく、そこで何に気づき、
何を選び直したか、ではないだろうか。
世界には、強い情報を保持する場所がある。
人は、ときにそうした場所との共鳴を通して、選択を更新している。
そのサインは、特別なものではなく、場所や身体の反応など、
日常の中にすでに現れている。
再び過去の何かが現れたり、「同じ選択を繰り返している」と感じるとき、それは、選び直しのタイミングなのかもしれない。
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