見出し画像

一乗谷城(福井県福井市/日本100名城)

戦国大名として有名な朝倉氏の本拠

先日5月21~23日にかけて北陸を旅した際、福井県福井市にある一乗谷城(一乗谷朝倉氏遺跡)を訪れた。戦国時代に越前を治めた朝倉氏の本拠地で、日本城郭協会により「日本100名城」に選定されている。

2024年3月16日、北陸新幹線が金沢駅から敦賀駅まで延伸されたことにより、福井県は東京から飛躍的に行きやすくなった。北陸新幹線の中で最速の「かがやき」も停まる福井駅から、南東に10km強。市街地を抜け、田畑に囲まれた道を車で20分ほど走った先に、一乗谷はある。

Googleで「一乗谷」と画像検索して空撮写真を見ていただければ一目瞭然なんだけど、ここはまさに「谷」と呼ぶに相応しい地形の場所である。突如として平野が途切れ、両脇にそびえる山の間を縫うように、狭まった奥に向かって、細長い土地が曲がりくねりながら延びているのが分かる。

この地には、越前朝倉氏の初代当主である朝倉広景(1254~1352)が南北朝時代に本拠を構えたらしい。ただ、本格的に発展したのは、彼から数えて7代目に当たり、「最初の戦国大名」とも呼ばれる朝倉孝景(1428~1481)の時代だろう。

この朝倉孝景の生没年に着目すると、歴史の好きな方ならばピンと来るのではないだろうか。そう、この期間に、一般的に「戦国時代の端緒」とされている応仁の乱(1467~1477)が起こっているのである。

この大乱によって荒廃した京の都から、公家、高僧、学者といった、いわゆる“文化人”が一乗谷に大勢避難してきたことで、この城下町には華やかな京文化が栄え、人口は1万人を超えたという。

比較として、織田信長(1534~1582)の築いた安土の街が人口5000~6000人、後北条氏が最盛期を迎えていた当時の小田原も人口6000人ほどと推定されているため、かなりの規模であったことが窺える。

なお、織田信長に滅ぼされることとなる朝倉義景(1533~1573/11代目)の父も朝倉孝景(1493~1548/10代目)という名前なので注意が必要である。当然ながら彼は、偉大な曾祖父にあやかって故意に同名を名乗ったわけだけど、後世の僕らからすると紛らわしいことこの上ない。

もっとも、7代目の朝倉孝景は元々教景を名乗っており、敏景、教景、孝景と三度も改名したようである。僕は彼について興味を抱いたので、次の段で紹介する朝倉氏遺跡博物館にて史料を手に入れた(下画像右)。

400年以上経って見つかった“落とし物”

一乗谷に到着して、まず訪れたのが福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館である。開館したのは2022年10月1日。外観は現代的で、館内には清潔感が漂っていた。

ここでは、朝倉義景がのちに室町幕府の第15代将軍となる足利義昭(1537~1597)をもてなしたとされる朝倉館が原寸大で再現されていたり、発掘された遺構がそのままの状態で保存されていたり、城下町の巨大ジオラマがあったりして、予想以上に見応えがあった。

上画像のジオラマでは、市井の人々の様子が細かく描写されていて面白かった。従者を連れた侍、刃物の研師とぎし医師くすし縫物師ぬいものし、土間に穴を掘って貯金を埋める男性などなど――。一乗谷でのリアルな生活を垣間見ることができた。

もちろん、ほかにも書簡、絵画、刀剣、焼き物など、多種多様な展示がなされていて、興味は尽きなかった。

この一乗谷朝倉氏遺跡では、日本最古の将棋の駒が発掘されているんだけど、僕は戦国時代の将棋に「酔象すいぞう」なる駒が存在したことを初めて知った。

真後ろ以外の全方位に移動でき、敵陣に入ると「太子」に成る。太子は王将と同じ動きをし、盤上にあると、元々の王将を取られても敗北にならないという。将棋の戦略の幅を大きく広げる、非常に興味深いルールである。

一乗谷朝倉氏遺跡で発掘された中には、大量の銭貨もある。上画像の銭貨は、現在の貨幣価値で2〜3万円相当とされている。どうやら、戦国時代当時の商人が落としてしまった可能性もあるらしい。可哀想だけど、こうした生活に根差した逸話を小説内に差し挟んでいくのは結構好み。それにしても、“落とし物”が出てきたのが400年以上経ったあととは、歴史ロマンがある。

また上画像は、織田信長が一乗谷に侵攻してきた際、井戸の中に隠したと思われる大量の銭貨である。一時的に避難して、あとで戻ってきたときに取り出そうと考えたのだろうけど、それは叶わず、やはり400年後に発見されたというわけだ。

ルネサンス期イタリアのゴブレットも

この博物館では、遺跡の発掘・整備・保存と、遺物の分析についても、大々的に説明の場所が設けられていた。

例えば、朝倉館の庭園近くから出土したガラス片は、科学分析の結果、成分がケイ素(79%)、ナトリウム(9%)、カルシウム(7%)、カリウム(2%)、マグネシウム(2%)、アルミニウム(1%)で構成されていることが分かった。

様々な分野の専門家と協力して調査したところ、なんとこれは16世紀の中頃にヴェネツィアで作られたゴブレットの一部だと判明したという。ルネサンス期イタリアの産品が戦国時代の越前で使われていたなんて、ワクワクを通り越してゾクゾクしてしまう。

当時のトイレに遺された生活者の排泄物も、実は重要な史料となる。当時の人々が何を食べていたのか分かるからだ。実際に、ちょうど今年4月、古代遺跡に残された排泄物から見つかった寄生虫の卵が決め手となり、渤海から日本に派遣されていた使節の来訪先が秋田だと判明した。こうした地道な調査が、日々の新発見に繋がっている。

先に博物館を訪れるのが吉

一乗谷朝倉氏遺跡博物館を出ると、少しばかり南に下ったところにある復原町並を見て回った。この町並は、その名の通り“復原”ながら、発掘調査で見つかった往時の石垣や礎石をそのまま使用しているため、一乗谷での生活を偲ぶことができる。

それから、近くに架かっていた御屋形橋おやかたばしにて一乗川を渡り、本記事のサムネイル画像ともなっている唐門をくぐると、朝倉館跡を含む一乗谷朝倉氏遺跡を歩いた。

先ほど一乗谷朝倉氏遺跡博物館で復元した館を見てきたばかりだったため、建物や花壇(上画像)の位置関係がよく分かった。この地を訪れる際には、最初に博物館を訪れて史跡の概要を掴んでから散策に出ることをオススメしたい。

まったくの余談ながら、この館跡を取り巻く堀には無数の鯉が住んでおり、唐門の前では人工飼料が売られている。僕もこれを撒いてあげたんだけど、横着をして口を開けたまま偉そうに待っている“主”のような巨大な鯉は態度が気に入らないので、多少離れていても遠くから懸命に泳いでくる若手の鯉が多くありつけるように投げた。

カフェ「Logy STAND」がオススメ

あと、一乗谷を訪れる直前、腹ごしらえをした近場の「Logy STAND」というお店があまりにも美味しかったので、一緒に紹介しておく。

サンドイッチが売りのお洒落なカフェで、もし登城される機会があれば、是非立ち寄ってほしい。本当に絶品だった!


いいなと思ったら応援しよう!