見出し画像

絶滅形式 【解説】

 レイ・ブラシエが哲学的に徹底した「絶滅」という概念は、単なる生物学的な死や、物理的な消滅を意味するものではありません。

ある生物種が滅びること。
惑星が崩壊すること。
人類が消滅すること。

これらはすべて、なお「死」や「崩壊」について語ることのできる出来事です。

ここでいう絶滅とは、そうした死や消滅が出来事として現れ、記述され、思考されることを可能にしている現象的な場、情報的な場そのものの消滅を意味します。

つまり絶滅とは、何かが現象することの終わりではなく、

現象することそのものの終わり

なのです。

この意味において絶滅は、我々人間にとって絶対的に思考することのできない、「概念でない概念」とでも呼ぶべき奇妙な位置を占めます。

なぜなら、絶滅を思考しようとするその瞬間にも、すでに思考は存在しているからです。

「絶滅した状態」を思考したとしても、それは絶滅ではありません。
そこには依然として、その状態を思考している思考が存在しています。

さらに、

「絶滅は思考不可能である」

と思考したとしても、それもまた絶滅ではありません。

そこにはなお、「絶滅は思考不可能である」という思考が存在しているからです。

したがって絶滅は、単にまだ知られていないものでも、認識能力が不足しているために理解できないものでもありません。

絶滅とは、

思考が存在するかぎり、原理的に思考することのできないもの

なのです。

ここで一つの問題が生じます。

この絶滅の形式は、あくまで「人間にとっての限界」にすぎないのでしょうか。

つまり、カント哲学における時間・空間・カテゴリーのように、人間の認識形式に属する超越論的な限界なのでしょうか。

それとも絶滅形式とは、人間の認識形式をさらに根底から規定している、実在そのものの形式なのでしょうか。

言い換えれば、

人間の認識形式が絶滅形式を持っているために、我々は絶滅を思考できないのでしょうか。

それとも、

実在そのものが絶滅形式を持っており、人間の思考もまたその実在から生じた存在であるために、思考の内部にも絶滅形式が刻印されているのでしょうか。

結論から言えば、

絶滅形式は、実在の形式です。

なぜそう言えるのでしょうか。

それは、絶滅の不可能性が、人間の意識や認識能力に固有の問題ではないからです。

絶滅という言葉が指し示そうとしているものを、より一般的に表現すれば、次のようになります。

存在するものは、自らの完全な非存在を、自らの存在の一形式として内包することができない。

ある存在者が存在しているならば、その存在者はまだ完全には絶滅していません。

反対に、その存在者が完全に絶滅しているならば、もはやその絶滅を、その存在者自身の存在内部に保持することはできません。

たとえば石が完全に消滅したならば、「その石の完全な消滅」は、もはやその石の内部にある状態でも、その石の性質でもありません。

国家が完全に消滅したならば、その国家の完全な消滅を、その国家制度内部の一状態として保持することはできません。

ある哲学が完全に絶滅したならば、その絶滅を、その哲学自身の体系の一命題として保持し続けることはできません。

そして思考が完全に絶滅したならば、その絶滅を、絶滅した思考自身が思考することはできません。

ここで問題になっているのは、石や木に人間と同じような意識が存在する、ということではありません。

絶滅形式とは、

「存在者は自分自身の絶滅を認識できない」

という心理学的命題ではないのです。

問題は認識以前にあります。

絶滅形式が示しているのは、

存在者の完全な非存在は、その存在者自身の存在内部には成立しえない

という、存在そのものの形式なのです。

したがって、人間の思考における絶滅の思考不可能性は、このより一般的な実在形式の特殊な現れとして理解することができます。

思考だけが特別に絶滅形式を持っているのではありません。

むしろ、

思考もまた、他のあらゆる存在者と同様に、絶滅形式によって規定された実在の一部である

ということです。

ここから、認識論と存在論の関係は反転します。

通常の超越論哲学では、人間の認識形式が、世界がどのように現れるのかを規定すると考えます。

しかし絶滅形式から考えるならば、むしろ、

人間の認識形式そのものが、実在の形式によって規定されている

と考えなければなりません。

絶滅が思考できないのは、人間の知能が不足しているからではありません。

どれほど認識能力を拡張しても、
どれほど科学技術が進歩しても、
どれほど知能が向上しても、

絶滅した思考が、自らの絶滅を思考することはできません。

なぜなら、その不可能性は能力の程度から生じるのではなく、

思考とその完全な非存在との形式的関係

から生じているからです。

したがって、絶滅は「未知」なのではありません。

未知とは、存在している答えをまだ知らないということです。

しかし絶滅の場合、問題は知識の不足ではありません。

絶滅した思考が自らの絶滅を思考するということ自体が、形式的に成立しないのです。

ゆえに、

絶滅は未知なのではなく、不可能なのです。

そしてこの不可能性は、人間の認識によって作られた不可能性ではありません。

思考が「絶滅は不可能である」とそのように考えているから不可能なのではありません。

絶滅そのものが、思考の存在と両立しないという形式を持つために、不可能なのです。

ここに決定的な違いがあります。

絶滅は、

「思考される限界」ではありません。

もしそうであるならば、それはまだ思考の内部にある一つの限界概念にすぎません。

絶滅とは、

「思考そのものを限界づけている形式」

なのです。

思考は絶滅を表象することができません。

絶滅に対応することもできません。

それにもかかわらず、絶滅は思考がどこまで思考たりうるかを絶対的に規定しています。

この意味において、絶滅は単なる認識論的限界ではなく、

思考を外部からではなく、実在的に枠づけている形式

であると言えます。

したがって、

絶滅とは、形式的実在である。

絶滅という何らかの対象が、世界のどこかに存在しているという意味ではありません。

絶滅は対象ではありません。

むしろ、

実在するもの一般が、自らの完全な非存在を自己の存在内部に包摂することができない

という形式そのものが、絶滅なのです。

人間において、この実在的形式は、

「思考は、自らの完全な非思考を思考することができない」

という絶対的不可能性として現れます。

現象場について言えば、

「現象場は、自らの完全な非現象化を現象させることができない」

という形式になります。

存在者一般について言えば、

「存在するものは、自らの完全な非存在を、自らの存在形式として保持することができない」

という形式になります。

したがって、絶滅形式は、人間の認識形式の一つなのではありません。

逆です。

人間の認識形式の方が、実在の絶滅形式によって規定されているのです。

絶滅は、限界についての思考ではありません。

絶滅は、思考の限界そのものです。

そして、その限界が思考によって恣意的に構成されたものではなく、あらゆる存在者の存在と非存在の関係において成立する以上、

絶滅とは、実在の形式である

と言わなければならないのです。

いいなと思ったら応援しよう!