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アートのnote#5「美術史的には正解だけど…、『時代のプリズム』展を観て感じた違和感の正体」(国立新美術館)

 主役級、準主役級の役者が次々に出て来るのだけど、最終的に見終わった感想は、何か消化不良を感じてしまう。今回の「時代のプリズム 日本で生まれた美術表現1989-2010」展を観て思ったことを一言でまとめると、そんな感じになってしまう。

 決して最初からそんな印象だった訳では決してない。プロローグやイントロダクションでは、ヨーゼフ・ボイスやクリスト、ナムジュン・パイクや村上隆、宮島達男といった錚々たるメンバーの資料や作品が展示されていて、「これが序盤なら、本編は一体、どんなものになるのだろう」と期待を膨らませるものだった。

そして始まったレンズ1(1章)「過去という亡霊」では、期待が大きかっただけに、不安視した部分もあったが、「過去という亡霊」というテーマが明瞭で、日本の侵略戦争や沖縄問題、核や放射能といった、現在まで続く、日本の”過去”の問題を浮かび上がらせる展示が連なっており、興味深く鑑賞できた。

 しかし、次に続く、レンズ2(2章)の「自己と他者と」、レンズ3(3章)の「コミュニティーの持つ未来」という2つの章では、キュレーションについて考えさせられることがあった。まず、レンズ2の「自己と他者と」というテーマ設定の枠組みが大きすぎたことだろう。「自己と他者と」という枠組みには、基本的に「他者性」が存在する作品であれば、すべてが対象になるという、枠組みとして意味をなさないほどの巨大な枠組みになる。

 展示では、特にジェンダーとナショナリティー、さらに再解釈された日本文化という小テーマが設定されていた。この時代は、多様性が広がり始めた時代であり、グローバリゼーションが世界を覆いだした時代だという意味から、それらのテーマが選ばれたことは理解できる。けれど、それらの枠組みの中からなぜこの作品を選び、他の作品が選ばれなかったのかという部分で、その疑問に明確に答えられる基準のようなものが感じられなかった。

 基本的にキュレーションとは、選別した情報に独自の視点や解釈を加え、新しい価値観を付与する作業である。しかし今回の「時代のプリズム」展では、そのような「独自の視点」や、「解釈」によって、「新たな価値観を付与する」ような、キュレーションの形跡は見られなかった。ただ、それはあえて、「独自の視点」や「解釈」を極力無くすことで、「日本(で生まれた)」、「美術(表現)」、「史(1989年から2010年)」という「日本美術史」的な流れの中で、多様な「時代のプリズム」を提示したかったのではないかという印象を受けた。

 確かに今回の展覧会が設定する22年間には、様々な「時代のプリズム」という美術表現が生まれるような、多様な時代であったことは確かだ。そして「国内外、50を超えるアーティストの実践を通して、その多様な表現の軌跡をたどり、そして検証します」(公式サイトより)という狙いも理解できるが、やはりなぜこの作品が選ばれ、他の作品が選ばれなかったのかという疑問に対して、鑑賞者を納得させるほどの基準が見えてこない部分での違和感は残り続けた。

 さらにレンズ3(3章)の「コミュニティーの持つ未来」では、現在まで続く日本特有の「アート・プロジェクト」や「アート・フェスティバル」隆盛の流れの、前史としての「地域社会や既存のコミュニティーとの関わりを模索し、新たな関係性を構築していくプロジェクト」(公式サイトより)が紹介されていくのだが、この部分でも違和感が残った。

 例えば、「蔡國強といわき」に関連した展示部分について言えば、この関係性をノンフィクションとしてまとめた『空をゆく巨人』(川内有緒著)を読めば、このプロジェクトがいかに壮大で、感動的なプロジェクトであるのかということが理解できる。また2023年に国立新美術館で開催された『蔡國強』展でも紹介されていた「いわきプロジェクト『満天の桜が咲く日』」の作品映像を観るだけでも、その関係性が生み出したものの凄さがわかる。

 しかし、今回の展示の「蔡國強といわき」の部分を観てみると、小規模な展示空間内に、実際の動きとはかなりスケールダウンした「展示」としての作品が、こじんまりと置かれているだけで、その凄さを知っている者からすると、本来のプロジェクトはこんなものではないのにと感じてしまうようなものになっていた。

 そういう部分で言うと、他のプロジェクトに関しても、「日本の美術制度に対する反発」といった文脈を知っていれば読み解けるものや、地域との関わりの中から生み出された作品の一部を紹介するものがあったが、プロジェクト開催時の熱量や、全体像を通して生まれる凄みや迫力のようなものが、抜け落ちているように感じた。

 確かに、過去のプロジェクトを資料や作品を用いて、当時の熱量や、現地で生み出された成果を「作品化」して、本来の魅力を残したまま提示することは難しいかもしれない。しかし、「コミュニティーの持つ未来」という展示に関して言えば、「作品」や「作家」に焦点を当てるというよりも、地域やコミュニティーとの関係性に焦点を当てた「プロジェクト」を紹介する「展示」に重点を置いたことで、実物の作品や作家自体が持つ魅力や凄みという部分が伝わりにくいものになっていたように思う。

 全体を通して、どこか先細ってしまった印象の理由は、「日本美術史」において、2010年代以降、大きく発展していくことが明らかな、「アート・プロジェクト」や「アート・フェスティバル」との接続を意識した「美術史」重視のキュレーションを行ったことで、「作品」や「作家」よりも、「プロジェクト」の紹介に重きを置いた点にあるように思う。

 区切られた22年の流れを「美術史」的に提示するには、数多くの作品やプロジェクトを紹介する必要に迫られた今回の「時代のプリズム」展。多様な時代に多様な表現が生まれたことを提示すために選択した手段が、結果的に「プリズム」の乱反射を招き、全体的にまとまりのつかない、ぼやけた印象を残すものになってしまったように思う。

 今回、日本を代表する規模の国立美術館で、昭和の終焉から、平成の前期、中期という日本の大転換期を総括するような展覧会が企画されただけに、それがどんなものになるかと期待して会場を訪れた人も多かったと思う。そのような人々に対して『時代のプリズム』展が、果たしてどれだけの期待に応えられたのかは、展示を観て以降、一か月以上、この展示について考えていた自分なりに答えるならば、「美術史的には正解だけど…」というフレーズに集約されるように思う。

展覧会詳細
会期 2025年9月3日(水)〜2025年12月8日(月)10:00 〜 18:00
金曜日・土曜日は20:00まで
入場料一般 2000円、大学生 1000円、高校生 500円、中学生以下・障がい者手帳提示と付き添い1名 無料
会場 国立新美術館(東京都港区六本木7-22-2)
公式サイト https://www.nact.jp/exhibition_special/2025/JCAW/

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