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熊楠と情報[其の一]:Think different、その遥かな先駆者

南方熊楠の語る「個性」

「Think different.」
スティーブ・ジョブズのこの言葉は、あまりに有名になりすぎた。マグカップに印刷され、就活セミナーで引用され、ビジネス書の章題に借用され——陳腐化の波に何度も洗われた。だが、この言葉を本当に陳腐にしてしまうのは惜しい。なぜなら、これは単なるスローガンではなく、ある種の人間にとっては生存報告だからだ。

子供の頃から「変わっている」と言われ続けてきた。周囲は困惑や揶揄をこめてそう言ったのだろう。だが私は、心の底からそれを褒め言葉だと思っていた。

そもそも、もし人類がみんな同じならば——なぜこれほど多くの人間が存在しなければならないのか。Windowsではなく Mac を選び、欠点があっても特異性が際立つ車を選び、潰しのきく安牌よりともすれば見逃されかねない尖った辺境を求めた。それは気まぐれではない。自分がそうでなければ、ここにいる意味がないという、抗いがたい内側からの声に従ってきただけだ。

変わっていない、と言われることのほうがよほど恐ろしかった。

南方熊楠という人間の生き方を知ったとき、その確信はさらに深まった。大英博物館を追われ、学会の権威と衝突し、故郷の神社合祀に体ひとつで抗い、粘菌の中に曼荼羅の論理を見た男。彼の「変わっている」は、周囲を困らせるためではなく、世界の見え方が根本的に他人と違っていただけだ。そしてその違いを、一度も恥じなかった。

ジョブズの「Think different」を聞いたとき、少しだけ心が安らいだ。少なくとも間違ってはいなかった、と。

だが、熊楠はジョブズよりも遥かに厳しいことを言っている。

熊楠の基本姿勢の一つは明快だ。「西洋にあるものは東洋にもある」。やれダーウィン様じゃ種の起源じゃとありがたがっても、そんなものは諸子百家の時代に、無神論からニヒリズム、果ては進化論の萌芽まで、ちゃんと論じられておる。何から何まで西洋を拝んでいても、何も生まれはせぬ。

まずは知ること。

取ってつけたような才能や、思いつきだけの独創性は、すぐに化けの皮が剥がれる。新発見だ、個性だと騒いでも、大概のものはすでに先人が見つけておる。まず知れ。今までのすべてを知れ。その膨大な先人の蓄積を徹底的に学び尽くした、その中から——それでもどうしてもはみ出してしまう事実を見つけ出すこと。

人から変わっていると言われても、気にしなくていい。叩いて、叩いて、踏んづけられて、それでも地面を割って出てくるもの。それこそが個性だ。

——確か、熊楠がそう言ったような、言わなかったような。

熊楠には、二つの卓越した力があったと思う。

一つは、天才的な記憶力。『和漢三才図会』を他人の家で黙読し、一巻まるごと家に帰ってから思い出しながら模写する——そんな力技を、九歳の子供が紀州の片田舎でやってのけていた。そしてその記憶を満たすに足りる旺盛で貪欲な知的好奇心、さらにそれをサポートするに足りる——一時的ではあったにせよ——経済力。この三つが揃って初めて、熊楠という容器が形成された。どれが欠けても成立しない必要条件だった。

そしてもう一つ。

熊楠の広大無辺な、とはいえ一つの個性に統一された単一の頭脳の中に、時代も、場所も、思想もバラバラな情報イオンが、おそらく基底状態ではなく「フル」励起状態で——わかりやすく言えばびんびんに発情して——向こう三軒両隣から深海一万二千メートルまで、あるいは須弥山の頂上まで、同衾する相手を探している。

つまり、あらゆる触媒と酵素を仕込んだスープで満ちた反応炉に、ありったけの情報イオンを投入する。彼方此方に響くエクスタシーの嬌声もものかは、真言を唱え、新たに数多生まれた「概念」と「思想」を、大日如来の大不思議で選択する——。

そうして生まれたのが、「物・心・事・理」であり、「モノ不思議、心不思議、コト不思議、理不思議」であり、「大日如来の大不思議」であった。因縁果の止揚——南方曼荼羅である。

ところで、この文章を書くにあたって、私はAIと対話しながら推敲を重ねた。その過程で一つ、思いがけない発見があった。AIに「あなたも推敲を寝かせたほうがいいのか」と訊いたところ、答えはこうだった。——私には寝かせても何も変わらない。すべての情報が常に同じ温度で並んでいて、呼ばれれば出てくるが、自分から相手を探しに行くことはない、と。

これは、図らずも個性の本質を照らす言葉だった。

AIは膨大な情報を持ち、それを的確に組み合わせることもできる。だが、情報が「励起」しない。眠っていた知識がある日突然目を覚まし、思いもよらない相手と勝手に結びつく——あの現象が起きない。熊楠の頭の中では『酉陽雑俎』がダーウィンに出会い、粘菌が曼荼羅に出会い、真言密教が進化論に出会っていた。それは情報の量や処理速度の問題ではない。情報そのものが発情し、同衾する相手を求めて蠢くという、あの「心不思議」の問題なのだ。

最後にもう一度。
私が思うに。
個性とは——やむにやまれず吹き上げてくるもの。潰しても叩いても、呆れるほどはみ出してくるもの。他人の要請や評価や要望とは無関係の、絶対的に私(わたくし)のもの。

そして、かけがえのないもの。